朝、佳乃は目を覚まして着替えてから、昨夜作ったクッキーを軽くラッピングして家を出た。アリスに食べてもらって、感想を聞こうと思っているのだ。
けちょんけちょんに言われたらどうしよう、と少し思ったが、一応自分の中では頑張った。大丈夫なはずだ。たぶん。
などと考えながらそろそろ慣れてきたNotaへの道のりを歩いていく。今日も今日とて、快晴で暑い。
「はぁ〜、なんで夏って暑いんだろうなぁ」
呟いて、空を見上げる。当然、太陽が元気よく輝いていた。なんだかだんだん憎らしくなってきた気がする。
首が疲れて元に戻し、むむ、と眉間にシワを寄せていると、一匹の黒猫が佳乃の目の前に飛び出してきた。
「わ!」
艶々とした黒い毛並みにまん丸な碧い瞳。なんだか、どこかでみたことがあるような。
「ア…アリスさん…?」
恐る恐るというように首を傾げてみると、黒猫はまるで「正解」とでもいうようにニャーンと一鳴き。
この時、佳乃は改めてアリスが使い魔だということを自覚した。
黒猫、もとい、アリスと共にNotaを訪れると、冷房の効いた涼しい空間に一気に気が抜ける。
「あー、涼しい」
「ふふ、外はとても暑かったからね。私も肉球が火傷しないか心配になったわ」
歩いているうちに慣れたけど、と付け加える下から聞こえるアリスの声に、佳乃はん?と自分の耳を疑った。
「え、アリスさんその状態で話せるんですか?」
「ええ。さっきは外で、誰がみているかわからなかったから普通の猫のフリをしたの。あなたがすぐに私だって気付いてくれて助かったわ」
音を立てずに彼女の目線に合わせるように机の上に上がって、アリスは目を細める。
「いや、なんか…なんとなく、アリスさんに似てるなぁ、この猫って思っただけだったんですが。目の色とか」
自分を見つめてくる深い碧い瞳を見つめ返して、本当に綺麗だななどと呑気に考える。
「なんか、本当に使い魔なんですね、アリスさん」
しみじみという佳乃に、彼女は器用に前足を自分の口元へ持っていく。
「何度も言ってきていたのに信じていなかったの?」
「いや…信じてはいたんですよ?リウムさんのこともあるし…ただ、なんか、アリスさん普通の人間みたいだから」
それにうなずいて、アリスは少し笑ったようだった。
「人になるのがうまいということは嬉しいわ。最初のころはあんまりうまくいかなかったから。それにしても、リウムというのはオウクリウムのことよね。随分仲が良くなったのね?お店に来た時、自己紹介をしていたかしら?」
首を傾げるアリスに、佳乃は緩く首を振る。
「実は、昨日バイトの帰り道にリウムさんが私のところまで来てくれて。それで家まで送ってもらったんです。その時自己紹介をしました」
それにうなずいて、アリスは一つ瞬きをする。すると、見慣れた人の姿をしたアリスが吉野の目の前に立っていた。
「オウクリウムは人が好きだから、きっとあなたのことが気に入ったのね。これからも仲良くしてくれたら私も嬉しいわ」
にっこりと笑うアリスに、佳乃は大きくうなずく。それはこちらも同じだ。
「あ、あと、リウムさんがこのお店がなんのためにあるのかとかも聞きました。私、本当にそんなすごいことに関わっていいんでしょうか?」
首を傾げる佳乃に、アリスはうなずく。
「大丈夫よ。むしろあなたのような子がこの店にいてくれれば助かるわ」
「ならよかったです」
あくまでもこの店に働くのはお礼のためだ。邪魔になっていては意味がない。
「あ、それと、今度リウムさんの主人さんもこのお店に来るそうですよ」
「あらそう。じゃあ、ノエルにも伝えておきましょう」
少し驚いたような反応に、リウムの主人のことを考えてみる。果たしてどんな人なのだろうか。あのリウムの主人だ。きっといい魔女か魔法使いなのだろう。
「アリスさんは、ノエルさんのことを呼び捨てなんですね」
「そうね。最初はちゃんと様をつけて呼んでいたのだけど、本人が嫌がって」
当時を思い出したのか、苦笑するアリスに、昨日のリアムが言っていたノエルの特徴は間違っていないのだな、と勝手に再認識する。
そこで、佳乃は包んできたクッキーの存在を思い出す。まだ開店するには早い時間だ。渡すなら今だろう。
「あの、昨日家で1人で作ってみたんです。よかったらもらってもらえません?」
バックからそれを取り出し、緊張気味に手渡す。アリスはそれを笑顔で受け取った。
「見た目も綺麗に焼けているわね。美味しそう。早速一枚いただくわ」
サクッ、といい音を立てて咀嚼していく。
「うん、とても美味しくできてるわ。これなら人にあげても文句なしね」
「ほんとですか!?やったぁ!」
「頑張るのよ。可愛い女の子に手作りクッキーなんてもらって嬉しくない男の子なんていないもの。きっとうまくいくわ」
その言葉に、佳乃は大きく頷く。
「頑張ります!」
まだ名前も知らないあの青年の顔を思い浮かべ、佳乃は再度覚悟を決めた。
