何度忘れても、きみの春はここにある。

「記憶が保てないって、どこまで本当なの? 高校の生徒には周知のことだったんだよね」
「……一般人の事情掘って、お金になるんですか」
「聞いたよ。瀬名君、ミスターコンのファイナリスト候補なんでしょう。同情できるエピソード盛ったら、メディアももっと盛り上げてくれるかもよ」
 あまりにゲスな言葉に、瀬名先輩も、私も村主さんも絶句している。
 瀬名先輩がずっと戦ってきたことを、同情の一言で片づけようとするなんて……。
 思わず、怒りで手が震える。
 しかし、瀬名先輩はいたって冷静な表情で、低い声のまま言い返す。
「それは周りが騒いでるだけで、俺の意思じゃありません。コンテストは出ないし、俺は一般人です」
「方法はどうであれ、メディアに取り上げられたら、事件解決に繋がるかもしれないのに? 協力できないの?」
「放火事件のことだけじゃなく、高校時代のことは思い出したくないんです。もう俺には関係ない過去なんです。帰ってください」
 思い出したくない過去……瀬名先輩が言い放った言葉が鋭く尖って、胸に刺さったまま抜けない。
 自分に向かって言われたわけじゃない。
 瀬名先輩は私のことを完全に忘れてしまってるんだから。
 分かっている。それなのに、どうしてこんなにも心臓が痛くなるんだ。
 村主さんが、心配したように、私の顔を覗き込んできた。
 私は、大丈夫、と口パクで答えて、どうにか笑って見せた。
 けれど、手の震えが止まらない。
「……話したくなったら、いつでも連絡して」
 ハンチング帽をかぶった男性は、不服そうな顔をしながら何も頼まずに店を出ていった。
 瀬名先輩は、机の上に残された名刺を破ってポケットに入れ、その場を去ろうとする。
「瀬名先輩!」
 しかし、村主さんがそんな瀬名先輩を呼び止めた。
 私は驚き、何も言葉を発せないまま、どうなるか分からない状況を見守るしかなかった。
 瀬名先輩は村主さんの顔を見ると、一瞬じっと顔を見つめて「村主か?」と、返す。
 村主さんは慌てたように口を開き、演技がかった声で瀬名先輩を必死に呼び止める。
「そう! 瀬名先輩が行ってる大学気になって、オープンキャンパス来ちゃった! 本当に会えたからびっくりした」
「いいけど……お前、ここ来たいならちゃんと勉強しろよ」
「うるさいなー、分かってるよ」
 不機嫌そうな声を出しながら、村主さんはちらっと私のことを見る。
 私は、ドクンドクンと高鳴る心臓を手で押さえつけながら、瀬名先輩の顔をおそるおそる見あげる。
 その瞬間、村主さんが静かに私を指さした。
「この子、最近仲いいクラスメイトの桜木琴音ちゃん。一緒に来たの」
 瀬名先輩のアーモンド形の瞳としっかり目があった私は、やはり何も言えずにぺこっと頭を下げた。
 顔を見たら、何かを思い出してくれるかもしれない……。
 そんな願いは、瀬名先輩のひとことで簡単に打ち砕かれてしまった。
「……村主にも、まともそうな友達いたんだな」
「え……」
 え、と声を上げたのは村主さんで、私はがらがらと胸の中で何かが崩れ落ちていく音を冷静に聞いていた。
 予想も覚悟もしていたことなのに、どうしてこんなに傷ついているんだろう。
 瀬名先輩の過去に……未来に、世界に、私はもう存在しないんだという事実が、とてつもなく悲しい。
 そして、何も覚悟ができていなかった自分が、情けない。
「そ、それどういうこと! 私の周りちゃんとした友達ばっかだけど」
 珍しく取り乱した様子の村主さんが、必死に言葉を繋げる。
 瀬名先輩は、そんなことにいっさい気づかないまま、「そろそろ戻るわ」と、席を離れようとした。
 村主さんはとっさに「待って!」と声を上げて、紙ナプキンにペンで何やら書き出していく。
 それは、彼女の電話番号だった。
