がこん、と、取り出し口の中に重みのある缶が落ちる。紺色のダウンコートを着た手がそれを包む。男は熱い熱いと手の中で缶を弾ませ、意を決したように缶を掴んでこちらに差し出した。「ごちそうさまです」と僕はそれを受け取る。
「おしることか売れてねえんじゃねえの? すげえ熱い」
「……そうなのかな」
「ていうか、おれもうずっと負け倒してるんだけど。お前にいくらつぎ込んだかわかんねえ。四年分はおしるこ買ったわ」
「……二年に一杯しか飲まないの?」
「そんなにも飲むかわかんねえくらいだ」
「そう……」
僕は適当に缶を振って、タブを起こして倒した。中身をすすると、小豆の粒とともに優しい甘さが流れてきた。
「にしても」と男はため息交じりに言う。
「お前まじで最強だな」という彼の苦笑が、背に嫌なもの走らせる。僕は右手の中の温もりを握りしめた。
違う。僕は最強などではない。むしろ、それとは遥かな距離を置いているのだ。
本とそれを収納する棚しかないような部屋に、壁掛け時計が規則正しく音を刻む。白いソファには、男の紺色のダウンジャケットと、右下にスポーツブランドのロゴが入った学生鞄が放られている。
緑色のラグのに置かれた白い座卓の上、僕はチェス盤を観察し、黒のナイトを手に取った。マスに置くと、こつんと木材同士が当たる音がする。
「チェックメイト」
「まじかよ……」
僕はふうと息をついた。
「がばがばじゃん。もっと守らないと。それに、最初に同じ駒動かしすぎ。君の悪い癖。あれで何手無駄にしたかわからないよ」
「だってああもしなきゃ即試合終了じゃんか」
「僕がそうさせたからね」
「やっぱりそうか。じゃあどうしようもなかろう」
「そんなことはない。僕が君を動かすことができたように、君も僕を動かすことができる。ボードゲームで動かすのは駒だけじゃない」言いながら、僕は最後にキングを攻撃したナイトを取った。手の中で駒を回す。「相手が何度も同じ駒を動かすように仕向けていることに気づいたなら、君はそれを阻止しなくてはならない。守備から攻撃に、態勢を変えるんだ。相手の動きに飲まれたら――」僕はナイトを盤上に戻し、それと同時に「負けだよ」と締めくくった。
男は深く項垂れ、はあと息をついた。「そんで」と言いながら顔を上げる。
「今日はなにを奢れば?」
「……ピリ辛おかき」
「かしこまり。甘いもん飲んだり辛いもん食ったり、忙しねえやっちゃのう。つうかあのピリ辛おかき、ピリ辛の意味理解してないよな」
「そうかな。……もうちょっと辛くてもいいけど」
「ええ……お前味覚バグってんじゃねえの?」
「辛さを感じるのは痛覚」
「おっと、こりゃ恥ずかしい」
ただおりゃお前と違って無知なんじゃと言いながら、男はゆっくりと腰を上げる。小ぶりな財布を開いて、残念そうに長く息をついた。
「あーあ。さらば我が五百円玉だ」
釣り銭でジュース買おうと言いながら、男は歩み寄ったドアのその先へ消えていった。ドアが閉まるがちゃんという音が、少しうるさいほどに、僕と取り残された静寂を揺らした。
ソファには、黒の厚手なパーカーと、紺色の肩紐がついた灰色の学生鞄が放られている。昨日までとは違うその男は、三枚目の石を黒に返した。彼との対局は今回で二度目だ。前回はオセロ盤の中央付近にいくつか白を残して、僕が勝った。
「岸根は好きな女子とかいないの?」
「……どうして?」
「なんとなく。女子らが言ってたんだよ。『岸根君ってなんで誰からの告白も断るんだろう』って。そんなに告白されてんのか?」
「別に」
僕は右上の角に石を置き、「うわまじか」という苦笑を聞きながら縦と横の黒をすべて白に返した。
「……たまにされるくらいだよ」
「なんで断るわけ?」
「……相手に対してそういう気がないから――じゃあ、理由にならないかな」
「ふうん。まあ別にいいんだけどさ。最近、女子がそう喋ってんの聞くからさ。なんかかわいそうっつうか、ちょっとそう思えちゃって」
