これは恋じゃなくて愛。

 遊ぶ友人には不自由したことがない。周りから人が居なくなる事の無い、わりと恵まれた人生だった。ただ、親友と呼べる人物が居るかはちょっと疑問が残る。でもそのくらいだ。
 ただその縁は、時限のあるもので人生の節目ふしめに切り替わっていく。幼稚園から小学校、小学校から中学校、中学から高校、高校から今現在の大学時代へと。
 高校から続いている交友関係はそのほとんどが途切れてしまっていたその中で、珍しく今でもやり取りを続けている人物が居た。
 言っても彼とは特別な関係になったこともない。そもそも他校だった為にそれほどの頻度で会うこともなかったように思う。考えてみると、会って話したことは数回、ほとんどのやり取りがメッセージアプリか電話だ。
 男子と女子ではまた違うのだろうけれど、部活は同じバレー部で。学年も同じ。声を掛けたのは私だった気がするけれどその辺りはぼんやりとしている。部活もさほど力を入れていた訳じゃないから、大会で会うことも稀だった。
 ずっと昔から、それこそ幼馴染と言えるような関係にも似ていて、彼と居る時にはいつもみたいに自分をうまく作り上げられたことがなく、そんな私でも彼は話を聞いてくれたし全く関係ない愚痴もたくさん聞いてくれた。私からすれば不思議な関係だった。
 都合が良すぎるのでは、と思った時期もあった。だって彼には下心があったはずだから。けれど彼は何の気なく、いいよ、という。

「付き合いたいなんて言わない。相川が、気楽に愚痴を言えて息抜きできる、相川にとって都合のいい人物でありたいんだ」

 それなら、とそれ以上は何も言わなかった。
 妄想するなら妄想してくれても構わない。そんなもので私はすり減りはしないのだと言えば、軽々しくそんなこと言うなよ、と彼は珍しく心配した様子で忠告した。
 私の周りで私にそんなことを言える人は数少なく、そんなところにも少しばかり気を許してしまっていたのだと思う。


 ふとした時に浮かぶのが須田だった。

「反応できないときも、あるかもしれない。でも、出来る限り気付いたら返事はする。電話でも、呼び出しでも構わない。相川が傍に居て欲しいと思った時にもし、俺が浮かんだなら。俺は出来る限り君の傍に、居たいと思っているから」

 そんな言葉をくれたのは彼が初めてだった。だからこそ印象に残っていたのかも、なんて思いながら電気も点けないでスマートフォンの電源を入れる。眩しさに目を細めながら、感覚だけで着信履歴を呼び出した。
 眠りに落ちていたはずなのにどうしてか目が覚めてしまった。時間を確認したところ、一時は回っているから、軽く二時間ほどは眠っていた事にはなるけれど。
 タップしようかしまいか迷っている間にうっかりと画面に触れてしまう。画面が切り替わり、小さく呼び出し音が聞こえる。
 出て欲しいのか出て欲しくないのか、自分でもわからないままコールを聞いてじっと待つ。
 何よ、出ないじゃない。
 ごろりと寝返りを打って天井を仰ぐ。視界が慣れてきて天井の木目くらいは見えるようになる。
 拗ねる反面で、こんな女に利用されて彼だって疲れているんじゃないかと珍しく弱気になってしまう自分もいる。だって、私は彼を都合の良い時に利用しているだけだ。
 いい人が居ればその人と遊んでいる、別れて寂しい時わがままを相手になかなか言えない時だけ彼と連絡を取る。夜中に目が覚めて電話やメッセージを送るなんて以ての外。最低な事をしている自覚はあった。
 私が男なら、こんな女は真っ平ごめんだ。早々に連絡先を消してしまう。
 ゆっくりと慣れ始めたコールに瞼を閉じて聞きながら、こんな時間だもの、出るわけがない。そう思って耳から離した。終了のボタンに触れるだけで終わるのだと、明日文句と謝りのメッセージを送っておけば問題ない。
 そう思って画面に触れようとした瞬間、通話時間が表示されて、動き出す。どきりと胸が跳ねた。

「もしもし……どうした?」

 そんな寝起きの声がささやかに、聞こえてきたから慌ててスマートフォンを耳に当てた。
 この時に、素直に起こしてごめんと言えたなら。どれだけいいだろうと考えはするけれど。口から出るのは可愛くない言葉。

「おそい」
「ごめん、勉強してたつもりが寝落ちてた。起こしてくれてありがとう」
「……そんなつもりじゃない、けど」

 寝ていたのは声からも分かる。けど、彼が勉強して寝落ちていたかはわからない。彼はいつも私が起こした事を気にかけないようにいつも理由をくれる。
 そうとわかっていても、素直に私が起こした、ごめんなさい、と言うことが出来ない。
 ねえ、それでもいいと言ってくれるのはどうして。聞きたくて仕方がないのに聞きたくない自分がいる。

「そうなの? でも助かったよ。だからありがとう」

 その言葉にいつもの、ふんわりと目を細めて笑う彼の顔が浮かんだ。キュッと、胸が締め付けられるように痛くなる。
 自分から掛けておいて用事がないというのは些か恰好がつかない。会話のきっかけになる取っ掛かりを探して、そうだ、と口にする。

「勉強、何してたの?」
「ん? ああ、レポート纏まってなくて。まあ、俺の事は良いよ。こんな時間に電話、どうした?」

 彼はいつも自分の話をやんわりと横においてしまう。そうやって彼自身の事よりも、私の話が聞きたいのだと話の流れを変える。
 私はその態度に、優しさに、甘えている。
 そうやって、私は何一つ彼の事を知らないのに、自分の事はぽろぽろと話してしまうのだ。寂しいから。
 けれど最近、私が彼の事を表面上のほんの少ししか知らない事に気付いて、胸が苦しさを覚えた。

「ちょっと、誰かの声が聞きたくて」
「俺で良かった?」

 すまなさそうに聞き返すその声に、ほんの少しだけ乗せられる安堵が心地いいのだとは教えてあげない。

「良くなかったら掛けてないと思うけど」
「だな。ごめん、変なこと言った」

 苦笑を零す声が耳に響く。
 ぽつりぽつりととりとめのない話をしていく。意味のない言葉が飛び交って、明日への不安がまだ暗い夜の部屋を泳いで。こんなにも狡い私に穏やかで優しい時間が過ぎていく。
 真っ暗な一人の部屋がとたんに二人の世界になる。この瞬間が、好きだった。