「瀬名先輩、スマホ壊しちゃったんだよね? ずっと連絡しても既読にならなかったから」
「あー、そう。放火事件のときに燃やした」
「電話番号、これ登録しといて! 絶対ね」
「……お前に電話する用事、一生なさそうだけどな」
 瀬名先輩は、最初から最後まで塩対応のまま、紙ナプキンをポケットにしまって今度こそ立ち去ってしまった。
 そのうしろ姿を見ながら、私は瀬名先輩に言われたことを再び思い出していた。
 忘れたってことは、大切だってことだと、信じてくれるかと、あのとき先輩は言ったんだ。
 瀬名先輩ひとりでどうにかできる問題じゃないし、瀬名先輩はひとつも悪くない。
 ただ信じて、信じて……。でも、その先は、どうすればいいのだろうか。
 私と瀬名先輩の関係に、ゴールはあるのだろうか。
 ついこの間まで隣にいた先輩が、すごく遠くに感じる。
「琴音……、全然、大丈夫じゃないよね」
「村主さん、私……」
「うん……、どうしようか。どうしようね……」
 村主さんの瞳が、わずかに涙で潤んでいるのを見て、私は胸の中がいっぱいいっぱいになってしまった。
 心臓がはち切れそうなほど、悲しい。
 どうしたらいいのか、分からない。
 私たちはその日、途方に暮れたまま、窓の外から見える景色を眺めていた。

side瀬名類

『ずっと、類に確認したいことがあるんだけど、今度会おうよ』
 岡部から、そんなメッセージが突然届いた。
 俺は今、就職説明会の帰りに、スーツ姿で研究室に立ち寄り、エントリーシートを記入しているところだった。
 岡部と菅原と遊んだ日々は、たぶんお互いに楽だったけど、あまりいい印象はない。
 高校生特有の尖り方をしていただけなのだろうけど、岡部はとくにあのときいろんなことに攻撃的だった。
 菅原からは、すっかり落ち着いてるよ、と聞いていたけれど、それは本当だろうか。
 スマホを見たままぼうっとしていると、同じ研究室の志賀(しが)が話しかけてきた。
「瀬名君、また女の子に誘われてるの」
「志賀じゃないんだから、遊ばねぇよ」
「俺は就活終わるまで真面目人間になるって決めたから、言いがかりやめてくれる?」
 黒髪を方耳にかけて、前髪をかきあげ、黒縁眼鏡の須賀は、俺のことを不満そうな顔で睨みつけている。
 志賀は勝手に俺からスマホを奪い取ると、「さすがイケメンは就活中の地味スタイルでもモテるな」と茶化してくる。
「お前が勝手にミスターコン推薦したこと、一生恨んでやるから楽しみにしとけよ」
「怖っ、なんでそんな顔すんのー。瀬名君が一番嫌がりそうなことしてあげようと思っただけなのにー。ていうか、類のスーツ姿で同じ研究室の後輩が全然集中できてないの気づいてる?」
「知るか」
 今度は俺が志賀を睨みつけ、強めに肘打ちをしてやった。
 こいつは、頭がいいくせにわざとお調子者を演じていて、なかなか癖が強い人間だ。
 なんでこんなに絡んでくるのかは不明だが、こいつが近くにいるおかげで他の人が寄ってこないので虫よけとしてはちょうどいい。
「でも、瀬名君さ、この人ちゃんと話したいことあるっぽいよね。下心なしで」
「……確認したいことって、見当もつかねぇな」
 就活関連で、何か情報交換がしたいとかだろうか。
 そういえば、岡部も同じ文学部と言っていたような気がする。
「この子、高校時代からの友達とか?」
「……まあ、高校のクラスメイト」
「へぇ。瀬名君、ちゃんと友達いたんだね。高校時代のこと聞くとすごく怒るから、ずっと孤独な暗黒期なのかと思ってたよ」
 志賀の発言を無視しながら、俺は再びエントリーシートと向き合う。
 高校時代のことを聞かれても、別に怒っているわけじゃない。
 思い出そうとするとズキッと頭に痛みが走り、何かに飲み込まれそうな間隔に陥るから、ただ怖くて考えたくないだけだ。