「……そう」
「いや、岸根のせいとか、岸根が悪いとか言いたいんじゃなくて」
「別に、なにも思ってない」
男はふっと笑った。「縦と横をひっくり返されても、まだ斜めは生きてるんだ」と言って、左下の角に石を置いて斜めに六枚の石を黒く染めた。
「ていうか、お前知らねえの? 結構自分がモテてるって」
どきりとした。ああ、そうだ。僕はなにも知らない。皆が当然に知っていることを、知らない。皆にとっての常識を、僕は知らない。
オセロ盤を見て、僕が「あっ」と声を発すと、男は「おお」と続いた。
「よっしゃ勝った」
「負けた」
「まじか。前回あんな惨敗したのに」
勝たせてくれたのかと言う男に、僕はまさかと返す。
「本気でやった?」
「もちろん」
「いやあ、嬉しい。調子悪かったか?」
「……ううん」
「もう一回やっていい?」と言う男へ、「ごめん」と短く返す。
「……この後、ちょっとやらなきゃいけないことがあって」
「ああ、そうか。悪かったね、付き合わせちまって」
「いや、別に」
男はよっこいしょと腰を上げた。ソファの前に移動すると、さっとパーカーを羽織り、鞄を肩に掛ける。
「そんじゃ、おれは帰るわ。楽しかったぜ、また相手してくれよな」
「うん」
気を付けてねと続けると、男はおうよと言って学ランのポケットから携帯電話を取り出した。メールを受信したのか、少しするとこちらを振り返った。
「お水買ってきて、だとさ」
重いんだよなあと言うと、男は「じゃあな」と手を振った。
「また」と僕も同じように返す。
一階で玄関が閉まる音を認めたあと、僕は学ランとワイシャツを脱ぎ、白のトレーナーに灰色のパーカーを羽織り、灰色のスウェットに穿き替えて部屋を出た。
施錠のされていないドアをそのまま開け、外から鍵をかけてドアのそばを離れる。
一歩を大きく繰り返しながら、鼓動がいつもより速いのを認めた。だめだだめだと心中に繰り返す。知らなすぎる。僕にはまだ、知らないことがある。
にやりと上がった口角が、霧のような中にはっきりと浮かぶ。
「人生に終わりを求めてはいけないと、その男は言った。欲望も感情も困難も、尽きることはないのだという。」――。
たった今開いた小説の出だしだ。「男」の言う通りだと思った。尽きないのだ、欲望も感情も困難も。当然のように、僕の知らないことも尽きない。
僕はなにも知らない。だからこうして、図書館に知識を求める。いや、本当は図書館でなくてもいいのだ。情報さえ得られればなんでも構わない。紙に刻まれたものでも、携帯電話の画面に浮かぶものでも、イヤホンが耳元で語るものでも、視覚と聴覚に訴えかけるテレビからのものでも。実際、一日のほとんどの時間をなにかに新たな情報と知識を求めている。
閉館を知らせるクラシック音楽を聞いて、駆け込みのようにレンタルの手続きを済ませて自動ドアをくぐった。真冬の十七時は、ちょうど空が沈みかけの太陽に焼かれている頃だ。なにも持っていない割に重たげな自らの影を見ながら帰路に就く。
家まで数十メートルというところで自転車が横で僕を越えていった。僕の家の前でキイと停車し、その学ランはこちらを振り返った。そばで僕と目を合わせると、彼は「ああ」と声を発す。
「やっぱり兄ちゃんか」
彼は僕の手元の袋を一瞥して、視線を戻した。「図書館行ってきたの?」
「うん」
「……なんでそんなに頑張るのさ」
言葉が出てこなかった。なんと返すべきかわからなかった。
僕は弟の横を通り、玄関の前に立った。鍵を挿して、染みついたままに手首を回す。
なあ兄ちゃんと言う声を背に聞いて中に入る。声の続きをドアで遮って廊下に上がり、階段を上る。
なぜ弟の問いに答えられなかったか。簡単なことだ。僕は認めたくなかったのだ。なにを――自分がなにも知らないことを。もしくは、弟になにも知らないことを確信させたくなかったのだ。それはなぜ――簡単なことだ。知らないというのは――