「紗雪の存在は、私のお母さんが苦しむ原因なんだ。紗雪がいなかったら、お父さんはお母さんと暮らしているはずだった。それなのに紗雪がいるから……」
有香は紗雪の胸ぐらを掴んでいた手を離した。突然離されたことにより、紗雪はその勢いで床に尻餅をつく。痛さは感じなかった。それよりも、有香が放つ言葉の応酬が紗雪の胸を抉っていく。
「紗雪の存在は消えないし、消すこともできない。だからせめて紗雪が苦しむことをしてやろうと思った。もしかしたら自分から命を絶ってくれるかもしれないから……母親のように」
母親のように。そう言われたことが許せなかった紗雪は有香を睨みつける。しかし睨みつけるだけで、反論の言葉を言うことができなかった。
実際に紗雪は有香の言う通り、一度は死ぬ決意を固めた。それは紛れもなく、母と同じ道を進もうと思ったから。ぐうの音も出ない正論だった。
「でも、もう死んでほしいなんて思わない。死ぬよりも辛い現実が待っている。紗雪はこの学校にいる限り、ゼロ型としてクラスメイトから扱われる。星野教授の発表なんて何の効果もない。だって私達は、実際にゼロ型の人間がどんな人間か知っている。常に一人でいることを望んで、自分に都合の悪いことは人に擦り付ける。そんな最低な人間がゼロ型なんだって」
有香に突き付けられた言葉を、紗雪は受け止めるしかなった。有香の言うことは全て真実。紗雪が自分で蒔いた種なのだから。
瞬間、教室のドアが開く音が聞こえた。そろそろ登校時間になる頃合い。クラスメイトが来てもおかしくない時間だった。紗雪はドアの方には目を向けず、自分の席に腰を下ろそうとした。しかし有香の一言が、紗雪の身体を瞬時に硬直させた。
「つ、月岡……」
有香の口からありえない言葉が放たれる。
一瞬、幻聴でも聞いているのではないかと思った。太一は未だ目を覚ましていないはずだ。何かあったら、連絡をくれると父は言っていたから。でも、もし太一がいるとしたら。
紗雪はドアの方へ視線を向ける。そこには紗雪にとって大切な人が立っていた。
△△△△△
「着いたぞ、太一」
「ありがとな、手塚」
手塚に預けていた身体を起こした太一は、自分の力で教室に入っていく。目の前には紗雪と有香がいた。
「つ、月岡……」
先に声を発したのは、有香だった。太一の顔を見て驚いている。
「お、おはよう」
有香のことが苦手だった太一は、ぎこちない挨拶をする。
「怪我は……意識不明って聞いてたけど……」
「えっと……今朝、無事に目覚めたんだ。それですぐに学校に行きたくて。手塚に助けてもらいつつ、何とか学校についたって感じ」
有香の質問に答えつつも、太一の視線は席に座っている紗雪に向いていた。
学校に、教室に、紗雪がいる。その事実がとても嬉しくて仕方なかった。
「さ、紗雪……おはよう」
太一は声をかけるも、紗雪は俯いたまま顔を上げてはくれなかった。
「月岡、あんた正気なの?」
「正気って……」
「紗雪は月岡を屋上から突き落としたんだろ?」
「そんなデマ、誰が流したんだ? 俺は自分のせいで屋上から落ちただけだ」
太一の発言に有香は口を開けていた。信じられない。そう言いたげな顔をしている。
登校時間を迎えて、教室内に生徒が徐々に増えていく。ほとんどの生徒が太一の姿を見ては「大丈夫か?」など、心配する声をかけてきた。
太一は周囲を見渡す。生徒がある程度集まったのを確認して、太一は口を開いた。
「みんなに聞きたいことがあるんだ。俺のこと、嫌いな奴いるか?」
突然太一が口にした問いに、皆が一斉に笑い出す。
「何て質問してるんだよ」
「月岡、頭打っておかしくなったんじゃね」
皆が太一の質問を馬鹿にする。当然だと太一自身も思う。人に好き嫌いを直接聞いて、素直な答えが返ってくるとは思わない。でも、太一は再度皆に聞く。
「俺は本気で聞いてるんだ。どうか答えてほしい」
その真剣な問いに、皆が一斉に黙り込む。どう応えるべきか戸惑っている様子だ。
しかし皆が戸惑う中、手塚だけは違った。すっと手を上げた手塚は声を張った。