 この気持ちを、何と呼ぶだろう。

 付き合っている人は他に居る。遊ぶ友達だってたくさんいる。街に出れば声を掛けられて、身体の関係だけを持つことだっておかしいことだとは思わない。
 それでもその人たちは、作られた私しか知らない。飾られた姿しか知り得ない。
 お化粧をして、癖のある髪には時間を掛けてセットして、常に流行にのっかった衣装を身に着けて、小さなアイテムにも気を使う。
 虚勢を張って演じる、余所行きの自分を。それが彼の前でだけはどうしてか装えない。
 その意味が分かれば。この胸につかえた塊もぽろりと消えてしまう様な気がしている。
 いつの間にか起き上がって膝を抱えて布団の上に座る。指でくるくると髪を弄びながら電話に集中する。

「相川、もう三時回ってる」
「え」

 あ、と何かに気付いた様子で声を上げた彼が時間を告げた。どうやら彼は時計を見ることのできる環境に居るらしい。
 電話を掛けてから一時間以上経っている事を告げられて同時に、もう終わりなのかと残念な気持ちがふわりと浮かぶ。
 お互いに沈黙して少しの間、音が途切れる。

「相川は女の子だから。えっとなんだっけ、夜寝てないと肌が大変だって前に言ってたよな」
「……別に。今の彼とももう別れちゃうだろうし」
「そっか……別れちゃうのか。ちゃんと話はしてんのか? してないならちゃんと話ししろよ。……俺は相川に素肌美人でいて欲しいよ。だから、ちゃんと睡眠とって、な」

 恥ずかしがるでもなく耳に響いた声に、とくんとまた胸が打たれた。じわりじわりと恥ずかしさが湧いて、素肌だけ美人でも性格が悪いから関係ないんですー、とつい意地になってしまう。どうにか顔に集まってきた熱を冷ましたくて空いている方の手でぱたぱたと仰ぐけれど追いつかない。

「今度はさ、その自称悪い性格も含めて好きになってくれる人と付き合えるといいな」

 私の言葉に笑った後、少しだけ間を空けて言った彼の言葉に、冷や水を掛けられたような気持ちがした。火照っていた顔からスッと熱が引いていく。
 彼はいつもそうだ。そうして私個人が幸せになれという。
 そうしてその幸せの範囲に、自分は含まれていないのだと、線引きをする。

「まだ別れてないけど。……でも大丈夫よ、だって顔もスタイルも文句言えないもの」
「本人がその気なら大丈夫か」
「須田に心配なんてしてもらわなくても大丈夫だから! 電話、出てくれてありがとう」

 彼は私の事をちゃんと見てくれている、知っている。
 ねえ、それなのに。

「ああ、うん。こっちこそ、起こしてくれてありがとう。もうちょっとだけやって寝ることにするな」
「……うん。……がんばって、ね」

 返事を待たないでスマートフォンを耳から離して終了ボタンを押す。
 電源ボタンも押して灯りを消すと、静かになった部屋に急に一人だけ取り残されたような気持になる。

 須田は気付かない。気付いてない、フリをするのか本当に気付いていないのか。
 優しいからこそ感じる、突き放されたような気持ちになる時がある事。

 あなたは知らないでしょう?
 いろんな友達と、よく出かけて遊んだ。女友達だったり男友達だったり、時にはその時付き合っている人とも一緒だった。
 たまに外出先で須田を見かける時があったけれど、彼はいつもこちらに気付いてもスッと顔を背けて知らないフリをした。特にそんな約束はしていなかった。
 初めは見えていなかったのかなと思ったけれど何度も重なれば偶然なんてものはスパンと真っ二つになって、意図的に知らぬフリをされていることにこちらもさすがに気付く。分かってからはこちらもワザと知らないフリをやり返した。
 けれどそうするにあたって自分の中に黒いモヤが広がって、三回と経たずに私はわざわざ電話を掛けて、呼び出して文句を言った。

「どうして無視するの」

 きょとりと目を丸くした彼が何の事かと聞き返してきた。主語を入れ忘れていたことに思い至って慌てて、街で見かけた時、と続けた。

「ああ。だって俺じゃああの輪にうまく入れないよ。相川もいちいち友達に説明するの面倒だろ」
「挨拶くらい、してくれてもいいじゃん。手を上げてくれるとか」
「俺は相川とは友人として付き合っていく覚悟があるけど、相川の友人とはたぶんすぐに疎遠になるよ」
「友達になれって、言うわけじゃないんだし」
「相川の友人を軽蔑して言うわけじゃないってわかって欲しいって、先に断らせてもらうけど。俺は、ああいう人たちが全般苦手だ。もちろん全員を指していうわけじゃないけど」
「何ソレ。矛盾してない?」

 その小さな前置きにちくりと胸が痛む。遠回しでも、友人を貶された、そんな気がした。むっすりと頬を膨らませて見返せば、須田は困ったように苦笑した。

「俺の好みの問題。相川がいいって言うならいいんだよ。ただ、その点が俺とは絶対に合わないってだけ」
「私の友達は友達って認めてないってこと? 私別に須田に認めてほしい訳じゃ」
「うん。だから、認める認めないじゃないならなおさら。俺は、好きな友達と居る時に邪魔したくはないんだよ。楽しいなら楽しいままでいて欲しいってだけ」

 この時の私は単に友達を馬鹿にされたんだと思っていた。そりゃそうだ。友達に友達を紹介したいと言えば、考え方が違うからと言われてしまった。
 もういい。私は話を半ばに椅子から立ち上がる。顔も見たくないと思った。どうしてこんな気持ちにならなきゃいけないんだろうと、悲しくなった。





 この時の会話は時折思い出す。
 あの頃よく遊んだ面子はもう揃わない。たった数回、数ヶ月だけの縁。その時一度の縁。
 アドレス帳に入っては消えて行く個人情報。
 彼の言った、言葉の意味が、何となくだけれど分かった気がした。

「須田、覚えてる」
「何を?」

 この日は久しぶりに近くの公園で落ち合うことにした。もちろん呼び出したのは私だったけれど、昼過ぎまではバイトだという彼に合わせて待ち合わせの時間は夕方にした。
 夜ご飯くらいは一緒に出来るかも、と思いながら彼との食事はお互いに好みがあるために気を遣い合うのが目に見えていて重く息を吐いた。もちろん、彼は自分の好みを前面に押し出す主張はしない。けれど、たまにくらいは付き合ってもいいと思う私の心情も察してほしい。濃い味を求める彼と同じものを食べたい、とまでは言えないが。
 いろいろ考えながら、ぼんやりと思い出したのが友達に関してのことだったのだけれど、あの時以来どこかこの話を持ち出すことに戸惑っていたのだと思う。
 けれど今はもう、あの時ほど不快な気持ちになることはなかった。彼は何を言うでもなかったけれど、何となく彼の言いたかったことが分かった気がするから。

