増家はあくびをすると、そのまま机に伏せた。僕は息をついて、半分以上残った一本目の缶を口元で傾ける。心なしか炭酸の弱くなったそれは、苦味が強くなったように感ぜられ、より旨さがわからなかった。

 増家。僕の友人。自由奔放。目的や目標の実現、達成のためなら、いかなる困難に出遭うことも、その突破に要する力を一滴残らず使い果たすことも厭わない。強く、輝かしく、どこか繊細で、まるで宝石のような人だ。ダイヤモンドは非常に硬いと言うが、ある一方からの力には弱いと言う。増家もまたそんな部分を持っている。

それ以上にダイヤモンドに似ていると感じるのは、例え弱点を突かれて散っても、なお輝きを失わないところだ。彼はむしろ、散ったことで得た無数の凹凸でまた立ち向かう。そこで更に砕かれた場合には、小さくなったことをうまく利用し、相手の内側に入り込んで、少しずつ存在を大きくしていく。こうもなると細胞や菌のようだが、本当の意味で彼を負かすことは不可能に限りなく近いだろう。

 さて、と思う。僕はどうだろうか。増家のように別段優れている部分があるわけではない。強いて言うなら、相手を騙す、欺く能力に長けているだろうか。それなら、今この瞬間も増家を騙している。洗濯機が、ボタンを押せばその後こちらがなにもせずとも洗いから脱水までやってくれるように、僕は彼に、「岸根奈央は博識である」と書いた紙を、本人に見えるように貼ってしまったのだ。洗濯機が洗濯物を干すところまではやってくれないように、増家に貼ってしまった紙も、僕が剥がさなければならない。勝手に剥がれるなんてことはない。

 学生時代のほとんどは、相手を騙す能力は特に大きな存在感を持っていた。なにを言っても、どんな表情を作っても、本音が伝わらなかった。笑えばごまかしていると、無表情なら泣きそうだのふてくされているだの、威嚇のつもりでそのままの表情を作れば、それもまた泣きそうなのだろうと。知っていると言えば、嘘だろうと言われたり驚かれたりした時期だ。

後に、笑顔も無表情も軽蔑していると捉えられるようになった。僕が発す知っているという言葉が、価値観の異なる相手の口癖のように思われた時期だ。軽蔑――少なくとも相手を軽蔑しているつもりは微塵もなかった。今思えば、当時初めてできた友人のような存在の女子に言われたように、増家も言う「自分を認められない」部分が、表情に滲み、相手を認められない人間に見えていたのかもしれない。

 僕が増家や彼女に憧れる理由を再確認する。僕は、まっすぐな人間になりたいのだ。いや、今はまっすぐかもしれない。己の欲望や願望のままに行動している。しかし、経験や記憶というのは時に厄介な働きをする。今僕は、「自由」という文字を見ている。それが今の自分の、明るい金髪に薄緑色の左目を持つ姿であるとして。

しかしそれは、普段は気にならないものの、「無知」という文字の先に透かして見ているのかもしれない。あるいは、未だ「無知」を見ている、黒髪で茶色の双眸を持った自分がどこかにいるか。ゆえに、無意識に、ないものねだりのように、増家や彼女に憧れるのかもしれない。

部活の内容――新体操と距離を置いたことを悔いている彼女を見たくなかったのも、そのためだろう。憧れの対象であってほしいという、僕のなんとも身勝手な願望。