その男子は、隣を歩く友人に話しかけた。

「あの娘、見たことないなって」

「理事長のお孫さんじゃなかったっけ? なんかあんま学校来てないみてーだけど。なあ、それより栗ちゃん今日も可愛くね?」

 知らない男の子が私の後ろ姿をじっと見ていたことなんて知るはずもなく、私は先生と空いていた教室を借りて向かい合った。白い壁に、黒いカーテンで閉ざされた部屋は、視聴覚室のようだ。
 私の向かいに栗谷先生が座ると、私は恐る恐る切り出した。

「あの……それで話ってなんですか?」

「それはもちろん、藤澤さんが来ていなかった分の課題についてよ」

 どこから引っ張り出してきたのか、二人の間にあるテーブルに突き出された膨大な数の課題を前に言葉を失う。
 ひいいいいいっ! すっかり忘れてた。こんな数どうしたらいいのおおお!

 追い討ちをかけられて泣きたくなる私のもとに、栗谷先生は口を開いた。


「――って、課題のこともあるけど、藤澤さんと少しお話したくてね」

 ふわりと笑みを浮かべては、甘い香りを漂わせる。花の香りかな……栗谷先生のイメージにぴったりだった。

「えっ……」

「あなたのお爺様から、事情は伺っています。ここ最近は図書室に通っていたみたいだけど、急に学校に来なくなったと聞いたから、心配していました」

 担任の先生として、気遣ってくれたのだろう。ろくに授業にも出ない不良生徒に慈悲を分けてくれる先生に言葉も出ない。

「教室にもいづらいようだし、話したのも今日が初めてたけれど、私でよければ藤澤さんの悩みに寄り添えないかしら」

 才色兼備で、こんなに生徒思いのよくできた女《ひと》なんて、完敗だよ。敵うはずもないけどさ。神様はちょっとくらい平等にしてくれたっていいじゃない。

 先生から差し伸べられた救いの手と課題の山に胸を打たれていると、話をどう切り出したらいいか少し頭を悩ませる。
 そうこうしていたら、栗谷先生の方から質問が返ってくる。

「そういえば、図書室によく通ってたと聞いたけど、藤澤さんは本が好きなのかしら」

「ブフッ!」

 まさに打ち明けようか迷っていた話を向こうから切り出されてしまった。思わず動揺が顔に出る。

「あら、どうかしたの? 藤澤さん?」

「えと、いえ……」

 なかなかいいタイミングを掴みきれず、押し黙ってしまった。
 初対面の相手だし、あの日の傷はまだ癒えなくて勇気を持って切り出すには時間がかかりそうだ。

「それで、藤澤さんはどんな本を読まれるのかしら?」

 ガタガタガタガタッ!

 本の話題になると動揺が隠せなくて、不安定なパイプ椅子から転げ落ちてしまった。
 相手からはひやひやとした声がかけられる。

「だ、大丈夫? 藤澤さん?」

「だ、大丈夫です……ご心配なく……」

 とは言ったけど、腰を思いっきり床に打ちつけた。あいたたっ……。

「そ、そう……それならいいんだけど、それで藤澤さんはどんなジャンルの本を……」

「あ、あのぉ! 本の話は今はちょっと!」

 天然か!? この人天然なのか!? こんだけ動揺してるのに根掘り葉掘り聞いてくるのか!?
 打ちどころが悪い場所をおさえてなんとか椅子に座り直す。まだじんじんとお尻が痛むけど、目の端に滲んだ涙は堪えた。

「あら、ごめんなさい。藤澤さんはあまり本が好きじゃなかったかしら……」

「あ……いや、違くてこれは……」

 心の傷は深く抉られたが、本は昔より嫌いじゃない。
 ここに来る前は本に囲まれるのも蕁麻疹が出るほど拒絶していたけど、紙の匂い、文字の読み方、全部あの人が教えてくれたから……。