「私が友達と居る時にどうして挨拶もしてくれないんだって言った時の事」
「……んー、ぼんやり?」

 記憶を手繰り寄せている感じはあるものの、あの時の反応を考えると私の友人関係について口を出す気がさらさらないのだろう、興味が薄すぎるとさえ思うが、この反応があの対応としっかりと結びついて見えるようで、納得できる。

「須田はさ、私よりちゃんと周りをみてるんだね」
「そうでもないよ。相川の方がちゃんと見えてるんじゃないか?」
「え」
「俺のは……相川をみてるから、解るんだよ。周りがどういう感情で相川と居るか、どんな目でおまえのことをみてるか。それだけ」

 どうしてそう、常に観察しています的な言葉を、本人を前にしていえるのか。不思議で呆れてしまう。

「別に言わなくてもいい事だけどさ。だから、相川の事、ちゃんと解ってくれる人かそうじゃないかは大体わかるよ」
「なら教えてよ」
「いやだよ。俺がいうことじゃねーもん」

 須田の言葉に、私はこの間別れたばかりの彼氏だった人物の事を浮かべた。ちゃんと話しあえ、とは言われたものの、結局のところお互いに話し合うまでの関心も興味も失せていた。真夜中に須田に電話を掛けたあの日に、それはなんとなく分かっていたことだけれど。
 須田はそれだけを言うと、思い出したように声をあげてこの間話したクレープ店の話を持ち出した。この話はこれ以上しないという彼の意思表示に私はまだ少し不服ながら、その話にのっかることにした。仕方ないから、のっかってやる。

「何がおいしかった?」
「須田の舌は満足しないと思う」
「そう? 甘いのも好きだけどなあ」
「なら、今から行こうよ」
「相川みたいなキレイどころと行くのは気が引けるけど、男一人も入りにくいから便乗させてもらおうかな」
「もちろん須田のおごりだよね」

 本気? と言いたそうな顔をして須田が私をみた。冗談をいう事はざらにあるから、須田のこういう顔をみられるのは正直嬉しい。近頃は新しい彼氏をどうこうというより、須田といて、須田の新しい側面をみられることに楽しさを覚えている。

「何その沈黙。冗談に決まってるでしょ」
「うそうそ、それくらいならお安いご用ですよ」
「一番高いの頼んでやるから覚悟してなよね」
「おお怖いな」

 その後、一緒に店に行き各々好きなものを頼んだ。須田はシンプルな生クリームとカスタードクリームにイチゴを乗せたもの。私はカスタードクリームの上にシナモンパウダーを振った煮詰めたリンゴを乗せたものにした。財布は開いていたのに、隣で出来上がるのを待っていた須田が、会計は一緒でというので少し言い合ったけれど空気を読んだらしい別の店員が出来上がった二つのクレープを差し出したために私が受け取り両手を塞がれ、会計は須田になってしまった。かくなる上はあとで押し付けてやるからな憶えてろよ、と心の中で悪態をつきながら預かっていた彼のクレープを差し出した。
 じっとりと睨みつけていると気にした素振りもなくただ、ありがとうとだけ彼は言ってそれを私の手から取った。
 店を出てすぐに私は自分のクレープをかじる。カスタードクリームと煮詰められてもしゃっきりとした食感の残るりんごの相性は抜群で。すっと通り抜ける様に香るシナモンも絶妙だ。

「あれ、一番高いのは? 無駄にボリュームの有るやつ無かった?」
「するわけないでしょ、これおやつだし。ちゃんとご飯食べたい」
「飯の事考えてなかった!」
「はーん、ばーかばーか! そんなクリームもっさりのなんか食べたらカロリー過剰になるんですー」
「お? 今なんかすっげームカついた。というわけで、一口食べろ、な?」

 ぴくりと眉を動かして静かに怒りを滲ませるその表情に、さすがに半分は冗談だとしても怯まないはずがない。ずいっと差し出されたまだ一口も齧られていない、真っ白のホイップされたクリームと合間から覗くイチゴの赤色、果汁が滲んでピンク色に染まった部分を見下ろして、ごくりと生唾を飲みこんだ。
 口でこそああは言ったが、本音のところは食べたいに決まっている。私だって女子で甘いものは大好きだ。
 ああもう、とそうやって知らぬ間にこちらの心を見透かしてみせる須田に悔しさをにじませながらパクリと差し出されたクレープにかみついた。
 もぐもぐと噛み締めていくと、クリームの甘さとイチゴの甘酸っぱさ、ふわりと爽やかな香りが鼻を抜ける。

「うまい?」

 そう聞きながら須田が私の食べたすぐ傍をかじる。クレープだな、と当然のコメントをしてパクパクと口に運ぶ。
 私から食べかけた何かを渡したことも飲みかけのジュースを渡したこともないけれど、彼はそれがほんのちょっとであっても、間接キスだなんてことを考えたり口にしたりはしないのだろうか。
 好きだと言ってはくれるくせに、そう云う所はどうなのよ、と毎回思うのだけれど。
 口を動かしながら、小さく頷いたことに彼は満足しているらしかった。彼にとっては自分がどうというわけではなくて、私が楽しそうか幸せそうかが全てらしかった。

「飯な……食いたいものある?」
「今これ食べてるんですけど」
「すぐ腹減るって」
「あ」
「なに」
「須田も味見するよね!?」
「いや、俺は」
「す、る、よ、ね!?」
「……あー、うん。一口貰う……」

 気圧されてか、はむりと小さく端だけを食べた須田に、無言でもう一口と押し付ける。
 だっておかしいじゃないか、中身に全く届いていない、生地だけを食べたって何もわからない。私にはむしろ頬張れと言わんばかりに威圧を掛けてきたのだからこれくらいはやってもいいだろう。
 もういいんだけど、と目を逸らしていう彼に、リンゴ食べてないでしょ、と言えば食べたと平気でウソを付く。

「リンゴとクリーム食べて」
「いや、だって……それは……」
「なに、私の食べかけは食べられない?」
「別に。相川がいいならいいけど、これ、間接キスだ」
「……」

 そう言うと今度こそ恥ずかしそうに赤く染めた顔をクレープと私から逸らしてしまう。
 はぁ?! そんな気の抜ける声はさすがに口にしなかったけれど、私が先ほど意識した時には何も思ってない様子だったのに、今更それを言うのかと呆れてしまった。
 唖然として大口を開けていたらちらりとこちらをみたらしい彼が、相川顔、と窘めるので、私は全く以って須田の考えている事が分からずそのあとウィンドーショッピングする合間も、晩御飯にと選んだファミレスでも延々と文句を言い続けた。
 須田、と呼び出したのはいつの頃からだっただろうとふとそんな疑問か浮かんだのは何時もの如く夜中に目が覚めたある日の事。

