増家は「熱い熱い」と運んできた皿をダイニングテーブルに置くと、ふうと長く息をついて手をこすった。「我ながら上等な出来だ」と言う声へ、「いい匂い」と返す。「だろ?」と得意げに言っては、増家はキッチンへ戻る。
主菜のおろしハンバーグ、副菜のにがうりとツナの和え物、主食の白米、汁物にはナスやオクラといった夏野菜の味噌汁が並んだ。手を合わせて箸を持つ。
「豪勢だね」
「そうか?」
「……君も自炊なんてするんだ」
「おい待てどういう意味だ」と増家は苦笑する。
「なんとなく、君に自炊する印象がなかったんだよ」
「そんなことないぜ。なにを隠そう、おれ様は中学時代に『味覚の神』なる称号を手に入れた男だ」
「ああ、そういえばそんなことも言われてたね」
「個人的にゃ、犬の嗅覚の如き舌を持つ男、とかがよかったんだが」
長いよ、と僕は苦笑する。「なんだっけ、給食の隠し味当てるみたいなことやってたんだっけ」
「違う、アレルギー物質だ」
「ああ、そうそう。結構な確率で当てるんだからすごいよね」
「だろう?」と、増家は得意げに笑う。
そうなんだ、そういえば、知らなかった、忘れてた――。この食事の中の会話で、何年も言わなかった言葉を何度も発した。僕はまた一つ、自分の知らないことに気づき、それを知ることができた。
食後、増家の持ってきた、チューブに入ったアイスを食べた。「なにを勝手に冷凍庫まで使ってるんだ」と言えば、「あんまり物入ってねえなとか言わねえしいいじゃんか」と彼は笑った。その言葉には「余計なお世話だ」と、差し出されたそれには礼を言ってアイスを受け取った。「おいしいところ要るか?」と、チューブの外した先を差し出す増家へ、「持ってる」と返した。
「そんじゃ、おれは帰るわ」言いながら、彼はキッチンに残していたビニール袋を手に取った。「そう」と頷けば、「寂しいか?」と返ってきたので、「全然」と瞬時に返す。
「ま、アイスは開けてない袋もう一個入ってっから、風呂上がりにでも食えや」
「それはどうも」
「おれ様の優しさの余韻だ」
「はいはい。……優しさとか自分で言わなければいい人なのに」
「誰も言ってくれないから自分で言うしかないんだよ」悲しいだろ、と増家は笑う。
「そんじゃ」と言って振り返り、「ちゃんと寝ろよ」と穏やかな笑みを見せる。いつの話をしてるんだと言い返すかとも思ったが、増家はそれを知らないはずだった。「うん」と適当に思えた声を返し、「気を付けるわ」と言う彼へ「気を付けて」と苦笑する。
風呂上がり、頭にタオルを被って冷凍庫の扉を開けた。中から増家の持ってきたアイスを取り出し、くっついた二本を分け、一方を冷凍庫へ戻し、扉を閉める。その間に、増家になにか言われた際には必ず、後日に食べたと答えようと決めた。
縁側に腰を下ろし、チューブを咥えて蚊取り線香にマッチで火を点ける。丸まった枯れ葉を模した蚊取り線香置きのくぼみに、線香を通した棒を乗せる。
チューブを手に持ち、ブナの樹を眺める。とくとくと鼓動を感じさせる幸福感を、深く呼吸して落ち着ける。美術品、とでも言い表そうか。僕に映るこのブナの樹は、実に美しい。他にもブナの樹はいくらでもあろうが、それらは“このブナ”ではない。他にどれほど同じように見えるものがあろうと、僕にとっては唯一絶対なのだ。他に美しさを感じるブナはないのかと問われた場合には、僕はあると答える。しかし、どれもこのブナを超すことはない。これは、素直に言葉に表すならば――。
僕は口の中のチューブを噛んだ。「岸根君ってなにが好きなの?」。僕は、木が、樹木が好きだ――。
近いうちに予定のない日はあるかと尋ねる旨の文字を送ると、すぐに、今日も明日も予定などないと言うような文字が返ってきた。
