文化祭の準備が始まって数日。
日も経ち週も過ぎ、幾つか月も超えてくると、流石に慣れもしてきた二人ではあったが、初日の夜は、それはそれは喧嘩をしたものだった。
湯浴みの際、いつも汐里が入る時間の人格は琢磨だったのだ。もうちょっと待って、まだ待って、あと少し待ってと、待てども待てども戻らない汐里の意識。結局、目を瞑りながら直観だけでシャンプーにコンディショナー、洗顔に身体と洗っていったのだが、順を間違えたり胸を触った触っていないで言い合ったりと、とにかくごちゃっとした夜を過ごした。
二日目、三日目と、それからは不思議なことにずっと汐里の人格で時間を迎え、以降喧嘩が起こることは無かった。
そうして何とか過ごしていると、お互いの癖や気になるところにも気が付き始めて、しかし認め合って受け入れ合って、二人三脚とも言えるような呼吸でいることが寧ろ自然とも思える程だった。
昼下がり。明日を文化祭初日に控え、最終調整と全役員が駆り出されていた。
仕事の内容は、申請が通っている有志舞台のリハと機材チェック、クラス毎にある催しの進捗状況、不正や違反がないかの見回りといったところだ。
別の子と一緒になった美希は先に行ってしまい、しかし奇数だった役員で、汐里は一人取り残されていた。ある意味で言えば常に二人なのだが、そもこの学校について未だ知識の薄い琢磨には荷が重かった。
仕方なく一人で巡回を始めて数十分、廊下でばったりと出会った知音が、クラスの準備が片付け含め終わったということで手伝ってくれた。
こういう時、やはり頼りになるのは友人だった。
「へぇ、一組は逆メイド喫茶だって。ベタかと思いきや、ちょっとキツイね」
「女の子が男装は分かるけど、男子が女装って……ないね」
知音の言葉に激しく同意して、以上がないことを確認するとまた廊下を歩く。
これといって何も起こらない同じことの繰り返しに、ふと汐里は知音に対し申し訳なさを抱いた。
「あの、とも――」
「謝るのは無し!」
ビシっと汐里の顔を指さして知音が言った。
「ふぇっ…!」
結果、変な声が漏れた。
「しおはいつもそうだね。美点ではあると思うんだけど、別に気なんか遣う必要ないんだよ。友達なんだし」
「ともだち……」
「あれ、思ってたのは私だけ? 傷つくなぁ」
わざとオーバーなリアクションで膝をつく知音。
言い出したのは自分だからと、少々冷静さを欠いていた汐里は、慌ててしゃがみ込んで知音に声を掛けた。
「え、えっと、そういうことじゃなくてね…!」
「嘘、冗談よ」
「あ、冗談……もう、やめてよね」
「揶揄うと面白いのは、しおがみっきーに対することと同じかしらね」
「あぅ……それはどうか言わんで。みっきーにも悪いと思ってるよ」
「ふふ。そうそう、しおはそうでなくちゃ。いつも通り楽しく弄れて、程よく空気の抜けてるくらいが丁度良いよ」
「もう、馬鹿にして!」
「愛情と言って欲しいわね」
立ち上がるとひらひらと手を振って、役員でもない知音が先行する。
慌てて駆け寄って隣に並ぶと、その頼りになる横顔にしばし見惚れ、つい表情が緩んでしまった。
勿論、愛情だってことは分かってるよ。心の中で、そう唱えて。
昔馴染みで何かと気にかけてくれている知音も、美希同様に気心許せる友人の内の一人だ。
そうして一通り何事もなく回り終える頃、緊張の糸が切れると共に少し催してきて、知音に断って汐里は近くの手洗いへと入って行った。長い時間待たせるのも嫌だからと早急に用を足し、洗面台へ――
――キーン――
辿り着いた瞬間、また一瞬間足がふらつく間隔、入れ替わりだ。
それも昨日までとは違う、頭痛とは行かないまでも響く、高い音に次いで。
『何なんだろ、今の……』
「あぁ。まるで、金属を叩いた時のような――」
琢磨は言いかけて、止めた。
心当たりと言っていいものかは怪しいが、体内脳内で響いたのであれば、おそらくは汐里の抱える病気に起因する何かだ。
しかし、仮にそうだとしてだ。琢磨はそれとは無関係で、且つ琢磨が移ったことの方が後だといのに、どうして今、入れ替わりの合図のように鳴り響いたのか。タイミング的にはドンピシャだった。
解析する琢磨に、黙ったままの汐里。
やがて、時間が経っても答えが出ないと分かると、溜息を吐いて手を洗った。
廊下に戻ると、片手を挙げて歩いて来る知音。
「大?」
