『何ひとつ、忘れたくない』。
最後の投稿は、その一言で終わっていた。
文章と一緒に添えられていたのは、肩甲骨の高さまで伸びた髪が、春風に舞い上がっている見知らぬ女の子のうしろ姿。
背景には勿忘草が咲きほこっていて、彼女はそれを体育座りで眺めている。
淡い青色の世界に、ぽつんと座っている彼女の姿を見て、理由も分からず涙が出た。
……教えて。
この涙の理由を、誰か教えて。
誰かのなにげない言葉が、胸の奥の奥まで深く刺さって抜けないことなんて、よくあることだろう。
言葉は心を締め付ける呪いの力も、誰かを救う魔法の力も持ち合わせている。
きっと誰しも、無意識に誰かを言葉で傷つけて、そして傷つけられて生きている。
高校二年の冬。私は、もう誰にも傷つけられたくないし、誰も傷つけたくないと思ってせまい世界で生きていた。
そのためには、ひとりでいるのが一番の方法だと思ったのだ。ただそれだけの話なのだけれど。
「あのな、桜木(サクラギ)。なんかあるなら言ってくれ。なんでも聞くから」
ジャージ姿の男性教師が、ボールペンのノック部分でこめかみを押さえながら眉を顰めている。
黒髪短髪の小山(コヤマ)先生は私の担任で、まだ年齢も若く、考えが近いお陰か親しみやすくてうちの学校ではなかなか人気がある。
職員室の窓ガラスの向こうには、淡雪が降っている景色が見えて、空は白に近い灰色だ。
この天気だから、今日は図書館に寄らずに早く帰ろうと思っていたのに、ひとりで任された日誌を職員室に届けに来たところ、小山先生に少し話があるから座れと言われてしまった。
年季の入ったストーブで手を温めながら、私は何ごともなくサラサラと質問に答える。
「なんにもないです、本当に。学校楽しいです。実際毎日ちゃんと来てますし」
「たしかにな。ちゃんと来てはいる」
「先生はなにがそんなに不安なのでしょうか」
「高校生活は一度きりだからな。別に学校が嫌いじゃないのなら、もっとクラスメイトと交流してみたらどうだ。図書室通いばかりじゃなくて」
大人になったらひとりで生きていくことは自由なのに、どうして学生のうちはこうも心配されてしまうのだろう。
私は自分の意思で「ひとり」を選択しているのだと、十代のうちは分かってもらえない。
単独行動の生徒は、大人にはそんなにかわいそうに見えてしまうものなのか。
私は声にできない疑問を胸の中に増幅させ、小山先生の大きな瞳から目を逸らした。
ストーブからは柔らかな温熱が発せられていて、加湿器代わりに上に乗せられた銀色のやかんは、シュンシュンと音を立てて沸騰している。
私は、少し大きめのグレーのセーターを指先まで伸ばして、ストーブで温まった手を保温した。
「桜木。どんな毎日も人生最後なんだぞ。大人になったら同じような毎日はあったりするけど、学生時代はそうじゃない。今は分からないと思うけど、本当に日々の色濃さが違うんだよ。俺は桜木の意外とジョークが通じるところとか、シュールな感性持ってるところとか、知ってもらえないのはもったいないと思うけどな」
「その、シュールな感性って褒め言葉なんでしょうか……」
小山先生は美術の先生だ。授業で私が描いた絵を見たときに『上手いのか下手なのか分からないところがいい』と、非常に分かりにくい称賛をしてくれた。今でもあれは褒め言葉なのか疑問だ。
小山先生のことは嫌いではないけれど、私がひとりでいたいことを理解してもらうには、きっとまだ難しいだろう。
うちのクラスは皆仲がいいので、余計に私が浮いて見えて、気になってしまうのはすごくわかる。
私は黒いリュックを背負って立ちあがると、ペコリと頭を下げてお礼を伝えた。
「気にかけていただきありがとうございます。でも本当にお気遣いなく。あと先生、やかんの水、もう空っぽだから気をつけてください」
