『……は? ちょ、待て…! 行くなよ汐里!』

 咄嗟に叫んだ声は届かず、汐里は既に引き返し始めていた。
 せっかく通り過ぎた距離五十メートル程を、入れ替わり初日に見せた走力とは全く異なる速さで以って、どんどんと縮めていく。

 三十。二十。十。

 そして、

「輝く――」

 声をかけ、その声がする扉に手をかけた瞬間だった。
 窓の外から見えた室内の様子。輝典以外に、もう一人いた。
 女だ。

『見るな! おい、汐里…!』

 必死になって叫ぶ琢磨。
 しかし、その過程の中でも、汐里の目には室内の様子全てが映っており。

「て、てる、く……うっ、うぇ…」

 瞬間、野球のボールでも当たったかと思われる程の痛みが、汐里の身体を伝って琢磨にも届いた。
 痛みは苦しみに、やがて苦しみは、吐き気にその姿を変えた。
 どこかお手洗いは。いや、それでは間に合わない、溝でも良いから、どこか。
 そう求める意思が、痛い程琢磨にも伝播する。

『馬鹿、吐くなよ! 大事にすりゃ気付かれるぞ!』

(そんな、こと――うっ…)

 分かってはいる。ただし、意識の内ではだ。
 気持ちは追い付かない。たった今見せられた現実には、とても「はいそうですか」と言える状態ではない。
 さっさと走り去って、とにかく学校の敷地から出てしまえば、あとはどうとでもなる筈だ。

 と、またも前方から見知った顔一つ。

「おつかれー、しお。忘れ物しちゃって、すぐに取って塾に――しお…!」

(知音……良かった、知音なら…)

 少しだけ気が緩んだ瞬間、汐里は足をもつれさせて前方へ。すんでのところで駆け寄った知音に支えられると、

「し、しお…! ちょっと、どうしたのよ…!」

「知音……私…」

 汐里がそれを口にする寸前で、意識の方が早く琢磨へと届く。
 咄嗟に『言うな!』と叫ぶも、またも琢磨の声は届かず。



「私……死にたい…」



 涙とともに、汐里の意識が崩れて落ちた。