「名前は確か……」

 浮かべてその音しか浮かばず、表記もカタカナになってしまったことに思わず嫌気がさしてスマートフォンの電源を入れてアドレス帳を引っ張り出した。互いに登録しあった時にこんな字なんだと軽く考えていた気がする。

「夏撫……こんな字書くんだ」

 眩しい灯りに目をこすりながら画面にそっと触れたところで誤って発信ボタンに触れてしまう。
 慌てて何とか消すことはできたけれど、今ので酷く汗をかいた気がする。
 ふぅ、と息を吐き出しながら、もし履歴が着いてたらと思うと、いつにもまして自分に嫌気が指す。
 そんなことはないか、電源を切って、ぽいっともとの位置辺りに投げてごろりと横になる。

 自分でも驚くくらい遊びが減った、彼氏いない歴も二ヶ月突入と言う異例ぶり。須田はその事について、まあそういう時もあるんじゃないの、とへらりとのんびりとしている。
 それもそのはずで、ここに来て自分が須田の事を気にし始めているいや、たぶんおそらく好きだと思うことに気が付いた。
 だってそうだ、悩んだときに相談できるのは須田だし。友達や彼氏には言えない愚痴や文句を聞いて欲しいのは須田だし。淋しいときに会いたいと一番に浮かぶのは今付き合っている彼氏ではなく、いつも須田なのだ。今考えてみたら、一番よりかかって本音で話せていたのは須田だった。

「頼ることはイコール好きにはならないけど」

 傍に居て欲しいと思うのはいつだって須田だ。これは両想いなのでは、と急に気分はまるで少女漫画に突入して薔薇でも背負ってしまうのだが、ここでふと思い出してしまう。
 そう思ってくれるだけでいいと、須田は私とどうにかなりたい訳じゃないのだと言っていた。思い出した途端に気分がしぼんでしまうのも仕方がない。

「だー! でも須田は私のズルいところも面倒なところも、言えばマイナス面ほとんど知り尽くしてるんだ……!」

 後悔の渦はぐるぐると大きくなる。いっそうのこと打ち明けてしまいたい。
 そこで私の気持ちを思い出す。
 悪いことなんて何も起きない、起きるはずがないのだ。

「だって須田、私のこと好きじゃん!」

 思い立ったら今悩んだあれこれがバカみたいに思えてくる。
 ゴロゴロとのたうち回るのをピタリと止めてむっくりと起き上がる。
 そうだ、伝えてしまえばいい。そうしたら色んなことがスッキリするような、そんな気がしていた。


 それから告白はいつにしようと考えて、いつもの通り思いつきで電話をした。
 数回のコールの後、もしもし、と少し余裕のある応答がある。こちらは告白するための呼び出しの計画を詰めるためにといつもより少しだけ気分が高揚と緊張をしているというのに。


「どうした?」
「あ、あの、ね」
「うん」
「今度、須田が休みの日っていつかなって。え、と。ご飯、とか行かない?」
「次? えーと、ちょっと待ってな。手帳手帳……」

 んー、と唸る声とがさがさと手帳を探す音と、あった、と嬉しそうな声、それからパラパラと捲っていく微かな音が聞こえてくる。

「ちょっと先になるけど、再来週の土曜ならまだ空いてる。けど、そんな先じゃ困るよな?」
「再来週。ううん、大丈夫! じゃあ、その日は空けといてね! 絶対!」
「相川、なんか嬉しそうだな。嬉しい事でもあった?」
「え!?」

 慌てて考えるけれど、うまい言い訳がうかばずにしどろもどろに答えてしまう。

「はは、珍しいな」

 かわいい、といつものように言うけれど今までと違うのは私が気持ちに自覚してしまったことだ。
 今まで何とも思わずに、社交辞令として聞いていた、誰彼にだって言われる言葉がこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
 急に照れ交じりの笑いが漏れる。

「そ、そんなことはないって! いつも通りだし」
「そうか? まあ、そんなに浮かれてるんだ。よっぽどいい事でもあったんだろうな、楽しみにしてる」

 今日の用事はそれだけ? と何気なく聞かれてもうひとつ、と思わず声が上がる。
 これだけは聞いて置きたかった。

「須田って今、彼女居ない、よね……?」
「ん? なんだ急に? 居ないよ、作る気ないから」

 手帳に書きこんでくれているのか、ペンの走る音が聞こえる。
 いつもそう。須田はいつも、良い答えをくれてから、こちらにとってあまり良いとは言えない言葉も添えてくる。

「つくるき、ないって」
「ない。別に今充実してるし、縛られるのめんどくさい」
「なにそれ」
「あ、相川のことを悪く言ってるわけじゃないからな。俺はそういうのが必要ないってこと。相川は相川で好きなだけ恋をして、経験して、家庭もってくれたらいいよ」

 うん。やっぱり須田ってこういうやつ。無防備な私に対して正面からドスッと槍で突いてくる。今まで気にしたことが、一度もなかったけれど。
 けど、そう言われたって好きだし。須田だって私の事好きなんでしょう?

「うん。家庭はわかんないけど、今までで一番、本気だしていくから」
「今までで一番の本気か、よっぽどなんだな……」

 楽しみだと言う感情を含む声に混ざり込んだ安心にも似た寂しさのようなものがじわりと響く。
 勘違いを、してくれているだろうか。他の誰かをまた好きになったのだと、勘違いをしてくれて。
 そう思うと、今すぐに伝えてしまいたい衝動に駆られたけれど、ぐっとこらえる。
 今日はその為じゃないし、ちゃんと、面と向かって伝えて、反応をみたい。そうして、答えが欲しい。出来れば、イエス。

「うん。いつもとね、違うの。好きだなって気付いたら、その人の色んな事を知らないのが嫌になったし、会いたいって思うようになった。いつも、その人の事ばかり考えてる」
「……そっか。よし、じゃあ次会う時は進行具合聞くのと、進捗によってはお祝いか。楽しみだな」
「うん!」

 声はいつも通りなのに、ねえどうして。
 急に声が遠くなった気がした。

「あ、ごめん! なんか宅配来たみたいだから切るな」
「え、うん。大丈夫、再来週、忘れないでよね」
「わかった。食いたいもん目星つけといて」

 そう言って須田は珍しく電話を切った。
 ツーツー、という音が空しくなって、スマートフォンの電源を切る。
 ごろりとそのまま横になって、手に持ったままのスマートフォンの真っ暗な画面をみる。