「ちょっ……て、手洗いは丁寧に…!」
「あ、噛んだ。はは、相変わらず真面目だなぁしおは。ほんと、みっきーが可哀そうになってくるわね。行こ」
楽しそうに笑って、また先行する知音。
「あ、ち、ちょっと待って…! 美希は関係ないでしょ…!」
またまた慌てて駆け寄る琢磨。
先から会話が滑らかでないのは、存外と長く続く入れ替わり生活の中で、こうして知音と琢磨が一対一で言葉を交わすのは、実は初めてのことだったからだ。
大人っぽくて頼りになって、それでいて物腰柔らかくて。そんな人と相対する状況に恵まれなかった生前を思い出して、琢磨はどう接せばいいのか分からない。少し気を抜けば敬語にもなりかねないし、かといって気を張っていては噛む。
これはまた、一苦労しそうだな。
そんなことを思っていた矢先だった。
「ほら」
と手渡されたのは、ブラックの缶珈琲。気が付けば、中央棟玄関の自販機前までやって来ていた。
「あれ、しおってブラック派だったよね?」
「え……? あ、は――うん」
「良かった。ちょっと向こう行こっか」
知音は、相手が元の汐里であろうが琢磨であろうが、先導するのがお決まりらしく、またも先に歩み始めて階段の方へ。
生徒は普段使わないだけに人通りの少ない職員室等がある二階への階段に座り込むと、知音が口を開いた。
「最近は何にもないみたいだけど、前のは本当にびっくりしたなぁ」
「前の――あぁ、現国の」
琢磨の人格が乗り移った初日の授業で入れ替わりが発生し、倒れてしまった時の話だ。
そういえば、保健委員だからと美希が駆け寄って来たが、遠くでは知音も心配そうな表情をしていたな、と思い出す琢磨。
「西谷先生もビックリしてたよね」
あの現国の先生は西谷というのか、と今更ながら改めて確認。
確かに驚いていた。一番に近寄り、保健委員を呼んだのもその先生だ。
「急なことだから驚いちゃったのかな、西谷先生も」
と、琢磨が口をついた瞬間『ちょ、馬鹿…!』と慌てて止めに入る汐里。
しかしそれも既に遅く、今までずっと優しそうに微笑んでいた知音が表情をなくし、色も光も何もない瞳で汐里を見て一言、
「言質、とったわ」
「……っ……!」
日も経ち週も過ぎ、幾つか月も超えてくると、流石に慣れもしてきた二人ではあったが、初日の夜は、それはそれは喧嘩をしたものだった。
湯浴みの際、いつも汐里が入る時間の人格は琢磨だったのだ。もうちょっと待って、まだ待って、あと少し待ってと、待てども待てども戻らない汐里の意識。結局、目を瞑りながら直観だけでシャンプーにコンディショナー、洗顔に身体と洗っていったのだが、順を間違えたり胸を触った触っていないで言い合ったりと、とにかくごちゃっとした夜を過ごした。
二日目、三日目と、それからは不思議なことにずっと汐里の人格で時間を迎え、以降喧嘩が起こることは無かった。
そうして何とか過ごしていると、お互いの癖や気になるところにも気が付き始めて、しかし認め合って受け入れ合って、二人三脚とも言えるような呼吸でいることが寧ろ自然とも思える程だった。
昼下がり。明日を文化祭初日に控え、最終調整と全役員が駆り出されていた。
仕事の内容は、申請が通っている有志舞台のリハと機材チェック、クラス毎にある催しの進捗状況、不正や違反がないかの見回りといったところだ。
別の子と一緒になった美希は先に行ってしまい、しかし奇数だった役員で、汐里は一人取り残されていた。ある意味で言えば常に二人なのだが、そもこの学校について未だ知識の薄い琢磨には荷が重かった。
仕方なく一人で巡回を始めて数十分、廊下でばったりと出会った知音が、クラスの準備が片付け含め終わったということで手伝ってくれた。
こういう時、やはり頼りになるのは友人だった。
「へぇ、一組は逆メイド喫茶だって。ベタかと思いきや、ちょっとキツイね」
「女の子が男装は分かるけど、男子が女装って……ないね」
知音の言葉に激しく同意して、以上がないことを確認するとまた廊下を歩く。
これといって何も起こらない同じことの繰り返しに、ふと汐里は知音に対し申し訳なさを抱いた。
「あの、とも――」
「謝るのは無し!」
ビシっと汐里の顔を指さして知音が言った。
「ふぇっ…!」
結果、変な声が漏れた。
「しおはいつもそうだね。美点ではあると思うんだけど、別に気なんか遣う必要ないんだよ。友達なんだし」