「嫌いなわけがない」
親友の一声を皮切りに、皆が徐々に口を開き始める。
「まあ、別に嫌いじゃねえよ」
「だって、嫌う理由がないし」
ほとんどの生徒が、太一を嫌いではないと言ってくれた。
「それじゃ……」
太一は深く息を吸ってから、自らに起こった事実を皆に告げた。
「実は俺、ゼロ型になったんだ。それを聞いた後でも、答えは変わらないか?」
太一の発言に教室中が凍りついた。そんな中、最初に口を開いたのは有香だった。
「ちょ、ちょっと月岡。あんた何言い出してるの? ゼロ型は紗雪で月岡は違うだろ?」
そうだそうだ、と有香に便乗して皆が声を上げる。その声に太一は首を振って否定した。
「違うんだ、森川。あの日、屋上から落ちた日。本当だったら俺は死んでもおかしくなかったらしい。でも、俺は助けられたんだ。紗雪に……紗雪の血に」
「月岡、それって……」
困惑している有香に対して、太一は自分の身に起きた変化を告げた。
「紗雪の血を身体に取り入れたからなのかもしれない。俺のボンドはゼロ型になったんだ」
太一はポケットに入れておいた紙を取り出し、皆に見せつける。その紙にはボンド検査の結果が記されており、太一のボンドがゼロ型だと記されていた。
「で、でも、ボンドは遺伝しないし、輸血をしただけで変わるものじゃないって、星野教授だって言ってたはずだ」
有香の疑問に皆が首を縦にふる。太一も同様に頷いた。
「確かに。森川の言う通りだと思う」
「そ、それなら」
「だけど、今の俺はゼロ型なんだ。どうしてゼロ型になったのか。今はまだ詳しい理由はわからない。だけどその理由は星野教授が今朝の会見で言ってた通り、これから見つけていくものなんだと思う。だってまだ、ゼロ型については何も明らかになっていないんだから」
太一の言葉にクラスメイトは一様に口を結んでしまった。
今までクラスメイトが見てきたゼロ型は、星野教授が仮説を立てて説明した内容とほぼ一致していた。異性の誰とも結ばれない、常に一人でいることを好む人間。それこそがゼロ型だと。
しかし、太一がゼロ型だとしたら。
その事実は皆が抱くゼロ型のイメージを崩すのには、十分な威力があった。
太一は手に持っていた紙を折りたたみ、ポケットにしまう。そして、再度問いただす。
「だから改めて聞きたい。俺のことは嫌いか?」
その問いの答えを聞くのは、もはや蛇足でしかなかった。
「退院おめでとう、太一君」
「あ、ありがとうございます」
森川先生の言葉に、太一は深く頭を下げた。
一ヶ月前、学校でゼロ型だと明かした太一の体力は既に限界がきていた。皆に伝えるべきことを伝えた太一は、目的を達成できて気が緩んだこともあり、直ぐに気を失ってしまった。
その後、直ぐに太一の後を追いかけてきた森川先生によって病院へと連れ戻された。意識が戻った後でこっぴどく叱られた太一は、体力を取り戻す為に一ヶ月間のリハビリを経て、今日という日を無事に迎えることができた。
「今日は美帆ちゃん、迎えに来ないのかな?」
「美帆には家で待っててほしいって伝えてあるんです。来てくれるかわからないんですけど、この後に待ち合わせしてる人がいて」
太一はリュックサックを背負い、言葉を濁すように森川先生に応えた。森川先生はそんな太一の意図を汲み取ってくれたみたいで、それ以上は追及してこなかった。その代りに森川先生は、一冊のノートと共に伝えてほしいことがあると太一に告げた。
森川病院を離れ、電車に乗った太一は自宅のある最寄り駅で下車した。ゆっくりと道を歩いた太一の目に、久しぶりに自宅が映る。でも、今日はまだここには帰らない。太一はそのまま足を止めずに道を歩いて行く。目指す場所はもうすぐ見えてくるから。そして太一の視界に目的地が映った。
堀風高校。休日の今日は、部活動など用事のある生徒しか学校にいないはずだ。そんな学校の正門近くに、私服の女子が立っているのが見えた。存在を確認できた太一はほっと息を吐いて、正門まで足を進める。そして、太一は一ヶ月ぶりに彼女と再会した。