「えっ、あぁ、本当だ。入れておくわ」
「さようなら。失礼しました」
「待て桜木。これ持って帰れ。引き止めて悪かったな」
先生が投げた何かをパシッと両手で受け取った。
手を開くと、そこにはミニサイズのホッカイロがあった。
「元気がないときは体を温めるのが一番らしいぞ」
「……ありがとうございます」
私、全然元気なんですけど、という言葉を飲み込み、小山先生の善意を素直に受け取って、私は職員室をあとにした。
ここはすごく田舎だけど、澄んだ冬空に煌々と輝く星は美しい。
今日は雪だから、そんなまぶしい星は見えないけれど、でも私は、灰色の雪空の方が落ち着くから好きだ。
「寒すぎる……。しかもバス遅れてる」
靴を履きかえ校舎から出ようとしたけれど、アプリに遅延通知が流れて外に出るのをやめた。
下駄箱が整列した冷たい昇降口から、雪が積もったバス停の景色を、ぼんやり眺めていると、どこからか話し声がかすかに聞こえてきた。
「……ずっと好きで、だから、瀬名(セナ)先輩と付き合いたいんだけど」
開けっぱなしの空き教室から聞こえる女子の声は、緊張で震えていた。
聞いてはいけないと思いつつも、雪が降ってる日の校舎はすごく静かで、他になにも生活音がなくてどうしても耳に入ってきてしまう。かといって、いつ遅延したバスが来るか分からないからこの場から動けない。
「俺、お前のこと忘れたことないよ」
男子側の声が聞こえた。言葉の意味と裏腹に、なぜかその声はとても冷たい。
瀬名……。なんかどこかで聞いたことのある名前のような……。
「え、それってどういう意味……?」
「俺が覚えてるってことは、俺にとって村主(スグリ)は全然特別じゃないってことだから」
覚えてるってことは、特別じゃないってこと。
普通は、逆の意味になるはずなのに。
そこまで聞いて、私はこの人が誰なのか、完全に予想がついてしまった。
「わ、分かってるよ……。瀬名先輩の記憶障害のことは……。それでも、そばにいたいの」
「なにそれ、すげぇな。ドラマみたい」
ーー三年生に、記憶障害を持った先輩がいると、クラスメイトが噂しているのを聞いたことがある。
それも、その先輩の見た目がとんでもなくいいせいか、よく話題になっていた。
『瀬名先輩は、大切な人の記憶だけ忘れてしまうんだって』。
そんな記憶障害があるんだと、聞き耳を立てながら少し驚いたのを覚えている。
そしてそのとき、瞼を閉じて想像したんだ。
永遠に大切な人だけが現れない世界を。
……想像したら、現状と変わらない世界すぎてひとりで授業中に失笑してしまったんだった。
なんて、くだらないことを思い出しているうちに、会話は進んでいた。
「とにかく、私は伝えたから。返事はいつでもいいから」
「返事はいつでもいいなら今言うよ。答えはNOで」
「ちゃんと考えろ! バカ瀬名先輩! また明日話しかけるから、じゃあね」
「痛って、中身入ったペットボトルで殴るな」
やばい。女生徒がこちらに近づいてくる。
私は息を殺して下駄箱の影に隠れて、バレないように身を潜めた。
幸い、女生徒は気持ちが昂っていたせいか、こちらにまったく気づくことなく昇降口から出て、自転車置き場に向かっていく。
チラッと見えた彼女は、長い茶髪に短いスカート姿で、その横顔は泣いているように見えた。たしか、あの子は同じ学年で隣のクラスの子だ。
「これが失恋……」
しまった。ひとりでいる時間が長すぎたせいで独り言が増えてしまった。
私はスノコの上で体育座りをしながら、自分の口を片手でふさぐ。
ふわふわと舞い降りる淡雪の中に、彼女のうしろ姿が消えていくのを見つめながら、私は瀬名先輩が帰るのを待つことにした。
「なに盗み聞きしてんの、エッチ」
「えっ……」
座っているスノコが軋んで、黒い影が覆いかぶさってきたときにはもう遅かった。