 ねえ須田。
 今ウソついたでしょう。
 だって呼び鈴ならなかったもの。宅配なんて、来てないよね。
 いつだって長電話に付き合ってくれる須田が、珍しく電話を切りたいと思ったんだ。

 ねえ、なんで?
 その日、遊ぶ約束が入っていたのだけれど向こうの予定が変わったらしくドタキャンされた。服もメイクもばっちりだというのに、待ち合わせ場所にあと少しで着くと言う所で連絡が来た。
 正直、もともとそういう雰囲気のある人物ではあったから半分くらいはそうなるんじゃないかと思っていた。思ってはいたが、手を抜くことは許されない。そんな性格が、自分でも面倒だと思う。須田と会う時や連絡を取る時はそんなこと微塵も考えないのに。
 今は付き合っている相手もおらず、すぐに声を掛けて返事をくれる人なんて――と、こういう時に都合よく浮かんだ人物にためしにメッセージを送ってみることにした。

“時間が空いたから、話がしたい。”

 今日は普段通りなら、バイトに入っている頃かもしれない。休日だし、時給がちょっと高いとかなんとか。それ以外だって、彼は口では言わないにしても勉強に忙しいとやんわりと纏う空気が言っている。私だって別に遊んでばかりいるわけではないのだけれど、彼と比べると天と地ほどの差があるだろう。
 もちろん、すぐに連絡なんて来るわけがなくてつい、返事くらいしてよ、とぽつりと呟いてしまう。気付いたらと彼は言っていたのだから、きっと後になっても気付いたら連絡はくれるのだろう。
 いつにも増して連絡がこないか気にしてしまうのは、須田に抱いている気持ちに気付いたからだ。前以上に気になってしまう。
 どうにも気が治まらず、帰る気持ちにもなれなくて一人でふらふらと店を覗いて周った。

 須田ならこういうのが似合うかな。ふとそんなことを考えている自分が居たことに驚いて慌てて手にしていたシルバーのチャームを元の場所に置いた。ふるふると首を横に振ってもぽっと上がった熱はすぐには冷めない。
 ここのところの自分はどうにも彼の事を考えすぎではないだろうかと、ついなんだか彼の思惑というか手の上というか、そんな気がしてならない。
 後ろ髪が引かれて、ちらりとさっき置いたそれをみる。いつも下げている鞄になら、つけて貰っても主張は軽くさり気ないし、いいかなと。やっぱりそんなことを思いながら、その店に居づらくなって逃げる様に後にした。

 それからもふらふらと、雑貨だったり服だったりと見て回ったけれどどれもこれもピンとこない。
 合間にスマートフォンを出して確認はしてみるけれど既読もつかなければ返事もない。そういつもタイミングがいい訳ではないけれど、近頃の自分はやっぱりおかしいのだと思う。
 彼の反応、ひとつひとつに一喜一憂、というか浮かれている節がある。前までこんなことはなかったのに、と思いながらふと点滅を始めた信号機を見たついでに道路の向かい側が視界に入る。
 確かに予定は聞いてない。いつも何をしているかなんて、あまりしつこく聞いたこともない。今までもちらりとこぼす範囲でそうなのかと思うくらいで聞き出したいと思うことはなく、ふんわりと、こうじゃないかと彼の口から零れる些細な言葉から読み取っていただけ。
 どきりと心臓が跳ねる。
 メッセージを送っても、返事もなく、既読もつかなかったから勝手にバイトだと思っていた。視界に入った見慣れたシルエットは、間違えようがなかった。
 信号が変わって目の前を通り過ぎていく自動車がちらちらと視界を遮る。声に出ていたのか分からない。

「なんで?」

 信号待ちの向こう側。
 仲好さ気に会話して笑い合っているのは普段と同じようなシャツにカーディガン姿の須田と、セミロングの黒髪で眼鏡をかけている女性。おそらく、同い年くらいなのだろうけど、遠目に見ても美人だとわかる。けどあの子、どこかで見たことがある気がする。
 ふつふつと、おかしな気もちが湧いてくる。二人が並んでいる姿が、あまりにも自然で。
 自動車の流れがおさまって、信号が変わると聞き慣れたメロディーが辺りに響いて人の波が動き始める。立ち止まったままで、じっと見ていたからだろうか。どうしたのかと言いたげに振り向く人や苛立ちを向ける人が通り過ぎていくなかで、向こう側から歩いてきている彼女がふっと私を見た。首を傾げたのが分かって咄嗟に顔を逸らしてくるりと振り返り来た道を戻る。途中で横道に入り、その後も走り続けた。どうしてと浮かんだ疑問と彼女と目が合った恥ずかしさで一瞬のうちにぶわりと体中に熱が巡る。
 もしかしたら見られているかもしれないけれど、須田に見られたくなかった。泣きそうになっている自覚があって、その顔だけは、見られたくなかった。

 連絡がなかったのはあの子と居たからだ。
 たまたま一緒にいただけかもしれない。大学が同じだとか、友達だとか。
 だって須田は優しいし、すっぱりと竹を割ったような性格だし、思いやりがあって、私以外にだってきっと優しい。そんなことは分りきっている。分かってる、はずだった。
 何を勘違いしていたんだろう。私だけなんて、無意識に思っていたみたいだ。
 特別だなんて、そんなわけないのに。

 須田が、頼っていいよと言ってくれるから。
 なんて勘違い。
 男なんてみんなそんなもんだ。須田だって、そうじゃない訳がない。
 でもそんなことよりも。

「……私と居るより楽しそうだった」

 足を止めて、ぽつりと呟く。声にしたらいっそう自分の中にそれがしみ込んできて悲しくなった。私だってそれなりに付き合いがながくない、わけじゃない。それでも。

 あんな笑顔、たぶん見たことない。覚えがない。
 須田が笑ってくれる時は大抵、妹とか家族に見せるようなそれだったことしか思い出せない。

 それが一番悔しかった。
 その夜に須田から返事が来た。そうして、着信履歴にも須田の名前が並んでいる。
 私はあれから記憶がぼんやりとしていてどうやって家に帰ってきたのかもはっきりとはしていないのに。晩ごはんも食べてないことを、通知のランプに気付いて思い出した。
 昼間の事を思い出せば、嫌な気持ちしか湧いてこない。だから、返事に長い文章を打ち込めばいつも以上に酷い事しか言えない気がする。
 私に似た人を見た、という内容だったけれど、他人の空似じゃないかと誤魔化した。それから、当分連絡しないで欲しいと続けて打って返せば、返事はなくその代わりに画面が着信に切り替わる。
 渋面で見つめながらコールが終わるのを待つ。でも、待てども、待てどもコールは止まなかった。迷惑を考えてよ、と普段の自分に跳ね返ってくるだろう苦情を胸の内で吐きながらしぶしぶ通話にする。