 一年生のときに、記者に追いかけられたりしたせいだろうか。
 俺は人一倍、"過去"を聞かれることに敏感になってしまった。
「あ、また岡部ちゃんからメッセージ来てるよ」
「お前、人のスマホ盗み見んのやめろ」
 志賀の言葉に、もう一度スマホを確認すると、そこには『明日の十九時、このカフェで勉強してるから来れたら来て』というひとこととともに、お店のマップが共有されていた。
 岡部のことだから、ただお酒を飲みたいだけかと思っていたが、そういう訳ではなさそうだ。
 志賀の言うとおり、"ちゃんと話したいこと"があるんだろうか。
 俺は少し考えてから、ちょうどカフェの近くで説明会もあることだし、行くことに決めた。

「よ、類。久しぶり」
 新宿駅から少し歩いたところにある地下のカフェで、黒髪ボブ姿の岡部が座って待っていた。
 彼女もリクルートスーツ姿なので、就職活動の帰りだったのだろうか。
 記憶が金髪のイメージで止まっているので、俺は一瞬岡部だと認知できなかった。
 俺は薄い春コートを脱いでハンガーにかけてから、岡部の前の席に座って、アイスコーヒーを注文する。
「久しぶりだな」
 俺がそう言うと、岡部はじっと俺の顔を見つめてから、「相変わらず顔だけはいいね」と恨めしそうに言ってきた。
 俺は呆れた顔でその言葉を無視し、運ばれてきたアイスコーヒーをひと口飲む。
 岡部も、顎先で切りそろえられた髪の毛を耳にかけ、飲み物に口を付ける。
 しばし沈黙が流れてから、岡部はひとり言をつぶやくように「来てくれると思わなかった」とこぼした。
 何も言わずにそんな彼女を黙って見つめていると、岡部は昔を懐かしむように語りだした。
「……放火事件に類が巻き込まれたって聞いて、本当に驚いたけど、まずは無事でよかった。連絡も返ってこなくて、状況が分からなかったから」
「……ごめん、スマホ焼かれて買い換えてた。メッセージアプリも再登録したから」
「あ、大丈夫。たぶん、そうなんだろうなって思ってたから」
 たしかに、菅原の言うとおり、岡部の雰囲気が高校時代のときよりだいぶ丸くなっている。
 昔はもっと周りの空気が張りつめていて、常に自分が一番でいたいというオーラがにじみ出ていたような印象だったから。
「……私ね、類といたら、特別な人間になれる気がしてたの」
「なんだそれ」
 突然、自嘲気味に笑みをこぼした岡部に、俺は眉をひそめる。
 "確認したいこと"がなんだったのか、すぐに聞きたい思いだったが、俺はそのまま岡部の昔話を流し聞くことにした。
「学校の皆が注目してる類と一緒にいたら、自分も強くなれる気がして……。根拠もない自信で周りを威嚇して、近寄りがたい自分は強くて特別なんだって、ずっと勘違いしてた」
「……たしかに、無駄に荒れてたな」
「たぶん、クラスメイトで私のことを好きな子、ひとりもいなかったと思うんだよね。卒業後クラスの集まりにも誘われなかったし。そんで、運悪く同じ大学、同じ学部に行ったクラスメイトがいてさ。その子に素行が悪かったって学部内で噂流されて……、まあ全部事実なんだけど。これが因果応報かーって、思った」
「友達作りに苦戦したってことか」
「学内ではね。サークルでは普通にいい子ちゃん演じてます」
 いつも毅然としていた岡部だったが、まさか友人関係で躓いていたなんて意外だ。
 俺はとくに慰めの言葉も何も言わずに、再びコーヒーを口に運ぶ。
 何も思いやりのある相槌を返していないのに、岡部はまだ話し足りないようで、懺悔するように俯き、言葉を吐き出す。
「もうひとつ因果応報といえばの話で、話がすごく飛ぶんだけど、私最近彼氏と大喧嘩してさ。向こうが社会人でなかなか連絡取れなくて、不安になったことが原因なんだけど」
「本当に飛ぶな」