茶色の太いベルトを境に、腰から上が白と黄色のギンガムチェック、下が微かに黄みを帯びた白の無地という、膝上十センチメートルほどの丈の、半袖のワンピース。先日、いやに混んだ、初めてエレベーターの定員オーバーを知らせるブザーを聞いたショッピングモールで買ったものだ。ブザーが鳴って、下ります下りますとあの箱を出るというのは一度やってみたいと思ったこともあったのだが、当時のわたしが思っていたほどおもしろいものではなかった。
呼び鈴を鳴らすと、引き戸はすぐに開いた。「やあ」と笑みを見せる彼は、やはり美しい。宝石と言っても足りない、純氷での氷細工と言っても足りない、なんなら、人形――ドールと言っても足りないほどの美しさかもしれない。宝石よりも影があり、純氷ほど冷たくなく、人形――ドールよりも人間味のある、そんな美しさだ。純粋な顔立ちの美しさだけでない、どこかに見え隠れする憂いのようなものが、その美しさを際立てているように思う。
中に入ると、彼は廊下を歩きながら、「なに飲む?」と問うてきた。「スペシャルココアで」と言うと、「オーディナリーココアならあるよ」と彼は笑った。「じゃあそれで。冷たいの」と笑い返すと、彼は「了解」と穏やかに言う。淡い桃色の小さな花弁が舞う様を彷彿とさせるような穏やかさだ。
「どうぞ」とテーブルにグラスが置かれると、すぐにウエハースの載った皿も続いた。反射的に「あっ」と声を発すると、彼は「好きって言ってたから」と言う。
ナオさんが前に座ると、どこか心地よい静寂が空間を包んだ。遠くに蝉の声が聞こえる。
「本当、夏ですね。少し前まで恭賀新年なんて文字見てたのに」
「そうだね」
「ナオさんは、季節、いつが好きですか?」
「いつでも好きだよ」と答えると、彼は小皿に載ったカップに手を付けた。「あまり暑すぎると、少し落ち着こうよって思うけどね」と笑う。
「君は?」
「わたしは……秋ですかね」暑いのも寒いのも好きではないので、と苦笑する。「春は春で花粉症がきつい時期ですし」
「花粉症なんだ?」
「最近になってですよ。周りは結構、中学くらいでもう言ってましたけど。中には学校にボックスティッシュ置いてる子いましたもん、自分の」
「それは大変だね、ご本人は」
「そうですねえ。わたしは鼻づまりが主なので、ティッシュは要らないんですけど」
「そうなんだね」
「ナオさんは?」
「僕は全然」と彼はかぶりを振る。「あまり外に出てなかったというのもあるのかな」わからないけど、と言う彼の声が、いつにも増して穏やかに聞こえた。
少しの沈黙を、わたしは「そういえば」と破った。「こういう、カップの下に置かれる小皿って、なんの意味があるんでしょうね。たまに角砂糖とかスプーンが置いてあったりしますけど、あまり意味ないですよね」
「今はそうだね」
「え、なにか知ってるんですか?」
「かつては、カップの中の熱いの飲み物を冷ますため、少しずつこの小皿――ソーサーに移してたんだって」
「じゃあ、汁物の味見みたいに飲んでたってことですか?」
「そうみたいだよ」
「へええ……。今の時代にそんな飲み方してる人がいたら、ちょっとした変人扱い受けますよね」
ナオさんは「ははは」と笑い、「そうかもしれないね」と頷く。
わたしはココアを飲み、「あの」と声を発した。ソーサーなるものへカップを返したナオさんは、それぞれ琥珀とエメラルドのような双眸で、穏やかにわたしを見る。
「ナオさんって、植物に詳しいですよね」
彼はふっと目を細める。「人並みには」多分、と付け加えて、困ったように笑みを作る。
「ナオさんがわたしを知ってるように、わたしも、もしかしたらナオさんを知ってるかもしれないんです」
「ほう」と、彼は脚を組み、その上で手を組んだ。
「……岸根先輩、じゃありませんか?」
ふふっと笑うと、ナオさんは組んだ手と脚を解いた。「そうかもしれないね」
