俺が死んだら千鶴はどうなるだろう。死んでしまえば悲しむ千鶴を慰めてやることもできない。俺は死んではならず、生き残るための努力を怠ってはならない。俺の生還をひたすらに願っている者たちがいるのだ。確実に戦死するような道を選んではならない。たとえ俺たちが特攻出撃をしたところで、この戦争に勝てる見込みはまったく無い。国が危急存亡の岐路にあろうと、無駄に死ぬわけにはいかない。
 良太は特攻隊を志願しないことにした。そのように思い定めて眼をあけると、雲間からの陽射しがまぶしく飛びこんできた。
 体がすっかり冷えていた。立ちあがって辺りを見まわすと、枯草の上にはまだふたりほど残っていた。
 良太は歩きながらポケットから紙片をとりだし、そこに記されている文字を眺めた。〈熱望〉〈希望〉〈希望せず〉
 良太は思った。俺は希望しないが、そのように回答した俺を、航空隊はどのように処遇することだろう。飛行長の言葉には志願を迫るひびきがあった。特攻隊を志願しないとすれば、冷たく扱われることを覚悟しなければなるまい。
良太は不安に襲われた。志願しても特攻隊員に選ばれるとはかぎらないが、志願を拒絶したなら、生還を望めない役割を与えられるのではないか。そうだとすれば、志願した方がよいのではないか。
良太は歩みを止めて、紙片に記されている文字をあらためて見つめた。〈希望せず〉を選んだところで、戦闘機乗りの自分が生き残ることは難しいはず。そうであろうと俺は志願しないが、仲間たちはどのように回答するのだろうか。希望しないと回答するにも勇気を要す。厳しい処遇を覚悟し、周囲の眼にも耐える勇気だ。もしかすると、かなりの者が、不本意ながらも〈希望〉を選ぶかも知れない。その一方で、すすんで志願する者も少なくないという気がする。フィリピンでの特攻出撃を知らされたとき、機会があれば特攻隊を志願するつもりだと、興奮しつつ語った仲間が幾人もいた。中には、敗北は必定と思いながらも、救国の念にかられて志願する者もいるような気がする。そのような殉国行為を無駄なものと言えるだろうか。そうであっては断じてならぬ。特攻隊員の戦死を無駄にしてたまるか。特攻出撃が無意味なものであろうはずがない。このまま敗けてしまうわけにはいかない。たとえ敗けるにしても、日本と日本人を残さねばならない。
 戦争に負けても日本を残すこと。そのためには、敵国に日本人の愛国心の強さを見せつけなければならない。その役割をはたすものこそ特攻隊ではないか。多くの特攻隊が出撃することによって示せるではないか、日本人は祖国を限りなく愛しているゆえに、国家の危急存亡に臨めば自らの命を捧げ、自分たちの祖国を護りきろうとするのだ、と。
 飛行場をふり返ると、枯れた芝生に腰をおろしている仲間が見えた。冷たい冬の芝生のうえで、二人の仲間は彫像のごとく固まっていた。良太はその姿を見てうしろめたさを覚えた。自分が安易に卑怯な結論を出したような気がした。
 良太は芝生に腰をおろした。仲間のひとりが立ちあがり、建物に向かって歩いていった。良太は膝をかかえて眼をとじた。
 敗戦国としての日本を思えば、特攻隊の出撃には大きな意義がありそうだ。多くの特攻隊が出撃していたならば、戦後の処理にあたる戦勝国とて、日本人の愛国心を無視することはできないだろう。そうであるなら、我々のはたすべき役割は特攻出撃にあるのではないか。特攻機を操縦できるのは、おれたち操縦員しかいないのだ。このことに気がついたからには、おれは特攻隊に志願すべきではないか。隊の仲間たち全てにそれは言えることだが、仲間たちはどのように考えているのだろうか。
 良太は眼をひらき、辺りを見まわした。芝生のうえには良太しか残っていなかった。
 極めてわずかとはいえ、生還できる可能性のある道を選ぶか、それとも敗戦後の日本に再建の芽を残すべく、この国に命をささげる道を選ぶか、俺はいま、それを決めようとしている。死にたくないゆえに特攻隊を志願せず、しかも運よく生き残った場合、俺はどんな人生を送るだろうか。亡国阻止のための出撃を避けたことを悔い、負い目を抱えて生きてゆくような気がする。
 良太はなおしばらく考えてから、ようやくにして答を出した。良太は腰をあげ、教室のある建物に向かった。
 教室に入ってみると誰もいなかった。教卓に積みあげられた回答用紙が、仲間たちの多くがすでに回答していることを教えた。
 良太は椅子に腰をおろして、回答用紙に眼をおとした。家族や千鶴たちの顔が次々にうかんだ。先ほど俺は特攻隊を志願することにしたのに、ここに座ったら迷いがある。俺は優柔不断に過ぎるだろうか。
 良太は立ちあがり、〈熱望する〉という文字に印をつけた。これでよいのだ、と良太は思った。熟慮のうえで決断したのだ。志願するからには〈熱望する〉と答えたい。とにもかくにもこれで終わった。これでよいのだ。
 志願しても特攻要員に指名されるとは限らなかったが、運命は既に決したような気がした。
 良太は回答用紙を持って教壇に向かった。机のうえには回答用紙が積み重なっている。一番上に置かれた用紙には、〈熱望する〉に印がつけられている。そのことが良太に安堵感に似た感情をもたらした。
 良太は靴音をおさえて教室をでた。威勢よく歩くことがためらわれるほどに、誰もいない教室は静寂だった。