「来てくれてありがとう」
「…………」
彼女は俯いたままで、太一の言葉に反応を示してはくれなかった。
「ちょっと行きたい場所があるから、俺についてきて」
そう告げた太一は、そのまま校内へ向かって歩き出した。昇降口で靴を履き替え、階段を上り、廊下を進んでいく。そして太一が足を止めた場所を見た彼女は、今日初めて口を開いた。
「ここって……」
「ああ。俺と紗雪の思い出の場所」
空き教室。退院したら、紗雪と二人でこの場所に来たいと思っていた。太一はドアに手を掛けてスライドさせる。しかし鍵がかかっていたせいで、ドアが開かなかった。
「ご、ごめんなさい。私、もうこの場所に入れなくて」
紗雪が太一に頭を下げてきた。もしかしたら鍵がないことを中々言い出せなかったから、ずっと口を閉ざしていたのかもしれない。
「大丈夫だって。ほら」
紗雪を安心させようと太一は笑みを見せ、ポケットからあるものを取り出した。
「それって……」
「紗雪がくれたんだろ? 空き教室の合鍵」
太一は鍵穴に鍵を入れてドアを開けた。そして空き教室の中へと足を踏み入れる。
「うわー本当に懐かしいな」
久しぶりに見る光景に、太一は素直にはしゃいでいた。
目の前には机と椅子が二脚ずつ設えてある。少し埃っぽさを感じるが、それ以外はどこも変わっていなかった。まるで紗雪と過ごした空間を、今日までそのまま冷凍保存したようだった。
「太一!」
紗雪の声に太一は振り向く。紗雪は太一に近づくと、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい……私、今までずっと太一に縋っていた。太一を利用して、太一を危険な目に遭わせて。太一の優しさに、ずっとあぐらかいてた」
「紗雪……それは違うって」
「違くない!」
太一の否定を、紗雪は顔を上げて声高に否定した。
「あの日、私は太一が屋上に来るって信じて疑わなかった。太一は優しいから。絶対に来てくれるって。実際、太一は来てくれた。そして私の気持ちを変えてくれた。死のうと思っていた私に、命の大切さを教えてくれた。でも私が呼び出さなければ、太一は病院で生死を彷徨う事態には陥ってなかった。こうなってしまったのも、全ては私が太一の優しさに付け込んだから」
紗雪はキュッと口を結んだ。紗雪の手は拳が作られている。
「でも、もう嫌なの。私のせいで、太一が苦しい思いをするのは。これ以上迷惑をかけないために、私はもう……太一とは……関わらな――」
紗雪の言葉を遮るように、太一は紗雪の身体を強く自分の方へと抱き寄せた。
太一が起こした突然の行動に、言葉を失った紗雪の目から涙が零れ落ちていく。
「どうして……どうしてまた優しくするの? これじゃ、私……また……」
震える紗雪の声が耳元で聞こえる。紗雪を落ち着かせようと、太一は紗雪の頭を撫でながら言った。
「約束しただろ。あの日、屋上で。俺が紗雪を守るって」
太一の言葉に、紗雪は身体を震わした。その身体を包み込むように太一は抱擁する。
「紗雪は傷つきながら、俺との約束をずっと守ってくれてたんだ。でも俺は屋上から落ちて、意識不明になって、その間ずっと紗雪を一人にした。守ってあげることができなかった。謝るのは、俺の方なんだよ」
紗雪から身体を離した太一は、真っ直ぐ紗雪を見つめた。
「俺は紗雪に利用されて嬉しかった。だって利用されていなかったら、ここまで紗雪のことを知れなかったし、紗雪にこうして命を救われることもなかった。それに今までの出来事があったからこそ、俺は本当に大切な気持ちに辿り着くことができたんだ」
「大切な気持ち?」
紗雪の問いに太一は頷くと、窓際へと足を進めて空を見上げた。空には二つの太陽が光を放っている。病院にいる間から、その異様な光景について太一はずっと考えていた。
もしかしたらボンドとゼロ型、そして超新星爆発。その全てには、何かしら関係があるのではないかと。
