別れ際、増家は「また晩飯食いに行くからな」と当然のように言っては笑顔で手を振った。「ふざけるな」と咄嗟に返したが、彼はそれをないもののようにして帰路についた。しかし自由な男だと再確認する。

 僕は門扉を開けて庭に入り、後ろ手に扉を閉めた。ブナに触れ、帰ってきたなと実感する。ブナの足元に座り、図鑑を開きかけて、そのまま腿の上に置く。僕は図鑑を読もうとする気を逸らすように、ブナのふんわりとした大きな頭を見上げた。

「彼の言いたいことも、わからないわけじゃないんだよ。今までに何度もこういうことがあったから。それに、彼はそういう人だ。自らが行動して、それで他人になにかを伝える、訴える。どこか文学的な人なんだ」

ちゃんとわかってるんだ、と続け、僕は腿に載った図鑑へ視線を落とす。

「でも、今まで多く食べてきた肉を健康のため控えるようにしても、どうも不意に肉が食べたくなるように、僕もまた、なかなか彼のようにはなれないんだ」

 ふうと息をつき、「僕は君のようになりたいんだ」と、ブナの幹に後頭部をつけ、少し首を左に傾けた。「人をそっと包み込み、癒しを与えて苦痛を緩和し、やがてそのすべてを飲み込んでしまう」目を閉じれば、自らの鼓動が心地よく響いた。次第に、これまで考えていたことが取るに足りないことのように思えてくる。いや、そう気づいた。僕はあの頃より今日まで、事実を求めてきた。仮に彼女になにも知らないのだと思われても、それもまた、僕の求めている事実だ。肩の力を抜け――。ああ、増家の言葉を、やっと僕なりに理解した。