「わたしがナオさんを知ったのは、四年前、高校一年生の頃でした。当時、ナオさんは三年生。その頃とは、ナオさんも言うように、確かに印象が違います。髪の毛の色も、左目の色も。なにより、当時よりも優しい印象を受けます。わたしがナオさんを知ったのに、特別なきっかけはありません。普通に学校生活を送っていれば、自然と知ることができたんです。ナオさんは有名だったから」
ナオさんはティーカップに手を付ける。
「ナオさんは、高校生の頃、植物部と茶湯部に所属していませんでしたか? わたしの知る岸根奈央さん――岸根先輩は、植物部と茶湯部に所属していて、まるで次元の違う世界から飛び出してきたかのようなその美貌故に、『美しすぎる植物部員』、さらには優秀な成績から、『完璧すぎる』先輩、あるいは男と、当時生徒の間で有名だったんです」
わたしは「岸根先輩ではありませんか?」と、改めて問うた。ナオさんは「嫌な冠をもらったものだよね」と苦笑する。
「……岸根先輩?」
「岸根先輩です」と、彼は笑う。「こんなに恥ずかしい瞬間あるかな」と同じように続ける。
「じゃあ、ナオさんの『ナオ』の漢字は……」
「奈良の奈に中央の央」女の子みたいで好きじゃないんだと、彼は笑う。
「それにこの字には、随分と重たい希望を込められていてね。『奈』の漢字には『どうして』という意味もあって、『央』はそのままに『真ん中』。それを合わせて、『常にどうしてと思う物事の中心にいる、好奇心の旺盛な人になってほしい』ですって」
「でも、先輩そういう人じゃないですか?」
「先輩なんてよしてよ」と彼は笑う。
「じゃあ、今まで通りナオさん?」
「それくらいがいいかな」
「いやあしかし。あの岸根先輩がこんなに身近にいるなんてびっくりです」
「それは僕も同じだよ。君は僕にとって、憧れの存在なんだ」
「ええ、なんでわたしなんか?」
「君は素敵な人だ。当時から、君のような人になりたいと思っていた」
「ええ……?」ナオさん変わってますねと笑い返すと、否定はしないよと彼も同じように笑った。
「君は」と言うナオさんへ、わたしは「あの」と声を返した。
「ナオさんはわたしのこと、知ってるんですよね?」
「よく知ってるよ。新体操部の最強部員。強く美しく繊細な演技が武器で、大会では毎度、なんらかの土産を貰ってくる」
実に詳細な彼の言葉に、わたしは苦笑する。「なんでそんなに知ってるんですか」ナオさんもまた苦笑する。「当時の僕はすべての人、物事のストーカーだったから」
「ストーカー?」
「人でも物でも事でも、すべてを知りたかった」
「へええ。え、でも実際、いろんなこと知ってるじゃないですか。それもまた有名でしたよ。もう、一定数の生徒には、超人に近い認識されてたんじゃないですか?」
「僕としては目立ちたくなかっただけなんだけどね」嫌だ嫌だ、とナオさんは苦笑する。
「内ではどれだけ目立ちたくないと願っても、その外側じゃあ、女の子たちが放っておきませんよ。男子にも、妬ましく思う人だっていたはずです」
「褒めてもなにも出ないよ」ナオさんは困ったように言うと、ティーカップを口に運んだ。
「それは困ります、花の知識は見せびらかすほど出してもらわないと」
ナオさんは小さく唸り、そっとティーカップを戻した。「じゃあ、記念すべき一つ目の花は……」
「なんでも教えてください」
「君」と言ったナオさんへ、改めて「あの」と返す。先ほども言いたいことが言えなかった。
「なんで『君』って言うんですか?」
「おかしいかな」と彼は困ったように笑う。
「おかしい……とは、まあ、その二人称が存在する以上言えないですけど……。あまり使う人は見ないかなって」
「これは友人にも言ってないんだけどね」と、ナオさんは言う。わたしはなんとなく、唾を飲んだ。
