帰宅後、兄はソファに腰掛けると音楽プレーヤーにイヤホンを挿し、黒のそれを耳に着けた。プレーヤー本体にはジャンルを問わず限界まで音楽が入っており、以降はSDカードごとにジャンルを分けている。

再生ボタンを押して流れてくるのはクラシック音楽だ。中学生の頃、部活でクラシック奏者の恋愛を描いた物語を読み、自分がクラシック音楽に疎いことに気が付き、以来聴くようになった。同時に、同じ理由からジャズにも飛び込んだ。どちらも魅力を理解するのは難しいだろうと想像していたが、それほどでもなかった。すぐにその音に溶け込むような感覚がした。一目惚れのようなものだった。

 ふと背後に人の気配を感じて振り返ると、弟と同時に「わあ」と声を上げた。弟は「はははは」と楽しげに笑う。

 「びっくりしたあ」

 「こっちの台詞だよ。……なに」

 「いいや? なに聴いてるのかなあって思って」

 「話し掛けてよ。血圧が逆バンジーして戻ってこないかと思った」

 「独特な驚き方だねえ」弟は一拍置いて、「今日はクラシックなんだ」と続けた。

 「クラシックの沼、深かった」

 「ジャズでも同じようなこと言ってなかった?」

 「言った」

 だよねと笑う弟につられるように、頬が緩むのを感じた。弟はどこか嬉しそうに笑い、「この頃気分がよくなることが多いのう」と、実に愉快そうに言う。「ああそうだ」と思い出したように言う。

 「今日の昼休みさ、友達と負けたらしっぺプラス売店ダッシュのじゃんけんやったんだよ」

 「それは大変だ」

 「五人でやったんだけど、おれ最後の二人になるまで負け越して、その人とグーグーチョキチョキであいこが続いたんだよ。そしたら、相手は次なに出すと思う?」

 「……グーかパー」

 「だよね。それでおれ、裏をかいてグー出したの。チョキに戻るかもって思って」

 「勝った?」

 「いや買った。相手素直にパーに進みやがって」そのときのしっぺの跡、と、弟は腕を伸ばした。手首の十センチほど上の皮膚が赤みを帯びていた。

 「痛そう」

 「だってみんな本気でぶっ叩くんだぜ? 男子高校生渾身のしっぺ四発はきついよ。そんで二人分のお金持って売店ダッシュ」

 「しっぺ要らなかったと思うんだけど」

 「日常の鬱憤を晴らしたかったんだろう。まじ痛いしプライド捨ててたら半泣きしてた。帰ったら即奈央にちくろうと思って」

 「ああそれは」と兄は笑い返す。