「相川」
「なに。今日ちょっと頭痛いからもう切らせて」
「相川。今、家の前に居る」
「……」

 乱れた呼吸の合間に、言葉が並ぶ。じわりと胸に湧いた熱に、涙が零れそうになる。
 珍しく須田から掛けてくれたからだろうか。本当か嘘かもわからないけれど、来てくれたからだろうか。カーテンからそっと覗て確かめたい衝動に駆られる。
 でもきっと、姿をみたらいつも以上に酷い事しか言えない。
 どうしてこんな、気持ちになっているんだろう。嬉しいのに、泣きたくなる。

「ホラーはお断りなんですけど」
「ホラー映画イケるって前に言ってなかったっけ?」

 苦笑を零す、その声が少しばかりほっとしているのを聞いてむずむずと複雑な気持ちが生まれる。
 そんな声を聞きたいわけじゃない。ぐっとこらえる。でも普通になんて、今は話せる気がしない。口を開けば、悪態をつきそうで無言のままで待つ。

「あげてくれとは言わないから。話だけ聞いてほしい」
「聞きたくない」

 切ってやりたくて、でも声は聞きたくて。なんて矛盾。
 小さく息を吐くのが聞こえて、やっぱり見られてたんだと確信する。それはお互い様だったようだ。

「……やっぱ、あの時のは相川だったんだな」
「ちがう。今日はでかけてなんかないし」
「……一緒に居たのは、笹原っていって高校の時、部活のマネージャーやってくれてたんだ。相川は……知らないよな」

 淡々と告げられる名前には軽く覚えがある。以前、須田がそんな話をしてくれた気もするけれど、でもそれが本当か、自分の記憶違いかは分からない。知り様がない。だからやっぱりもう考えたくもないから、話の続きを聞こうとも思えない。

「何の事かは分からないけど。須田が誰と居ても私には関係がないよ」
「関係がないって言うのに、声が怒ってる。……今日、本当は別のやつが行く予定だったんだけど空いてたのが俺しかいなくて、代わりにこっちの案内をした。観光に来てたんだけど、本当にそれだけ」
「知らないって」

 この時点でなんて答えても取り繕えないことは分ったけれど、切り抜けるいい案は意識の底だし、須田ももう私が嘘をついたことは気付いていてその点については何も言うことはしないんだろう。いつも通り、それが嫌だと思う。

「笹原は、俺が相川の事を好きな事も知ってるよ。だから初めは断ろうとしてくれたんだ」
「しらない、そんなこと、わたしにいったってしかたがないじゃない……」

 須田が言うからそうなんだろうって、そこにはきっと、私を傷つける様な嘘なんてないと、そう思うのに。思いたいのに。
 名前が出る度に、息が詰まりそうになる。苦しくなる。
 イヤだと思う。須田の口から、誰か別の女性の名前が出てくるなんて。彼女でもなんでもない、須田を都合よく扱っている私はそんなことを言える立場じゃないのに。

「うん。仕方がない。……でも、言い訳だって言われても話しておかなきゃと思った。誤解してほしくないから。だって前にも言ったけど、俺が好きなのは相川だ。俺の場合、それは、相川が俺以外の誰かを好きになっても変わらないのに、……どうにかなりたい訳じゃないって言ったのにな。ごめん、矛盾してる」

 これじゃあなんだか、そう言いかけて須田は言葉を飲み込んだように思えた。須田の声が止んだとたん、しんと静まり返ったその中で、壁に掛けた時計だけがカチコチと音をたてて時間は進んでいることを教えてくる。

「それだけ、言いたかった。用件はそれだけだから。ごめん、付き合わせて。暫く、連絡はやめておく。気が向いたら、また連絡して。どんな小さなことでも構わないし、話も聞くから」

 須田がそこで言葉を止めた。息を飲む気配に、私も一瞬息が止まる。

「前にも言ったけど。相川が、誰かに傍に居て欲しいと思った時に一番に浮かんでくれたらいいと思ってる。時間なんて考えないで、呼び出してくれて構わない。誰かに居てほしかったって、言われるだけでいい。話し相手になって欲しかったってその一言だけでいい。これ以上の距離は望まないから。ただそういう存在でありたいと、我が儘を言わせてほしい。……いつか、俺なんか居なくても大丈夫になった時には、綺麗に消えるから……それまでだけ。誰の代わりでも構わないから俺が必要だって、言ってほしい。ただそれだけだよ」

 ごめん。最後にその一言を残して、通話が切れる。
 ざわりと心がざわついて、私は窓に駆け寄り鍵を開けてベランダに出た。下をきょろきょろとのぞいて、歩いて去っていくのを見つけて慌てて部屋着という何とも外に出向くには似つかわしくない軽い恰好で、バタバタと玄関に向かい持っている中で一番踵が低いミュールをひっかけてドアを開けた。鍵も掛けず、階段を下まで駆け降りて後姿が見えた方にぱたぱたと走る。

「すだ!」

 二十一時を過ぎた頃、家々の灯りはまだついていてそんなにも声を張り上げるのは非常識だと解っていたけれど。それでも、どうにかして呼び止めたくて。
 走ればきっと、追いついた。でも、そうできなかった。足が、止まってしまった。こんな恰好で出てきた事も、鍵を開けっ放しにしてきた事もぽろりと零せばまた注意されるに決まっている。
 でもそんなことより、最後の須田の声が、言葉とは裏腹に弱くて。以前、あの言葉を言われた時の様な、余裕はそこにはなくて。まるで世界の終わりみたいな、そんな声に、聞こえたから。

「私が悪かったです! にげてごめん。わがままいってごめん。聞かないって仕方がないって、言ってごめん。だから行かないで」

 最後はもう泣きかけていて、だだを捏ねた子どもみたいになっていたけれど、それでも須田は立ち止まってこちらを振り返ってくれた。立ち止まってくれた。
 それだけでも気が緩んで、私はまた、天邪鬼な部分を出してしまう。本当に、こんな私を好きだなんて言ってくれる須田の本心が知れない。
 でも出来るなら、これから知って行きたい。知りたいって、ようやく思えた。

