それから、兄は彼女――エリ――の指導の下、普通を目指した。彼女の名は恵理子といった。しかし当人は古臭いから嫌と言って、兄にエリと呼ばせようとした。実際には、エリが多くの他人をユーと呼ぶように、兄も彼女を君と呼んだ。彼の中で、君という二人称が親しみの色を含んだのは、これがきっかけだった。

 「ミーね、この間小さい子を見かけたの。女の子。マザーだと思うんだけど、女の人の隣を必死について歩くの。女の人はすらっとした人で、脚も長くてね。一歩が大きいものだから、小さい子には歩くのが速く感じたんだろうね。それで必死についていついていくんだけど、ついに転んじゃったの。そしたら女の人、すごい焦ったように、大丈夫って駆け寄って。そしたらね、女の子も女の人が気に掛けてくれてることがわかったのか、必死について歩いてた次は必死に笑うの。もう泣いちゃいそうなのに、必死に笑うの。うふふふって言って笑うんだけど、その声もほとんど泣いてるのよ」

 「へえ」と兄が相槌を打つと、エリは「これコメディなんだけど」と不満げに言った。

 「トラジディじゃなくて?」

 「どこが泣けるのよ。女の子がかわいくて笑っちゃう話でしょうよ」

 「泣きたいのに泣けない少女を見てどうすれば笑える」

 「いい人ですか」とエリは言う。「じゃあ次ね」と言って、新たに話を聞かせてくる。

 「そんなことより」と兄は言った。「君、食事が進んでないけど。午後、持たないよ」

 「ミーは食べるの速いからいいの。それより、ユーが笑うことが先よ」

 「そんなに笑ってないかな」

 「そんな顔でよくもまあ、笑ってるつもりだと言わんばかりのその態度をとれるわね」

 「そうですか……」

 「そうよ。ミーが何度もモデルを見せてるでしょう」

 スマイル、と言って、彼女は笑顔を見せる。これよと言う彼女へ、兄はただ愛想笑いすることしかできない。しかし今回ばかりはエリの反応が違った。どこか満足げな表情だ。

 「少しずつ笑えるようになってきてるわ。目が優しくなる瞬間がある」

 「本当?」

 「イェア。その調子よ。ミーが言ってたからかもしれないけど、意識しすぎなくていいのかもしれない。素敵になってるわ。ミー、ユーのその優しい目好き。綺麗。硝子玉みたいな透明感」

 「……褒めたって、なにも出ないよ」兄はエリから目を逸らすように、玉子焼きをかじった。

 「そうかしら。笑ってくれるんじゃないの? ミーは、ユーの本当の笑顔が見れたら満足よ?」

 近づくエリの顔と距離を保つと、彼女は「なんてね」と笑った。「もうしないから嫌わないでね」と同じように続ける。