増家の自宅は、学校から五分も自転車を漕げば着くような場所にあった。その近さを、彼は「寝坊しても遅刻はしねえんだぜ」と自慢した。「寝坊なんかするの」と返すと、「そうきたか」と増家は苦笑した。

 増家の私室は、六畳ほどの部屋だった。足元は白のラグを被ったフローリングだが、壁で元が和室であることがわかった。扉も引き戸だ。室内には、黒の木製のボードの上に薄型テレビとスピーカー、ボードの中にDVDやCDといったディスク、その再生機器がある他、白と濃紺を基調としたベッドと、黒のローテーブル、その下に全巻揃った文庫版の漫画が一作収められているだけで、本人の印象とは少し違い、散らかってはいなかった。

 「君」対局中、兄はぽつんと声を発した。増家は「おう」と驚いたように声を発する。「文芸部は今日、部活がないだろうと言ってたけど、僕、君に部活のこと話したっけ」

 「え、なんか怖」と増家は苦笑する。「別に怒ってるわけでも嫌がってるわけでもない」と言いながら、兄は増家の一手に駒を動かした。迷いねえな、と増家は小さく笑う。

 「お前の部活くらい知ってるよ。お前は有名人だからな。女子が騒いでるぜ? 岸根君っていいよねって。まあ、ちとびびってる子もいるけど」

 「そう」

 「お前、好きな女子とかおらんわけ?」

 「いない」

 「はあ、嫌な男だねえ。女子はキャーキャー言ってるってのに。なに、奈央ちゃんは男子が好きなわけ?」

 「そっちの方が一般的かもね」

 「は?」

 「別に。特別な意味はない」

 「特別な意味しかねえだろ」

 「いいから、早くして。本当の試合なら大変なことになってるよ」

 「いや、ラフにやろうぜ。で、なに、まじでそうなの?」

 「違う」

 「じゃあなにさ」

 「なんで言わなきゃいけない」

 「おれが気になるから」

 「他人様の好奇心を満たすために個人的なこと喋る者があるか」

 「いいじゃんか、心の距離を縮めるにはお話が大事だろ?」

 早くしてと兄が再度言おうとすると、増家はようやく一手を打った。「僕は君と心の距離を縮めようとは思ってない」と言いながら、兄はさっと駒を動かす。「性格、北極かよ」と増家は苦笑する。