俺は精一杯に生きてきたつもりだが、心残りはむろん多々ある。自分なりに人生の目標があったし、家族のために成したいこともあった。岡先生やお前の好意に報いることなく死ぬことを残念に思う。千鶴との約束も果たせなくなった。とはいえ、今の俺はそれをいたずらに嘆くことなく、受けてきた恩愛や友誼などの全てに報いるために、そしてこの国に再生の芽を残すために、この命を捧げようと思っている。それによって日本の未来に良き結果がもたらされるよう心より願っている。
 千鶴はこれから先の人生を、俺とは関わりなく生きて行かねばならない。身勝手な頼みごとだが、千鶴への助力をよろしく頼む。洋子がお前と結ばれるなら俺にはこのうえなく嬉しいことだが、それはお前と洋子のことゆえ、俺はただお前たちの幸福を願うのみだ。
 このノートと出雲の家や千鶴に宛てた手紙などは、信頼できる士官に依頼して送り出してもらうが、全てが無事に届くとは限らない。俺の家族や千鶴が望む場合には、このノートを見せてやってはくれまいか。
 お前に書き遺すのもこれが最後になるかも知れないので、すでに何度も書いてきたことだが、ここで改めてお礼を言わせてもらう。お前のおかげで俺の人生はより良きものとなった。忠之よ本当にありがとう。
 より良き日本を遺すことを願い、そのために俺たちは命を捧げるのだが、将来の日本の姿を見ることができない。忠之には俺の分までそれを見届けてもらいたい。〉
 良太は日本の未来に想いを馳せた。敗戦から立ち直るであろう未来の日本を想っていると、あの不思議な夢のことが思い出された。できることならあのようにして、夢でもよいから見てみたい、これから先の日本の姿を。
 死んでも霊魂は残るわけだから、俺は未来の日本を見ることができるかも知れない。それとも、死んでからはあの世の内側しか見ることができないのだろうか。それにしても、あの世とはいったいどんな所だろう。死んだら天国へ行くと言った木村は、霊魂の実在を信じているに違いない。俺は無宗教に近い生き方をしてきたわけだが、霊魂が存在していることを信じるどころか、それが実在することを知っている。俺の場合には、霊魂の実在を知っていることが、宗教にもまして俺を救ってくれたことになる。霊魂と会話のできたあのお婆さんのおかげだから、あのひとに感謝しなければならない。
「森山」吉田の声が聞こえた。「風呂にゆこう。近くの家で入らせてもらえるそうだ」
 良太はノートを風呂敷にもどすと、折り畳んであった手拭をとりだした。
 良太は吉田とつれだって、宿舎の出入り口に向かった。建物を出てからふり返ると、割れずに残っている窓のガラスが、午後もおそい日ざしをはねかえしていた。
 吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが35歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は20歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、35まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。35年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ12だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」
「そう言えば、小林が歌を作ったことがあったな。嵐に散る花の歌。おぼえているか、あの歌。特攻が有意義なものであってほしいという、そんな願いをこめた歌だった」
「おぼえているよ、正確じゃないかも知れないけど」と吉田が言った。「小林は国文だったそうだが、俺たちよりも先に逝ってしまったな」
 もの静かに本を読んでいた小林の姿が思い出された。小林が仲間に歌を披露したのは、特攻要員に指名されて間もない頃だった。