周囲が受験だ勉強だ追い込みだと燃えている中、兄は気楽に日常を送っていた。ようやく戻ってきた日常だ、存分に満喫しようと思った。

 「岸根は勉強しなくていいのか?」ある昼休み、隣の席の男子生徒が言った。

 「必要ないから」

 男子生徒は一瞬むっとした表情をして、すぐに苦笑した。「優秀君はわざわざ勉強なんかしないでも合格できますよってか?」

 「そんな」しかも僕は優秀じゃないよと小さく笑うと、男子生徒は、今度は驚いたような表情をした。「お前、普通に笑ったりするんだな。ちょっと鳥肌立った、悪い意味で」

 ていうか、と彼は言う。「お前、まじで勉強しなくていいの? そんなランク落としたところ行くのか?」

 「ううん。進学も就職もしないから」

 「え、無業者になるのか?」

 「まあ、そうなるのかな」

 「ええ……よく熊谷の奴、許してくれたな」

 「そりゃあ、それ相応の苦難はあったよ」


 進路進路と賑やかな時期、兄は何度も進路指導の熊谷と話した。兄が助けを求めたのでも、熊谷が救いの手を伸べたのでもない。「まだ進路決まってないのは岸根だけだぞ」と説教されていたのだ。「決まっていないわけではないですよ」と兄は答えた。

 「じゃあ、どうするんだ」

 「進学でも就職でもない道を行きます」

 熊谷はなにも言わない。此奴はなにを言っているのだとでも言うような表情で、ただ兄の言葉を待った。

 「やりたいことがないので」

 「それなら進学しておけ。大学生のうちに考えるでもいいじゃないか」

 「大学生としての時間を有意義に使えるとは思えないんです」

 「それなら就職でも」

 「行きたい場所がないんです。とりわけ得意なこともありませんし、仕事にできるようなことなど……」

 熊谷はため息をつく。彼も人間だ、同じようなやり取りを過去に三度以上も繰り返しているのだから致し方あるまい。回数を重ねる毎に、彼の勢いは落ちている。二度目か三度目かにはあった、こっぴどくがみがみと執拗に説教の言葉を並べる気力も、今やすっかりなくなっている。

 「なにかビジョンはあるのか」

 「ありません。やりたいことなら、そのうちに見つかるかと」

 「だったら進学しておくのが利口だと思うがなあ……。岸根の成績なら、選択肢はいくらでもあるだろう」

 「あいにく、今の僕に進学や就職という選択肢がないんです」

 熊谷は再度ため息をついた。今度は呆れたようなものだった。もう勝手にしろ、という彼の声が聞こえてくるようだ。