つぎの日、良太はくりかえし主張した。問題の書物は好奇心にかられて買ったものにすぎない。どうしても疑うというのであれば、自分を京都へつれてゆけ。
 良太は午後になってようやく解放された。どうやら無事にすんだと安堵しつつも、特高に対する憤りと憎しみがつよく残った。
 すぐにも千鶴に会って安心させたかったが、頭の傷が髪に隠れるまでは、浅井家を訪ねたくなかった。
 考えた末に、良太は千鶴に手紙を出すことにした。忠之から下宿の住所を記した紙を渡されていたので、浅井家の宛て先はわかっていた。
 特高に監視されているなら、投函した手紙が調べられる可能性がある。良太は心しながら文字をつづった。同じ下宿の学生に対する嫌疑が事の発端であり、自分については単なる誤解であったこと。かたづけたい用事があるので、浅井家を訪ねるのは数日先になること。
 封筒に記した千鶴の名前を見ていると、すぐにも千鶴に会いたくなった。千鶴は不安におののいているはず。すぐにも会って安心させてやりたい。笑顔の千鶴と言葉を交わしたい。

 良太が特別高等警察に出頭してから数日後、千鶴は良太からの手紙を受けとった。
 良太が釈放されたことを喜びながらも、千鶴の不安は消えなかった。疑いが晴れたというのに、どうして良太さんは来てくださらないのだろうか。手紙には心配するようなことは無いと書かれているが、ほんとうに安心できる状況であろうか。
 良太からの手紙が届いた日の午後、出雲から忠之が帰ってきた。相談する相手ができて心強くはなったが、忠之から慰められても、千鶴の不安がやわらぐことはなかった。
「俺が明日から講義を受けること、良太も知っているから、大学で俺に会うつもりじゃないかな。明日は早めに大学に行くよ」と忠之が言った。
 
 良太は大学の通用門で忠之を待った。忠之がその日の講義を受けることは、出雲へ帰る車中で聞かされていた。
30分も待たないうちに忠之が姿を見せた。
「下宿に踏み込まれるとは予想もしなかった。まったくの油断だったよ。お前にも千鶴さんにも心配をかけてしまった」
「でも良かったじゃないか。拷問で殺された小林多喜二などとちがって、それほど苦労しなくてすんだみたいだから」
「法科で良かったよ。特高に眼をつけられている経済学部だったら、今ごろはまだ警察の中だろうな」
「もう心配はないだろう。お前がアカじゃないこと、特高にもわかっただろうから」
「今のところ、見張られてもいないようだ。ゆだんはできないけどな」
「あの本のことだけど、どげなふうに言い逃れたんだ」
「京都の古本屋で買った本だと言い張ったんだ。ほんとに京都で買ったつもりになってしゃべった。我ながらうまくやったと思うぞ」
「たいしたもんだ、さすがだな。そういうことなら、千鶴さんに会いに来たっていいだろう。早く安心させてやれよ」
「念のために、もう一日だけ様子を見ようと思うんだ」と良太は言った。「相手は特高だ。何が起こるかわからんからな」
 その夕方、忠之から良太のようすを聞いて、千鶴はどうにか気持が落ちついた。すぐには会えないと手紙に書いてあったが、明日は良太さんが来てくださる。
 千鶴は書斎に入り、良太からの手紙を机のうえにひろげた。
 手紙の文字を見ながら千鶴は思った。私が良太さんに手紙を書くとすれば、どんな手紙になるのだろうか。そう思ったとたんに、千鶴は良太を慕っている自分を意識した。良太さんに送る手紙には、良太さんへの思いを記したい。
 いつからだろう、良太さんに対してこんな気持を抱くようになったのは。初めて会ったとき、優しくて純粋な人柄だとは思ったけれど、それ以上の感情は抱かなかった。それなのに、今では良太さんのことが気になって仕方がない。私は良太さんに対してこんな気持を抱いているが、良太さんは私のことをどのように思っておいでだろうか。出雲のことを話してくださるようになった頃から、私に向けられる良太さんの眼差が変わったような気がする。この手紙には、私に対する良太さんの気持が込められているみたいだ。良太さんも、私のことを思ってくださっているような気がする。ほんとにそうならとてもうれしいけれど。
千鶴は良太からの手紙をひきだしに入れると、日記用のノートをとり出した。良太に対する気持をはっきりと自覚したいま、そのことを記しておかねばならなかった。