どうして、そんなに穏やかな声が出せるのだろう。
 彼を今こうしている原因の一端は自分にあるのに、とお門違いな後悔まで出て来るというのに、どうしてそうやって言えるのだろう。
 彼の言葉、思い、行動に至る全て、汐里には理解が及ばなかった。

「どうして、そんなに強いの…?」

 しまった、と思った時には既に遅く、そんな言葉が口をついていた。

『また唐突だな。俺が強いって? どこがだ?』

「強いよ。少なくとも、私よりかは」

『どうしてそう思う?』

 琢磨の問いに、汐里は枕にしていた腕を解いて、今度は縁に背中を預けて答えた。

「貴方には、大切なものがあったから。妹さんはまだ生きているのに……私は、正直とっても怖い。死んじゃうことも、知音と美希を心配させちゃうことも、全部全部、怖い」

『それは――』

 確かにそうであろうが、そうでもなかった。

『それは、違うと思うぞ』

 汐里はすぐに、どうして、と返した。

『さっきの話だがな、やっぱり、変化ってやつは必要なんだよ』

「変化…?」

『あぁ。今は怖い、辛い、思うことはアホほど浮かぶだろ。だが、それは決してマイナスじゃない』

「何で? 私は、もうちょっとしか生きられないんだよ?」

『一日でも、あれば十分、いや十二分だろ』

 当たり前のように琢磨は言ってのけた。
 それは、琢磨が現に死んでいる(・・・・・)からであった。生前の琢磨でえあれば、そんな思いも浮かばなかったことだろう。

『知ってるか? 今じゃあ、日本の端から端まで行くのに、飛行機使えば三時間もかからないんだ。凄くないか?』

「すご――え、いや、何でそんな話…?」

『まぁ聞け。あくまで俺の持論だが、必要な時間は半日もいらない』

「どういうこと…?」

 尋ねる汐里に、こほんと一つ咳払い。

『やり残しがあったら怖いだろ。嫌だろ。悔しいだろ。でもな、今はそれが、半日ありゃ何だって出来るんだ。あぁ、国内に限った話な』

「うん…」

『三時間あれば、日本の端っこにいる大好きな人に、それも直接顔を見合わせて気持ちが伝えられる。四、五時間あれば車でも三つは県をまたげるし、六時間ありゃあもっと行ける。新幹線なら、その時間の内に気持ちを伝えてデートも出来て、一石二鳥ってな』

「何が言いたいの?」

 何が言いたいか。
 結論は、こうだ。

『君の方が強い。いや、強くなれる(・・・)んだ。それも、今よりもっと、更にずっとだ。綺麗にリミットが決まっている分、一日以上の余裕は確実にあると分かってる。さっき会長を誘えて、明日は言ってみればデートだ。それが終われば、またやり残しを全部洗って、次の日からでも遅くはない。勿論、君が望めばだけどな』

 望めば、叶う。
 その言葉は、良くか悪くか、汐里の胸に突き刺さった。

『俺はもういない。死んだからな。でも、君はまだいる、生きてる。動き出せば、自分から望んでいけば、何だってまだ出来るんだ。出来る身体を持ってるんだ。俺はそうは思わんが、今は俺に劣っていると思うのも良いだろう。ただ、それも努力次第で二転三転出来るなら、どうだ? あとたったの二週間しかない命も、そう考えれば、まだまだ捨てたものじゃないとは思えないか?』

 もう何度目になるかは分からないが、汐里は素直に、驚いた。
 ついさっき語られた昔話も、今見せつけられた持論も、琢磨はどちらも当然のことのように言い張っていたから。
 私よりも苦しんで、私よりも辛い思いをして、私よりも報われなくて。

 そんな思いを一瞬でも抱いていたのが、失礼もいいところだった。

 琢磨は微塵も、そんなことを考えてはいなかった。考えようとしていなかった。
 最小も時間でも、出来ることは残っている。そんな考え方、したこともなかった。
 今日踏み出したのだって、自分ではただ、意地のようなものだったのだ。だが琢磨は、それすらも変化の一つだと、そう言っているのだ。
 どうすれば、何を食べれば、こんなに豊かな人間になれるのだろうか。

「……お、思う」

『だろう? じゃあ、今の段階でどっちが強い、なんて線引きは必要ないわな』

「うん――貴方より、強くなるくらいじゃないと」

『その息だ。そう言ったからには、途中で投げ出さんようにな。少なくとも、自分からは』

 琢磨のそんな言葉に、汐里は強く「勿論!」と答えた。
 意気込みが勝ったからではない。
 そうやって明るく振舞いながら語る琢磨だったが、その中に少し感じ取れた後悔のようなものが、針や棘が刺さっているように、チクりと痛かったからだ。
 俺が出来なかった後悔を、せっかくこうして話している君には経験して欲しくない。

 そう言われているようで、自然と気合も入ったのだ。
 琢磨が死んだ原因は事故なのに、後悔なんて考える余地もなかったであろうに、それを幾らでも考えることの出来る汐里には、後悔しない残りを生きろと言う。

「どうかしてるね、仲村さんって。こんなに親切な人、初めて出会ったよ」

『悪いがそれも見当違い、視野が狭いってな。世界には七十億を超す人間がいるんだ。そいつら全員と話してみりゃ、その見解も変わるぞ、きっと』

「……かもね」

 ただ、自然と零れるだけの言葉。
 意識せず、それを美徳と思わず、特別だとも感じずに。
 命を繋いでくれたのが、この人で良かった。

 汐里は改めてそう感じた。
 もう一度大きく伸びをして、立ち上がる。

「ちょっと、長風呂しすぎちゃったかも。風邪ひかなきゃいいけど」

『なるようになるさ。明日のことは誰にも分からん』

「そうだよね。これからは、渚さんとも話を――」

 湯船の縁に手を置いて体重を支え、お湯から出ようとした、その瞬間。

「けほっ、こほっ…ごほっ…!」

『おい、大丈夫か? 本当に風邪でもひいたんじゃ――』


――コツン、コツン、コロコロコロ……――


 咳込むと当時に、何かが口から零れ落ちた。
 視界の先五十センチは排水溝前。

「……やっぱり。そろそろ、なのかな」

 キラリと光る、琢磨もどこかで見たことのある六角形。

 今までで一番大きな、ダイヤモンドの欠片が転がっていた。