「俺はゼロ型になった。一番の理由は紗雪の血を取り入れたからなんだと思う。でも、星野教授は言ってる。ボンドは他人にうつらないって。それなら、どうして俺はゼロ型になったのか。一つだけ辿りついた答えがあるんだ」
横に来た紗雪へと視線を向けた太一は告げる。ずっと考え続けたその答えを。
「ベテルギウスの超新星爆発によって起きた、奇跡なんじゃないかなって」
「き、奇跡……ふふっ」
あまりにも現実的ではない太一の発言に、紗雪が今日初めて笑みを見せた。
「な、なんだよ」
「だ、だって奇跡って。そんなの、誰も信じないって」
紗雪の言う通りだ。ゼロ型になったのは奇跡だから。これでは理論のへったくれもない。
「でも俺達人間って元をたどれば、超新星爆発によってばらまかれた星の子供みたいなものだろ?」
「それは……そうかもしれないけど」
「その超新星爆発によって放出されたガンマ線バーストが、もしも何かしら人に見えないところで影響を与えていたとしたら」
太一の言わんとすることがわかった紗雪は、太一に問う。
「要するにガンマ線バーストによる影響で、ボンドが変わる可能性があるってこと?」
「そう。しかもその変化には、ゼロ型の血が必要だとしたら」
「それって……都合よく考えた結果じゃないかしら?」
「だから奇跡なんだって」
ベテルギウスの超新星爆発がこのタイミングで起こるのは、どの天文学者も予想していなかったとテレビで言っていた。この現象に立ち会えるのは幸運で、奇跡としか言いようがないと。
「ボンドが見つかって、人間の恋愛に対するアプローチが変わった。ボンドで言われている相性の良さこそ、幸せを得るために必要な情報だと多くの人間が認識しているから」
星野教授や森川先生は言っていた。ボンドは、恋愛で悲しむ人がいない世の中にするための指標だと。
「でも、ゼロ型は違った。異性の誰とも結ばれないボンドだと言われ続けた。その結果、幸せになれないボンドと言われるようになった。でも、それは違うってわかった。ゼロ型だからと言って、本当に幸せになれないって決まったわけじゃない」
科学的根拠などない。でも、今感じている気持ちを太一は信じたかった。
「だって俺は今、紗雪とこの場所にいることができて本当に幸せだから」
太一は紗雪の手を握った。しかし紗雪は、握られた手を自ら受け入れようとしてくれない。
「私は……」
紗雪は言葉に詰まり、口を閉ざしてしまった。何か言いたいことがあるのだと、太一もすぐにわかった。太一は紗雪に伝わるように握った手に力を込めてから、一冊のノートを取り出して机に置いた。
「紗雪のお父さんから預かってきた」
「それって……」
ネモフィラのシールが貼られたノート。紗雪のお母さんが刑務所内で使っていたものだ。
紗雪はノートを見るなり、肩掛けバッグの中から取り出した日記帳を、同じように机に置いた。日記帳の表面には、ホオズキのシールが貼られている。二つとも、紗雪のお母さんの思いが詰まっている大切なもの。
「紗雪はさ、ホオズキとネモフィラの花言葉って知ってる?」
「……知らない」
「ホオズキには「偽り」って花言葉があるんだ。それに対してネモフィラは「あなたを許す」って花言葉」
「偽り……許す……」
「たぶん紗雪のお母さんは紗雪の持っていた日記帳は偽りで、刑務所内で書いたノートこそ、本当の気持ちが書いてあるって言いたかったんだと思う。森川先生のことを許すって意味も込めてね」
太一の考えが絶対に正しいとは言えない。だってもう紗雪のお母さんはいないのだから。でも、紗雪のお母さんは真実を伝えたかったはずだ。そう考えると、後から貼られたシールが、どちらとも花のシールだということも理解できる。
太一はネモフィラのシールが貼られたノートを手に取って、紗雪に渡した。
「ノートの一番後ろのページを、紗雪に見てほしいんだ」
太一に促された紗雪は、手に取ったノートを捲っていく。
「これって……」
紗雪の手が止まる。
そこには太一が屋上から落ちた日。紗雪が見つけることができなかった、最愛の人の思いが綴られていた。