「僕なりの、愛称のようなものなんだ」
「親しみを持ってる相手にしか使わないってことですか?」
「まあそれを、最近に初めて話すような人へ使うのはおかしいんだけどね
」
「でも、わたし、ナオさんにとっては憧れの人だったんですよね?」
「だったどころか、今だってそうだ」
「それなら尚更、わたしは嬉しいです。特別な人になったような感じで。芸能人を、勝手に愛称で呼んじゃうのと同じようで」
ナオさんはふわりと、笑みを浮かべる。水彩画のような柔らかな色使いのイラストでも見ているかのような錯覚をする。「僕は君の、そういう明るいところが大好きなんだ」
それで、と彼は言う。「君の誕生日は?」
「ああ、花の話。誕生日は七月二日です」
「じゃあ、キンギョソウとクレマチスだね」
「へえ。キンギョソウは聞いたことがある気もします」
「ピンクとか黄色、白、オレンジ……さらには複色まである花だね」
「へええ」
「花言葉は、日本ではおしゃべりとか出しゃばりなんかがある」
ああ、とわたしは苦笑する。「わたしにぴったりですね」
「口を開いて話しているような形に由来するんだって。西洋では、上品とか優雅。また、日本では話しているように見られる花姿も、西洋では仮面に似てると言われるらしい」
「へえ。感性の違い……」言いながらウエハースをかじると、おいしいと無意識に声が出た。ナオさんは穏やかに微笑む。
「クレマチスの花言葉は、精神の美と、旅人の喜び」
「へえ、なんか素敵……」
「精神の美は、ツルは細くとも大きく美しい花を咲かせることに由来するみたい」
「ふうん。どんな花なんです?」
ナオさんは「そうだな」と言って辺りを見回した後、じゃあと言って、携帯電話を操作し、画面をこちらに向けた。幾枚もの細長い花弁が集まって円を作っているような形の花だった。色は、白にピンク色の線が入っているようなものだ。
「綺麗ですね。かわいい」
「色はこの他、赤紫や青紫っぽいのもあるんだ」
「へええ」
「精神の美。僕には、君にぴったりな言葉に思える」
「ええ、そうですかねえ……?」照れますよと問うように言えば、ナオさんは僕は本気だよと笑う。
「ナオさんの誕生花はなんですか?」
「ユーストマとゼラニウム。花言葉は――」
「あっ、ユーストマは知ってますよ。前に読んだ小説に出てきたんです。花言葉は、すがすがしい美しさと、優美」まるで彼を表した花であるようだ。
「西洋では」と言うナオさんへ、あ、と声を漏らした。「西洋か。それは知らないです」と苦笑する。
ナオさんは華やかに微笑み、「感謝と穏やかさ。これらは、最近になってようやく手に入れたものだよ」
「へええ、素敵じゃないですか。え、前は荒れてたんですか?」
「荒れてた……というわけではないけど……。穏やか、とは言い難い心情だったかな。状況もだけど」
「そうなんですね。ちなみに、花言葉の由来はなんなんですか? 読んだ小説には、そこまでは書いてなくて」
「気品と愛らしさを併せ持った花姿に由来する、と見たことがある」
「そうなんですね。確かに、美しさも愛らしさもある見た目ですよね」八重咲のバラやカーネーションにも似た形の花だ。小説を読んだ後、どんな花なのか関心が湧いて、調べたのだ。
「ゼラニウムは? 小学校の花壇に咲いてた記憶がある花ですけど……」
「尊敬と信頼、真の友情。深紅のゼラニウムは、憂鬱。西洋では、愚かさとか上流気取りとか」随分いろいろあるんだ、とナオさんは笑う。
「へえ。あんな綺麗な花に憂鬱なんて花言葉がついてるんですね。そんなに憂いを帯びた花には見えないですけど……」
「青臭いにおいが由来らしいよ。僕も憂鬱なんて印象はなくて、調べたんだ」
「そうなんですね。ですよね、憂鬱なんてイメージないですよね」