「ただただ話し合う時間が欲しくて、電話を何回かかけたわけ。そしたら、"普通にメンヘラ無理だから距離置こう"って言われたの」
 岡部は怒りに満ちた声で「どう思う?」と問いかけてきたが、俺は何も言わずに彼女の言葉の続きを待った。
「その四文字で自分の気持ちを片づけられたことがすっごくムカついて……、何か言い返そうとしたんだけど、急に気持ちが冷めていってさ。あ、これ、私がよく友人に笑いながら言ってたことじゃんって」
 岡部はグラスを両手で握りしめながら、自分に呆れたような表情で、ひとつ大きなため息をついた。
 しばし沈黙が続いて、岡部は自分の気持ちを一度落ち着かせるように、飲み物をひと口飲んだ。
 それから、ゆっくり思い出すように、噛み締めるように、言葉を紡ぐ。
「それで、思い出したんだよね。すでに過去に、そんな自分を怒ってくれてた子がいたなって……。今になって、あのときちゃんとその子の言葉を受け止めてたらなって、思ったの」
 岡部が丸くなった理由は、大学生になって、いろんな傷つくことを経験したせいなのだろうか。
 卒業以来会っていない人は、学生の頃の記憶のまま止まっていたけれど、この数年間で俺が想像する以上に、皆いろんなことを経験して、考えて、生き抜いているんだろう。
 俺は岡部が経験したことを想像することしかできないけれど、彼女に対する印象は大きく変わっていた。
「そうか」と、短く相槌を返すと、岡部は今度は心配そうな目で俺のことを見つめてきた。
「この話聞いても……、やっぱり思い出さない?」
「……なに、なんのこと」
「桜木琴音のことだよ」
 サクラギ、コトネ……。
 その名前を聞いた瞬間、ズキンと再び頭の一部が激しく痛んで、俺はこめかみを指で押さえた。
 岡部は「本当に忘れてるんだ」と切なそうに呟いて、そのまま黙ってしまった。
 痛みに耐えながら、俺はそんな彼女を問い詰める。
「何、それ。俺の過去に関係してる人ってこと?」
「そうだよ。たぶん、すごく大切な子だったはずだよ」
「……思い出せねぇ」
 頭が割れるように痛い。しばらく、過去のことは誰にも触れられないで過ごせていたのに。
 よほど、自分の過去に大きく影響している人なんだろうか……。
 必死に名前から記憶を呼び起こそうと試みるが、顔も何も浮かんでこない。
 そんな俺に向かって、岡部はスマホをカバンから取り出して、画面を俺に見せつけた。
「今日、確認したいって思ってたのは、このことなの。……ねぇ、これって、類のアカウントだよね?」
 画面の中には、勿忘草を摘んでいる女子高生のうしろ姿があった。
 思い出せもしないのに、俺はその写真を見た瞬間、なぜか涙をこぼしていた。



side桜木琴音

 瀬名先輩の大学に行ってから一週間後、そのまま夏休みに入り、私は家と市の図書館を往復する日々を送っていた。
 私の様子を心配した村主さんから、たまにおもしろい動画のURLが送られてきたりして、私はそれをひそかな楽しみとして過ごしていた。
 そして今日も、図書館に入り浸りながら、先輩のことをわざと考えないようにするために、本の虫となっている。
 文字を追っているときだけは、何も考えなくて済むから……。
 そういえば、瀬名先輩と放課後遊ぶようになってから、読書時間が極端に減っていた。
 こんなに一気に本を読むことができるのは、いつぶりだろうか。
 なんて、また瀬名先輩のことを思い出してしまった自分の頬を軽くたたいて、私は再び本に集中した。
 周りは勉強している受験生だらけだから、私もさすがに本を読むのは三十分と決めて、あとは参考書を開く時間に当てている。
 目指す目標も立てないまま勉強している私は、どこに流されていくんだろうかと、漠然とした不安が押し寄せる日々だ。
 自分が、興味のある勉強って、いったいなんだろう。