「ともだち……」
「あれ、思ってたのは私だけ? 傷つくなぁ」
わざとオーバーなリアクションで膝をつく知音。
言い出したのは自分だからと、少々冷静さを欠いていた汐里は、慌ててしゃがみ込んで知音に声を掛けた。
「え、えっと、そういうことじゃなくてね…!」
「嘘、冗談よ」
「あ、冗談……もう、やめてよね」
「揶揄うと面白いのは、しおがみっきーに対することと同じかしらね」
「あぅ……それはどうか言わんで。みっきーにも悪いと思ってるよ」
「ふふ。そうそう、しおはそうでなくちゃ。いつも通り楽しく弄れて、程よく空気の抜けてるくらいが丁度良いよ」
「もう、馬鹿にして!」
「愛情と言って欲しいわね」
立ち上がるとひらひらと手を振って、役員でもない知音が先行する。
慌てて駆け寄って隣に並ぶと、その頼りになる横顔にしばし見惚れ、つい表情が緩んでしまった。
勿論、愛情だってことは分かってるよ。心の中で、そう唱えて。
昔馴染みで何かと気にかけてくれている知音も、美希同様に気心許せる友人の内の一人だ。
そうして一通り何事もなく回り終える頃、緊張の糸が切れると共に少し催してきて、知音に断って汐里は近くの手洗いへと入って行った。長い時間待たせるのも嫌だからと早急に用を足し、洗面台へ――
――キーン――
辿り着いた瞬間、また一瞬間足がふらつく間隔、入れ替わりだ。
それも昨日までとは違う、頭痛とは行かないまでも響く、高い音に次いで。
『何なんだろ、今の……』
「あぁ。まるで、金属を叩いた時のような――」
琢磨は言いかけて、止めた。
心当たりと言っていいものかは怪しいが、体内脳内で響いたのであれば、おそらくは汐里の抱える病気に起因する何かだ。
しかし、仮にそうだとしてだ。琢磨はそれとは無関係で、且つ琢磨が移ったことの方が後だといのに、どうして今、入れ替わりの合図のように鳴り響いたのか。タイミング的にはドンピシャだった。
解析する琢磨に、黙ったままの汐里。
やがて、時間が経っても答えが出ないと分かると、溜息を吐いて手を洗った。
廊下に戻ると、片手を挙げて歩いて来る知音。
「大?」
「ちょっ……て、手洗いは丁寧に…!」
「あ、噛んだ。はは、相変わらず真面目だなぁしおは。ほんと、みっきーが可哀そうになってくるわね。行こ」
楽しそうに笑って、また先行する知音。
「あ、ち、ちょっと待って…! 美希は関係ないでしょ…!」
またまた慌てて駆け寄る琢磨。
先から会話が滑らかでないのは、存外と長く続く入れ替わり生活の中で、こうして知音と琢磨が一対一で言葉を交わすのは、実は初めてのことだったからだ。
大人っぽくて頼りになって、それでいて物腰柔らかくて。そんな人と相対する状況に恵まれなかった生前を思い出して、琢磨はどう接せばいいのか分からない。少し気を抜けば敬語にもなりかねないし、かといって気を張っていては噛む。
これはまた、一苦労しそうだな。
そんなことを思っていた矢先だった。
「ほら」
と手渡されたのは、ブラックの缶珈琲。気が付けば、中央棟玄関の自販機前までやって来ていた。
「あれ、しおってブラック派だったよね?」
「え……? あ、は――うん」
「良かった。ちょっと向こう行こっか」
知音は、相手が元の汐里であろうが琢磨であろうが、先導するのがお決まりらしく、またも先に歩み始めて階段の方へ。
生徒は普段使わないだけに人通りの少ない職員室等がある二階への階段に座り込むと、知音が口を開いた。
「最近は何にもないみたいだけど、前のは本当にびっくりしたなぁ」
「前の――あぁ、現国の」
琢磨の人格が乗り移った初日の授業で入れ替わりが発生し、倒れてしまった時の話だ。
そういえば、保健委員だからと美希が駆け寄って来たが、遠くでは知音も心配そうな表情をしていたな、と思い出す琢磨。
「西谷先生もビックリしてたよね」
あの現国の先生は西谷というのか、と今更ながら改めて確認。
確かに驚いていた。一番に近寄り、保健委員を呼んだのもその先生だ。
「急なことだから驚いちゃったのかな、西谷先生も」
と、琢磨が口をついた瞬間『ちょ、馬鹿…!』と慌てて止めに入る汐里。
しかしそれも既に遅く、今までずっと優しそうに微笑んでいた知音が表情をなくし、色も光も何もない瞳で汐里を見て一言、
「言質、とったわ」
「……っ……!」