再開、か。ココアに揺れる己の顔を眺め、思考を巡らせる。

 「物事が無駄になるのは、本人がそれを役立てなかった場合」彼はぽつりと言った。グラスの中から視線を上げると、彼は僅かに表情を和らげた。「君から、そんな気が感ぜられました」

 「……少し、思ってるかもしれません」

 「そう。――人は忘れる生き物です。僕は時折、買い物を思い立って玄関を出たところで、目的の品がなんだったか忘れることがあります。そんなときは、決まってブナの下で過ごし、なにも思い出さずに一日を終えるのです。それがまた、心地よいのですよ。忘れてしまった品を思い出そうとしながら、次第にそれさえ忘れ、ただ、気まぐれに揺れる頭上の葉を感じるのです」

 「……わたしがそんな風に一日を過ごしたら、一日を無駄にしたと思っちゃいます」

 「そうですか。僕の場合は、そんな何気ない一日のことも忘れてしまうので、別段感じるものはありません。ただ、その瞬間が幸せだったというだけで充分なのです。君は、なにかしらの形で活きなかった物事はみな無駄だと感じてしまっているように思います。しかし――」忘却はそれほど恐ろしいものではありませんよと、彼は微笑む。「本当に忘れてしまえば、忘れてしまったことなど、わかりませんから」

 「……それが怖いんですよ。忘れたことにも気づかずになにかを無駄にしてしまうって」恐ろしいなんてものじゃありませんと、わたしは二の腕に手をやった。

 「君は、無駄を恐れすぎているように思います。すべてが必要なことでは大変ですよ。それではもう、物語の登場人物のような日常を送ることになってしまう」彼は小さく笑って、グラスに手を付けた。ことんとグラスがサイドテーブルへ戻る。「すべてが伏線で、後から一気に回収されるなんて。そんな世では、落ち落ち寝ても食べてもいられません」

 わたしは黙って彼の続きを待った。

 「ある日、夕飯に焼き魚を食べたら、そのためになんらかの出来事が起こるとか、ある昼食に喫茶店でパスタを食べたら、その喫茶店に入ったことで厄介な事件に巻き込まれるとか。あれやこれやと想像して、それはそれは寿命が縮みます。僕だったら初老まで生きられる自信がありません。忘れてしまえる程度の物事も適度にあるから、平穏な日常があるのかもしれませんよ」

 「……そう、でしょうか」

 「当然、すべての物事にはなんらかの意味があると考える人もありましょう。僕はそれを否定するつもりも主観を強要するつもりもありません。しかし君のような人には、少し肩の力を抜いてほしいと願ってしまいます。今の世は存外簡単なことが多いです。敢えて難しい方を選ぶのも面白いでしょうが、簡単な方を多く選ぶのも、気楽でいいものですよ」

 「簡単な方……」

 「気の向くままに行動を起こすのです。行きたい場所に行く、食べたいものを食べる、見たいものを見て聞きたいものを聞き、触れたいものに触れる。同じように、望ましくない物事とは距離を置く」

 「ナオさんはそうしてるんですか?」

 「まあね。嫌々やってることは一つもない」

 「へえ。普段はなにしてるんです?」

 「連絡があればボードゲームとカードゲームやって、なければ散歩か図書館に」

 「へええ……」仕事は、と舌の先まで出た言葉を飲み込んだ。