「じゃあ、奈央君お願い」部長の蜂野栞が言う。兄は「はい」と腰を上げる。

 「今回のテキストは、遠崎とよ美によるマルカート。クラシック奏者の等身大の恋愛物語です。著者は幼少期にバイオリンを習っており、当時からの友人の一人がプロの道へ進みました。クラシックと主要人物、またそれと深い関わりのある、またはあった人物を濃く描いたこの物語は、高い評価を得ています。余談ですが、著者の遠崎とよ美は現在、料理とアロマを趣味としており、料理に関しては食育インストラクターの資格も取得しています」

 「いつもありがとうね」と言う蜂野へ会釈して、兄は着席した。いくつかのテキストやその著者について発言すると、よかったらこれから作品の説明してくれないかなと蜂野に言われてしまったのが、部活動が兄によるテキストやその著者の説明から始まるようになってしまったきっかけだ。

「よく知ってるね」と、隣の席の佐藤華が耳打ちする。「この作者は前から知ってたから」と返すと、「本当にすごいなあ」と佐藤は目を輝かせる。

 「じゃあ今日は?」と蜂野が言うと、「二条かな」と澤田が言った。皆三年生だ。二条と呼ばれた女子部員は一度深呼吸して話し出した。

 「一つ思ったことがあって」タナカ、と言った彼女を、蜂野がナカタ、と訂正する。ああ、と二条は笑う。「中田と真美が両想いなんじゃないかみたいに、由香子が思った瞬間があったでしょう? あのときに、由香子が中田を諦めようとしたじゃない。あれ、なんかもったいないなって」

 「ああ、由香子に関してはわたしも思うところがあって」蜂野が乗る。「あの人、皆に認めてもらおうとすごい頑張るでしょう? その割に、自分を出すのが下手だなって。まあそれが由香子のかわいいところなのかもしれないけど、それをもっと頑張れば、もっと早くに中田とくっつけたと思うの」

 「でも実際にああいう経験をすると、結構動けなくなったりするものじゃないですか?」佐藤が言う。「中田と真美の距離が縮んだときもそうですけど、認めてって、気づいてって思うほど、自分って出せないものなんですよ」

 「あたし、由香子にそれじゃだめだって言った千鶴に同感。『声出さないと、手を伸ばさないと、自分から近づかないと。誰も気づいてくれないし、見てくれない』。本当にその通りだと思う」二年生部員が言う。

 「でもその千鶴も、前の旦那さんとのこと結構引きずってるよね。人のことは言うくせに、自分も結構弱いっていうか。わたし、千鶴結構苦手だった」

 「千鶴は」兄が言った。「あの、声出さないと手を伸ばさないとって言葉、自分に対して言ったんじゃないかなと思うんです。今、森さんが言った弱い部分が嫌いで」

 「ああ、確かに物語じゃあ結構あるよね」

 兄は森へ頷いた。「千鶴から見た由香子は、自分ほど落ちてなかったんだと思うんです。だから、敢えて少し強い言葉で奮い立たせて、自分に対してもその言葉を投げて、一緒に立ち上がろうとしたんじゃないかなって」

 「千鶴の旦那って結構な人だったよね。あれじゃあ千鶴が引きずるのもわかる。あんな人と過ごしちゃったら、わたしも当分恋愛はできないと思う」

 「その旦那は旦那で――」