 どの教科もこれといって得意なものはない代わりに、これといって苦手なものもない。
 どこまでもパッとしない自分の能力には辟易する。
 私は一度読んでいた本を閉じて、額を机にくっつけて目を閉じた。
 目を閉じると、すぐに浮かんでくるのは瀬名先輩の姿で。
 考えるだけでじわりと涙が浮かびそうになってしまう。
 ……今、自分にできることは、なんだろう。
 毎日泣いているだけの日々を、もうそろそろ乗り越えたいよ。
 だって、こんなに毎日悲劇のヒロインみたいに泣いていたら、まるで瀬名先輩が悪者みたいじゃないか。
 今は方法が分からないけれど、前に進んでいれば、いつか、私と瀬名先輩の間に何かが起こるかもしれない。
 そんな奇跡を、信じてもいいだろうか。
 ねぇ、瀬名先輩。
 また、あのときみたいに、ぶっきらぼうだけど本当は優しい言葉で、私のことを叱ってよ。
 私、強くなって、もう一度瀬名先輩との関係を築きたい。
 そうなるためには、今、目の前にあることに向き合うしかないんだ。
 そう言い聞かせて、私は参考書を開いた。
 見えないゴール。どんなに走っても、その先に、瀬名先輩はいないかもしれない。
 でも、歩みを止めたままじゃ、きっとどこにも行けない。



 夏休みが明けて、受験ムードもいよいよ本格的なものになってきた。
 ピリついた空気を肌に感じながら、引き続き担任になった小山先生も、いつにもまして授業で真剣な様子だ。
 私は、志望大学をいくつか絞って、放課後は、自分のレベル内でなんとか行けそうな大学の赤本を解く毎日を送っている。
 今日もひととおり授業を終えて、まっすぐ家に帰ろうとすると、小山先生に呼び止められた。
「桜木、ちょっと話そう。お前学部迷ってんだろ」
「あ、はい……」
「隣の教室空いてるから行こう」
 放火事件があって以来、小山先生にはずいぶんと心配をかけてしまっている。
 そのことを申し訳なく思いながらも、私は荷物をまとめて先生のあとをついていった。
 空き教室にある机を動かして、先生は向かい合わせで話せるようにセッティングしてくれた。
 今になってようやく気づいたけれど、小山先生は、本当にいい先生だと思う。
 小山先生が言ってくれることは、本当に全部私の"将来"を思ってのことなのだと、進路に向き合った今しみじみと感じている。
 静かに椅子に腰かけると、小山先生は私の顔を見つめて、ひとつ質問した。
「文系受験で考えてるんだよな? どっちかというと現代文が得意分野なようだし、文学部にある程度絞って、対策したらどうだ」
「はい……、なんとなくそうは思ってます」
「今ひとつピンときてない?」
「ピンときてない、というか……」
 小山先生に鋭く問いかけられた私は、俯いて自分の意見をまとめようと必死に脳みそを回転させた。
 そもそも、自分の進路に今の年齢でピンときている学生がどれだけいるだろうか。
 いちいちこんなところで躓いていたら、きっと前に進めない。
 焦る気持ちと、納得いっていない自分。
 気持ちに折り合いがつかないまま勉強をしていても、成績はなかなか上がらない。
 そんな私を黙って見つめていた小山先生が、またひとつ質問してくれた。
「桜木には、大切な人いるか」
「え……」
「勉強したら、自分の手で守れるものが増えるかもしれない。そんな未来を想像してみたら、答えが出るかもしれないぞ」
 そう言って、小山先生は優しく笑う。
 "大切な人"と言われたときに、真っ先に目に浮かんだのは、やはり瀬名先輩だった。
 勉強したら、守れるものが増えるかもしれない……。
 それは、本当に? こんな私でもそんなことができる?
 思わず自分の両手を広げて見つめ、守りたいものを考えてみる。
 心因性記憶障害を持った瀬名先輩は、大切なものをつくることをずっと諦めてきていた。