新聞が報じる悲報を読むたびに、良太の胸にはアメリカに対する敵愾心が湧いた。恩師の影響もあって、良太は高校生の頃から軍部の暴走をにくんでいたし、聖戦と称されている戦争に対しても批判的であったが、その一方で、勝てるとは思えないにもかかわらず、アメリカには何としてでも勝ちたいと、心の底から強く願った。
 6月の末にとどいた父親からの手紙が、良太につよい衝撃を与えた。従弟の龍一が南の海ですでに戦死していた。
 龍一の家も同じ村にあった。幼い頃の龍一はしばしば良太の家を訪れ、そのまま泊まることも珍しくなかった。良太にとって龍一は弟のような存在だった。
 手紙によれば、龍一の葬儀はすでに終わっていた。遺骨もない葬儀ということもあり、良太を帰郷させるようなことはしないで、すべてが終わってから報せてきたのであった。
 良太は龍一の父母と自分の家族に手紙を書いて、龍一にたいする哀惜の想いを伝えた。その手紙には、夏休を利用して帰省することも伝えた。戦時のために夏休は短いものとなったが、出雲でしばらく過ごせるだけの日数はあった。

 出雲に向かう日の前日、良太は浅井家を訪ねた。千鶴が千人針に関わる用事で出かけていたので、良太は畑の手入れをしながら、千鶴の帰りを待つことにした。
 千人の女によって一針づつ赤い糸を縫い付けられた白布が、千人針と呼ばれるお護りとして、出征兵士に渡されていた。妹の洋子が千人針を縫っている姿を、良太は出雲で見たことがあった。出征する村人のための千人針だった。
 畑の半分以上にサツマイモが植えられていた。出雲から取り寄せた種芋から苗をとり、6月に入ってから植えつけたのだった。4本並んでいるナスの株には、いくつもの黒い実が揺れていた。
 千鶴の声にふり返ると、千鶴と母親の笑顔があった。
 千鶴が風呂敷包みを持ちあげて、「千人針。出征するご近所の人のよ」と言った。
「俺が出征するときには、千鶴さんが縫ってくれた千人針を持って征くからな。卒業してすぐに出征するにしても、まだずいぶん先のことだけど」
「森山さんったら気が早いわね。その頃には終わってますよ、この戦争は」
「そうよ、終わるに決まってる。すぐに終わってほしい、こんな戦争なんか」
「だめよ、大きな声で。だれかに聞かれでもしたら、非国民呼ばわりされるわよ」と母親がたしなめた。
 良太は思った。俺と忠之に感化されたことで、千鶴に困ったことが起こったらどうしよう。そんなことにならなければよいが。
 本を読みながら千鶴を待つことにして、良太は先に書斎に入った。窓は開いていたが暑かった。風が入りやすいようにカーテンを引きあけてから、良太は書棚に近づいた。
 並んでいる現代日本文学全集のなかから、良太は石川啄木集をぬきだした。
 良太は椅子に腰をおろすと、机上にあったうちわを使いながら、〈雲は天才である〉のページを開いた。
 ほどなく、あけ放してある入り口から千鶴が入ってきた。
 千鶴は手にしていた盆を机におくと、「よかったわ、良太さんに食べてもらえて。おいしいのよ、このパイナップル」と言った。
 並んでいる皿を見ながら良太は言った。「これがパイナップルか」
「いただきものよ、パイナップルの缶詰。お父さんは2年も前に亡くなったのに、お父さんの仕事の縁で、こんな物をいただけるのよね、こんな時だっていうのに」
「俺は見るのも初めてなんだ、パイナップルは」
 良太は千鶴とならんで、初めてのパイナップルを味わった。
「なあ、千鶴さん」と良太は言った。「この書斎があったおかげだよ、俺たちがこんなふうになれたのは。千鶴さんのお父さんに感謝したいよ」
「そんなふうに言われると、とても嬉しい。私と千恵をかわいがってくださったお父さんが、まだ私のことを大事にしてくださっているみたいだもの」
 うちわで千鶴に風をおくると、「ありがとう、とても気持いい」と千鶴が言った。
 幾すじもの髪が千鶴の顔にかかって、うちわの風にあおられていた。眼をとじている千鶴が、なぜか淋しげに見えた。
「眼を閉じている千鶴さんは、心配ごとでもしているみたいに見えるよ」
「良太さんとこうしていると嬉しいし、とても幸せ。でもね、ときどき不安になるの、戦争がいつまでも続いたら、私たちはどうなるのかしらって」
「取り越し苦労はしないことだよ。せっかくの幸福な気分を大切にしなくちゃ」
 千鶴が体をまわして良太を見つめ、「幸せよ、私は。とっても幸せな気持ち。だけど私は……良太さんともっと幸せになりたい」と言った。
 良太は千鶴を抱きよせた。千鶴をいとおしく思った。千鶴にはいつまでも幸せであってほしい。千鶴といっしょに幸せな人生を送りたい。
 良太は千鶴にキスをした。ヨーロッパ映画では幾度も見たことがあったけれども、良太はぎこちなく千鶴と唇を合わせた。