「まだたくさん聞いてほしい。須田にじゃなきゃ話せない事が、いっぱいあるから。須田がそうしたんだから、責任とってよ!」

 困惑顔で慌てて戻ってきた須田が「相川、近所迷惑になるから、な? とりあえず落ち着け?」そう言って伸ばした手で私の涙を掬う。
 笑った顔がみたいのにと、ぷかりと一瞬そんなことが浮かぶけれど、今の私はそれ以上に須田をどうにか引き留めたくて仕方がなかった。傍にきた彼の腕をぱっとつかむ。出来る限りの力でぎゅっと、それはもう、駄々を捏ねる子どものように掴んで、要求が通るまで離してやるつもりはない。

「すだぁ」
「わ、ちょ、相川! 本当にご近所さんに悪いから、とりあえず部屋もどろう?」

 おろおろとする須田に手を引かれて部屋に戻る。私がぐずぐずと泣いていると言うのに、須田はさっきの焦りをどこか他所に置いて、案の定、鍵は閉めろと怒られ、そうして部屋着で出て行ったことも注意された。今何時だと思ってるんだ、とも。
 しおしおと項垂れて、めそめそと泣きながら、うんうんと頷き、返事をする。
 気をつけるから、嫌わないで欲しい。見捨てないで欲しい。電話を切る前の須田に感じたのはこれだ。ぷっつりと今までの関係も切れてしまっても仕方がないとさえいえる空気を感じたのだ。
 本当に分かったのかと呆れ疑われ、それから少しばかり落ち着いた私はあの場所に居たことを話して謝った。
 そしてぐずぐずのぐちゃぐちゃのままもう一度、須田のいう言い訳とやらをしかと聞いたのだった。


 ようやく涙も止まって気が落ち着いた私は、明日も講義があるからと帰ろうとする須田にようやく言えた。

「電話、ほんとうは嬉しかった」

 とても恥ずかしくて、埋まりたいくらいだった。瞼はまだ熱を持っていて、少し腫れぼったくも感じる。須田が気を利かせて見繕ってくれた濡れタオルで目元を押さえるように隠しながら。ぼそぼそと、呟く。
 靴を履き終えて立ち上がった須田が、クスリと笑って私の頭をふわりと撫でた。頭を撫でられることだって、髪に触れられることだって無かったわけじゃないのに今回は特別な気がしていっそう恥ずかしくなる。頬が、耳が、赤くなっていることに気付かれませんように。

「そっか。出てくれてありがとう、相川がそう言ってくれただけで十分だ」

 こっそりと須田を見る。
 何でもないことのように、でも、嬉しそうに。それこそ照れて恥ずかしそうに、須田が笑った。
 その笑顔は、ちょっと特別な気がした。
 出会いのことは極力考えないようにしている。出会いを思い出そうとすると靄がかかったように何も浮かばなくなるから。
 良かったのか悪かったのかさえ浮かばないだなんて、それほどに印象が薄かったのだ、須田という男は。

「悪い、待たせた」
「待ってない。ゲームしてたし」

 カランカランと入り口が開いて来客を告げたのを聞いていた、し、ちらりと見たので来たこともわかっていた。
 そっけなく返すと、さも残念そうに呆れたように肩を落とすのを、ちらりと盗みみる。近頃分かってきたのだが、そう言うの、ちょっと嬉しい。

「ですか。何か飲む?」
「ロイヤルミルクティー」
「おおせのままに」

 待ち合わせは珍しく駅の近く、けれど路地を一本奥に入った場所にある喫茶店。
 普段はこんな場所は選ばないしファストフード店やファミレスも全然ありだ。
 今日は今後について話し合いたいと、適当に相談でもあるようなことを言ってこんな場所を選んだ。入ったことのない店というわけではなかったけれど、どうにも場違いな気がして須田が居ないと入れない店である。彼は一人でよく利用しているのだと言うけれど。
 この店は喫茶店でありメニューもそれなりに充実しているが、ウェイトレスやウェイターといった給仕は居ない。オーダーはカウンターの中に居る店主に声を掛けて、水をその時に貰って席に戻る、という一風変わったもの。
 その後出来上がったものは店主が直々に各テーブルへ運んでくれるのだけれど、店主はたとえ店が混んでいてもオーダーを取り違えたりしない。その原理はどう言ったものか、たった数回来ただけの私には解らなかった。メニューのメモは出来ても客の容姿はてんでバラバラだ。誰が何を頼もうと構わないがサラリーマン風のスーツの男性がクリームソーダを頼んでいたこともあり、それはあまりに違和感があって店主が手にしていたのを目で追ってしまったのだ。すごい記憶力の持ち主なのかもしれない、としかいえない。
 オーダーを通して戻ってきた須田が、腕に掛けていた上着をソファー席に置きその横に座る。私がテーブルを挟んだ向かい側、アンティークの椅子に腰かけて足を組んでいるのを見て少し顔を顰めて一言。

「相川、あんまりその姿勢続けると身体歪む」
「ずっとしてるわけじゃないってば」
「ならいいけど」
「それよりも」

 組んでいた足を解いて、テーブルに手をついてずいっと身を乗り出す。須田が、うっ? と驚いた様子で身を引いた。何勘違いしてんのよ、何もしない。まだ。

「私と須田って、今どういうカンケイなの」
「……は?」
「べ、別に疑ってるとかじゃなくてその、確認よ。都合のいい夢をみてるのかもって思ったらちょっと心配になっただけ!」
「んー、どうなんだろう?」

 須田は少しだけ口の端を上げながら、悩むように腕を組んでうんうんと唸った。
 これは完全に遊ばれてる奴だな、と思いながら返事を待つ。疑問形じゃなくてはっきりとした答えが欲しい。
 例えば、付き合ってる、とか。彼氏彼女、とか。

「どうなの」

 ひとしきり悩んだ後、須田はぱっちりと目を開けた。組んだ腕を解いてテーブルに置かれ汗をかいた水と氷の入ったグラスに手を伸ばした。引き寄せて、今思い出しましたと言わんばかりのワザとらしい態度で言う。

「相川が思うカンケイ? でいいと思う」
「……」

 このやろう、と口をとがらせて零せば彼は場所に合わせた様に抑えながらカラカラと笑った。
 意地悪もしてくるし、からかいもする。私のことなら何でも知っていて、欲しい言葉や態度、行動をいつだってこっちから言わなくてもくれるのが、須田。
 ねぇ須田。あんたは私の事、たくさん知ってるかもしれないけど、私はきっとこれからたくさん知っていかなきゃなんだよ。それは今まで、全然須田の事をみようともしなかった、私が悪いのだけれど。