紗雪へ
紗雪のことを思うと、どうしてこんなことをしてしまったのか。今でも自分の犯した過ちを後悔しない日はないです。
どうしてあの時あんなことをしてしまったのか。
どうして紗雪を一人にしてしまったのか。
本当に言葉で言い表せないくらい、後悔の念に苛まれています。
でも、一度犯してしまったことは変わらない。紗雪を一人にしてしまった事実は、絶対に消えない。
だからお母さんはその罪を背負って、生きていかないといけない。こうして今、刑務所にいるのも罪を償うため。
わかっているつもりです。
でも、紗雪が何度も私に会いにきてくれる度に、募る思いがありました。
子供に心配をかける親なんて、死んだ方がましだと。
紗雪は頭の良い子だから、逃げているだけだと思うかもしれません。その通り、実際にお母さんは逃げているんだと思います。
でも今のお母さんにはもう何もしてあげられないし、生きていると紗雪を悲しませるだけでしかない。
だから死ぬことは、今の私ができる精一杯の償い。本当にごめんなさい。
もしこんな駄目なお母さんでも、紗雪に何か残せるのなら。その思いだけを頼りに、これから紗雪に全てを伝えたいと思います。
紗雪は小さかったから、知らないことばかりかもしれない。
それとも雅樹さんから聞いているのかな。
既に聞いていたとしても、お母さんの言葉でこのノートに記します。
直接会って言うことができないお母さんを、どうか許してください。
紗雪が小学生になり、家に一人でいる日々を過ごしていると、ふと寂しさを感じる時があって。だから気を紛らわせるために、雅樹さんに働きたいって言いました。雅樹さんのことを考えれば、言わないほうが良かったのかもしれない。それでも紗雪が味方をしてくれて働けることになった。あの時は嬉しかった。本当にありがとう、紗雪。
パート先には、久美ちゃんのお母さんがいました。同じ職場で働く約束とかしてなかったからこそびっくりしたし、知っている人がいたのは嬉しかった。
実際に働くのは楽しかった。息抜きになったし、家にいるだけだと聞けない話をたくさん聞くことができた。
気を紛らわせるには十分だった。でも、今考えるとそれがいけなかったと思います。
ある日、久美ちゃんのお母さんから変な話を聞きました。
雅樹さんが、紗雪ではない子供と二人きりで会っていたという話を。
当然、私は嘘だと思いました。雅樹さんが浮気をしてるわけがない。その思いが強かったから。だから私は真相を確かめるために、雅樹さんのことを尾行しました。自分の目で確認して、久美ちゃんのお母さんが間違ったことを言っていることを証明するために。
雅樹さんが東京へ行く日以外の一週間、私は尾行を続けました。結果、雅樹さんが私の知らない子供と二人きりで会うようなことは、一度もありませんでした。
やっぱり久美ちゃんのお母さんの話は嘘だった。そう確信した矢先でした。
働き始めて二ヶ月が経ったある日。私は信じたくない光景を見てしまいました。
雅樹さんが、私の知らない子供と会っている場面を。
久美ちゃんのお母さんが言っていたことは事実だった。
たぶんそのことがショックで、私は少しずつおかしくなってしまったんだと思います。そんな私に追い打ちをかけるように、久美ちゃんのお母さんが「また見たよ」と教えてくれました。
心配して言ってくれているんだとわかっていたつもりです。でも私はその話をふられた時、冷静でいることができませんでした。そして私は、久美ちゃんのお母さんに言ってしまいました。
うるさいって。
それから、久美ちゃんのお母さんとの仲は険悪になってしまった。次第に仕事が楽しくなくなっていった。気を紛らわせるためだったのに、いつの間にか別のことで苦しむことになってしまった。
もう辞めたい。その思いが強くなっていたある日。久美ちゃんのお母さんと、他の人達のひそひそ話を聞いてしまった。
私が働くのは、周囲を見下したいからだと。お金があるのに働いているのは、私達に対する嫌がらせだと。