無表情な瀬名先輩が、私の顔をじっと見つめて反応をうかがっていた。
無造作にセットされたアッシュ系の黒髪に、色素の薄い茶色い瞳。そして、透き通るような白い肌。
ブレザーの上には、高そうなダークグレーのダッフルコートを羽織っている。
長めの前髪から見え隠れする目つきは冷ややかで、顔立ちが整いすぎているせいか人形みたいに生気がない。
「……お前、二年生?」
「はい、す……、すみません」
親と教師とコンビニ店員以外の人に、久々に話しかけられている。
緊張で頭の中が空っぽになってしまった私は、目を丸くしながら固まっていたけれど、すぐに正気を取り戻して慌てて立ちあがる。
「ご、ごめんなさい。ここでバス待ってて、決して覗き見したり聞き耳を立てていたわけでは……あ!」
気が動転していたせいか、カバンの中身がバサバサと音を立てて漏れ出てしまった。
ハンカチや小説、ノートが散らばり、私は慌ててそれを掻き集める。
耳まで熱を持って赤くなっているのが、鏡を見なくたってわかる。
「ひ、久々の人間との対話で、完全に動揺してしまった……」
「それ独り言?」
「独り言です。すみません、さようなら。失礼します」
幸いなことに、ちょうど遅延していたバスが校門から入ってくるのが見えた。
私はローファーを素早く履いて、瀬名先輩の顔も見ずに校舎から飛び出す。
心臓が信じられないスピードで拍動している。もし顔を覚えられていて、明日からイジメられたらどうしよう。
ここは一応進学校だけど、瀬名先輩は、校内でもひときわ派手で権力の強い人たちに囲まれていた気がする。
「どうしよう……」
いつのまにか雪は雨に変わっていて、降り積もることなく水になっていく。
鎖骨下あたりまで伸びている自分の髪の毛が、芯まで冷えていた。
窓から見上げた空は暗くて、ひとつも星は見えなかった。
〇
その日、私はとてつもなく焦っていた。
もし自分が下着を履かずに登校してきたことに気づいたら、衝撃でその場から動けなくなるだろう。
私にとってそのくらい『ないと困るもの』をどこかに置いてきてしまった。
それは、クラスメイトのプロフィールや、その日感じたことを細かく記した、ポエムみたいな痛い日記帳だった。
「終わった……」
騒がしい朝の教室で、私は誰にも聞き取れないくらいの声のトーンで独り言をつぶやく。
もしあれを誰かに見られたら、生徒のデータ分析をしてる危険人物とみなされ、皆に不安な気持ちを与えさせてしまうに決まっている。
どこだ。いったいどこであの日記帳を失くしたのだ……。
焦りながら、自分の机の中やロッカーの中をくまなく探していると、ふと教室の空気が変わったのを感じとった。
なんだか昨日と同じようなパターンで、嫌な気配が漂っている気がする。
誰かが私の机の前に立ち止まって、目の前に必死で探していたブルーの日記帳が現れた。
「桜木琴音(コトネ)って書いてあるけど、これ、お前の?」
「あ……!」
瞬時に奪い取ろうとしたが、彼ーー瀬名先輩は、すぐさま日記帳を天高く移動させて、私の焦った顔を見てから「やっぱりお前のなんだ」とつぶやいた。
私の頭の中に、昨日カバンをひっくり返して飛び出た荷物を慌ててかき集めている自分の映像が浮かんだ。
そうか、あのとき慌てて落としてしまったんだ……。
よりによって、瀬名先輩に拾われてしまうなんて……。
でも待て、落ち着け私。まだ中身を見られたわけではない。
しかし、そんな期待はすぐに打ち砕かれた。
「お前なんでこんな記録つけてんの? 生徒の個人データ売ろうとしてんのか。あとたまに挟まるポエムも怖い」
「最悪だ……死にたい」
まずい、息をはくように心の声が出てしまった。私は慌てて口を片手で押さえて、隙をついてポエムを無理やり奪い返そうとしたがまたも失敗に終わった。