「じゃあ、私の思うように思ってるからね」
「どうぞ」
「ぐぅ」
「相川はほんと、かわいいのな」

 テーブルに両肘をついて拗ねて唸れば、須田はまだ余裕たっぷりといった様子で軽くあしらいながら、ちょっとばかりのご機嫌取りにか空いている方の手を伸ばしてふわりと頭を撫でる。
 軽くあしらいながらも、須田は前より随分と構ってだの気に掛けて欲しいだのという雰囲気を出すようになった。そうして、私の心の隙間に何かを引っ掛けていくのだ。まんまと罠にはまっている気がしないでもない。だってその上少し、心配性なのだ。
 でも表情は以前よりもいっそう柔らかいと思う。そう思うのは、想いが通じ合ったっていうフィルターがあるからだろうか。
 ぷっくりと頬を膨らませると、スッと入れ替わるように伸びてきたもう片方の指にツンツンとつつかれる。冷たいグラスに触れていた指は冷えていて私はぴゃっと驚いて口を開きためていた空気を出してしまった。

「ひろみ」
「……なに」
「ごめん。なんかちょっとまだ実感わかない。俺も都合のいい夢を見てるのかも。目が覚めたらきっと、寂しいだろうな」

 なー、と須田が目を細めて同意を求める。そう云う所がズルいって、そう思いながら私はうん、と小さく頷いて自分と同時に彼を喜ばせる。
 今まで誰彼と付き合ってきた中で、こんなに穏やかに幸せだと思えたことがあっただろうか、と幸せを噛み締めるのだった。
 ミルクで煮出した紅茶は紅茶の渋みを柔らかくミルクで包む。その割に香りは残していて不思議だと思う。もちろん、ミルクの香りもするのだけれど。
 須田はブレンドのコーヒーを頼んでいてその匂いもふんわりと、テーブルの上に広がる。

「それで」
「で」
「本題です」
「ん、さっきのは本題じゃない?」

 須田がカップの縁に口を近づけながら不思議そうに私を見やる。それも本題、そう答えるとホッとした様子で、そう、と言いながらカップに口をつけた。

「私、これ以上ない本気なんだけど、須田はどこまで本気ですか」
「……ん? 相川、言ってる意味があんまり……わからない」
「相川っていった! 言質とったぁあ!」
「くぁああ!」

 悔しがり頭を抱えるその目の前で、店主がさらさらと書いたオーダーのメモをぶんどる。今日のルールは須田が私のことを苗字で呼ばないこと。なんとも一方的なルールではあるが、須田が構わないと言ったのでそのまま進めたまでだ。それに人前で、名前を呼ぶとか今はまだ無理。絶対呼べない。
 以前からもたまにこういうやり取りをしているが、付き合いだしてからというもの、どうにも須田が、自分が出さねばと見栄を張るようになった気がしてそこが気に食わない。同じ学生で勉強とバイトに勤しんでいるのだから自分の飲食代くらい自分で出す。
 今回罰ゲームとしては折半か私のおごりだ。もちろんこの店での、飲み物に限るのだけれど。

「ふっはっは! ここの飲み物代は私が持たせてもらおう! 食べ物は頼んだら自腹だから」
「くっ、相川卑怯だぞ。どこまでが本題でどこからが仕掛けだったんだよ」
「全部本題でーす」
「……」

 心底悔しそうにしている須田に、ぺろん、と舌を出してウインクして両手でピースを作ってみれば、彼の目から光がスッと消えてしまった。
 たまに勝ち誇ったらこれだ。少しぐらい楽しみの余韻を下さい。……じゃなかった、これはいかんと内心焦って取り乱し、ひとまず謝りを入れ言い直す。

「……ごめん、今のはちょっと調子に乗り過ぎた。全部本題です」

 しゅんと項垂れると、そっか本題かとさして気にした風でもなく須田が、で? と話を続けるように言った。ちらっと覗くとさっきの呆れた様子はあの時だけだったらしい。ふぅ、ビビった。それにしても、すだのそういうとこときどきこわい。

「で、じゃなくて。須田は、その、家庭持ったり、家族養うとか、考えてる?」
「ひろみ」

 言い聞かせるように一音ずつをはっきりと呼ぶものだから照れくささと緊張が混ざって反応が遅れる。

「ん……?」
「重い!」
「へっ!?」
「俺らまだ学生で、稼ぐ身でもないからはっきり言えない。あと何年も話聞いたりこうやって会ったりはしてたけど、まだ付き合って一週間だから」
「それくらい私が本気ってことだよ!」

 それを聞いた須田が一瞬硬直する。ぱちりぱちりと瞬いて、重いため息を吐いて肩を落とす。

「このままじゃ来週あたりには親と対面? ないわ、だって俺見るからにパッとしないし」
「そんなことないよ! 真面目だし、意思はっきりしてるし、一途だし」
「ああ、うん。そういう風に見せてるだけだから。俺別に相川ほど陰で努力とかしてないよ」

 社交辞令に返すように手を軽く振って苦笑いを浮かべる。そんなことはないだろう、と思うのだけれど今まで見ていたわけじゃないしそこまでまだ須田のことを知っているわけでもないから断言はできない。

「うそ」
「うそじゃないですー」

 飄々とした返しにイラついて、そう言えばと浮かんだこの間のことを言ってみる。

「前に電話掛けた時、勉強してたって言った!」
「あの時はな。いつもしてるわけじゃないよ」
「……須田はそこまで私のこと好きじゃない?」
「どこからそんな話が。けど、あんまりがっついてて重いと逃げられちゃいますよって」
「それは困る……けどいいところはないから引き留められる要素もない!!」
「開き直り! まあ、逃げないけど。俺の心配は紘美が逃げないか、だけどな」
「なら大丈夫! と、思う……須田の本性がよっぽど酷いものじゃなければ」
「さて、それはどうでしょう」

 私がこれ以上は特に言えることもないと解ってか意味深に微笑む。おそらく言葉に詰まって何も言えなくなると思ってか、須田はカップを取って口をつけた。

「そういうのも、知りたい、から、今度泊りに行ってもいい?」

 一応本当に気恥ずかしくもあったし、照れもあって窺うように覗きながらぽそりと呟けば、須田がゴフッと零すまではいかなかったけれどむせていた。カップを置いてテーブルに備え付けてある紙ナプキンを取って口元やらテーブルの上を拭いていた。だからテーブルは濡れてないっての。

「あのな」
「別にナニがあろうとなかろうと、だよ!」
「そう言う意味だけどそういう意味でないと言うか」
「じゃあなに」
「人が口に物含んでる時にそういう話はやめてください」
「別に、泊りに行きたいって言っただけじゃん」
「だからそれが」

 須田でも付き合うとこういう話って焦るものなんだなと思いながら、これはちょっと反応が面白いかもしれないとからかいのネタになったはいいが、数回やると飽きてしまうしそれより先にいい加減にしろとおしかりを受けてしまった。すだ、おこるとおこわい。