若葉の季節がおとずれてまもなく、鹿屋へ進発すべく良太に命令がくだった。すでに多くの仲間を見送っており、心の準備もおえていた良太は、来るべきものが来たという心境でそれを受けとめた。
 出撃直前に与えられる一泊だけの外泊許可は、千鶴や忠之と会うことができる最後の機会であった。良太は千鶴と忠之それぞれに電報をうち、吉祥寺駅に着く予想時刻と、外泊許可を得ていることを知らせた。
 良太は身のまわりの品を整理した。遺品の多くは出雲へ送ることにして、出雲から持参していたトランクにつめこんだ。千鶴と忠之には三鷹でノートを渡すつもりだったが、考えなおしてノートはすべて鹿屋まで持って行くことにした。鹿屋で幾日かを過ごすとなれば、その地でも言葉を記したくなるにちがいなかった。
 文庫本や島崎藤村の詩集が浅井家の書斎を思い出させた。それらは全て千鶴に残すことにした。
 良太は藤村詩集の47ページを開いて、余白に千鶴が記してくれた言葉を読んだ。
〈良太さんお誕生日おめでとうございます。私は書斎の机の上に花を飾ってお祝いをしています。飾ってあるお花は沈丁花です。………〉
 十日ほど前の誕生日にそれを読んだとき、良太は滲みでようとする涙をけんめいに抑えたのだが、出撃を目前にしたいま、読みなおしても涙はでなかった。
 良太は62ページをひらいた。
〈今日は千鶴の誕生日です。私は良太さんが与謝野晶子の歌集に書いてくださった言葉を読んでいます。机の上には芍薬があります。………〉
 千鶴の誕生日はひと月半ほど先だった。良太は千鶴の悲しみを想った。千鶴は今度の誕生日をどんな気持ちで迎えることだろう。
いきなり涙があふれ出てきた。良太はそばに置いてある布袋の上に身をかがめ、物を探しているふりをしながら涙をふいた。
 良太は家族と親戚に別れを告げる手紙を書いた。家族の悲しみを可能な限り癒したいがために書く手紙であったが、計り知れないほどの悲しみと衝撃を与えることになる手紙でもあった。それを読む家族の心情を想いつつ、良太は滞りがちなペンを進めた。
 良太は忠之の父親と浅井家の人々にも手紙を書いた。恩情を謝す礼状であり、別れを告げる手紙であった。
それぞれの手紙に書くことがらは、あらかじめ考えておいたのだったが、全てを書き終えるにはかなりの時間を要した。それらの手紙は翌日の外出時に投函することにした。
 良太は千鶴のためのノートを開き、しばらく考えてからペンをおろした。
〈運命の糸に手繰られるまま浅井家に至り、爾来二年余にわたって厚情を受けたこと、深甚なる感謝あるのみ。故郷を遠く離れた東京の地で得た幸運をつくづく思う。
 懐かしきかな書斎での思い出。千鶴と語りし言の葉の数々。千鶴と味わいしあのパイナップル。様々な佳きこと、様々な思い出、それらが千鶴と共にあることを嬉しく思う。千鶴と出会えたことこそ我が人生最大の喜びであった。
 これまで千鶴の人生二十年、その中に喜の時を共有し得たことを俺は嬉しく思う。しかしながら千鶴の人生は長きに渉るもの。我等が共有した時間は僅かなものに過ぎない。
 これから先の数十年、この国が変わって行く中で千鶴を様々な運命が待っているはず。新しき世の中で千鶴は新しき道を歩まねばならない。千鶴はいかなる道を歩むことであろうか。良太を伴ったままに新しき道を歩むことは困難であろう。千鶴は身軽にならなければならない。千鶴は身軽になって新しき道を歩まねばならない。千鶴よ幸せな人生を歩めよ。〉
 ペンを置くと、千鶴のために記す言葉は何も残っていないような気がした。
 明日は千鶴に会えるのだ。このノートは三鷹で千鶴にわたそう。郵送されたものを受けとるよりも、俺から受けとるほうが千鶴には嬉しいはずだ。俺もそうしたい。鹿屋で言葉を書き遺したければ、千鶴には手紙を書くことにしよう。
良太は千鶴に渡すノートを風呂敷に包んだ。