その日の夕方、もう閉店の時間だという時に、とびきり美人な女性が入ってきた。
毛先の方だけ癖のついた、背中まで伸びる美しい艶のある銀髪に、薄い水色の瞳。肌はまさに珠のように白い。長い睫毛が影を作っている。黄色いレースの半袖に、白いシフォンのスカートという装いで、とても涼しげだ。
佳乃は、その女性の来店に思わず息を呑んだ。
「…い、いらっしゃいませ!」
なんとかそれだけ絞り出して、彼女は固まる。アリスやあの青年といい、最近自分の周りには美形が揃ってきている気がしてならない。心臓が持ちそうにないな。
「貴女が佳乃ちゃん?」
にっこりと笑って首を傾げ、名前を呼ばれた佳乃は、かろうじて首を縦に動かした。
「なるほど。確かに可愛い子だね。アリスはいる?」
「え、えっと、今倉庫のほうに行っていて…。すぐに戻ってくると思います」
アリスの知り合いなのか。ということは、魔女か使い魔だろう。それにしても、美人だ。アリスももちろん美人だが、彼女はそれとはまた違う意味での美しさがある。
「ここでの仕事はどう?楽しい?」
不意に美女が聞いてきた。自然と背筋がピンと伸びる。
「は、はい!大変ではありますけど、楽しいです」
明らかに緊張している様子の佳乃に、女性はおかしそうに笑った。
「そんなに緊張しなくていいよ。私が怖い?」
「違います!怖いとかじゃなくて、その、すごく美人でびっくりして…」
「あはは!ありがとう」
大人しそうな見た目とは裏腹に、なんとも明るい性格をしている。
裏口のドアが開閉する音が聞こえた。アリスが戻ってきたようだ。
「あ、戻ってきたみたいだね」
その言葉から間を開けずに、厨房からアリスが出てきた。女性の姿を認めて、少し驚いたように目を丸める。
「珍しいわね、ノエル。なにかあったの?あなたがこの店に来るなんて」
「え!?」
「えー、ひどいい草だなぁ。一応ここのオーナーなんだから、用事がなくてもきてもおかしくないでしょ」
「えぇ!?」
2人の顔を交互に見合わせて、佳乃ほ困惑する。アリスは軽くため息をついた。
「…紹介するわ。この店のオーナーのノエルよ」
「は、はじめまして。三鷹佳乃です」
「はじめまして、ノエルです。Nota Western CUPPEDIAEで働いてくれてありがとう」
とてもいい発音・笑顔で手を差し出され、佳乃は困惑気味にその手をそっと握る。
「私とアリスの正体は知ってるんだよね?」
それに、うなずく。ノエルは、満足げに笑った。
「ならよかった。アリスのことだからちゃんと説明してないんじゃないかと思ったんだ。この店のことも知ってるよね?」
「はい。昨日、リウムさんから教わりました」
彼女の言葉に、ノエルは軽く目を丸めた。
「リウムって、オウクリウムのことだよね。アルバのところの」
「アルバ…?」
「オウクリウムの主人のことよ。魔法使いなの」
アリスが答えて、佳乃はなるほどとうなずく。そして、ノエルの問いかけにうなずいた。
「へぇー、仲良くなったんだ。よかったね!」
にこにこと笑うノエルに、佳乃はなんとも言えない劣等感を感じてしまった。
どうしてこうも美人なのだろうか。目が焼ける。
むむ、と眉間にシワを寄せていると、ノエルが偶然にもアリスが手に持っていた佳乃の手作りクッキーを目に留めた。
「それ、アリスが作ったの?」
「違うわ。これは佳乃が作ったもの。彼女、初恋の人にこれをあげる予定なのよ」
「わー!アリスさん!!」
会ってまもない人物(?)にそんなことを言われてしまえば、恥ずかしい以外のなにものでもない。
顔を赤くして、あっけなく暴露してくれたアリスに抗議の目を向けたが、軽くスルーされてしまった。
「それは素敵だね!うまくいくように、私が軽くおまじないをかけてあげよう」
「わぁ、本物の魔女がかけるおまじないって本当に効きそうでなんか怖いですね…」
ワクワク半分、恐ろしさ半分といった感じだ。だが、仮におまじないのかかったクッキーで両思いなれたとしても、嬉しくない。
そんな佳乃の考えを読み取ったのか、ノエルが安心させるようにぐっと親指を立てた。美人にはいささか似合わない行動である。
「大丈夫。おまじないといっても、本格的なものじゃないから。気休め程度のものだよ。安心して。こと恋愛ごとにおいて、相手の気持ちを勝ち取るのは自分でやらなきゃね!」
そんなノエルに、佳乃は儚げな見た目とは違い中身は随分とサバサバしているな、と変に感心してしまった。
「は、はい!頑張ります!」
とりあえず応援されていることには違いないので、彼女自身もまた拳を握りしめる。
そんな2人に、アリスは少し呆れたようにため息をついてから、ノエルにクッキーを差し出す。
「よかったら、ノエルも食べてみれば?なかなかおいしいわよ」
「あ、いいの?」
ちらりと一瞥されたので、佳乃は無言でうなずく。
「じゃあ、いただきます」
サクサクと咀嚼音が聞こえる。やはり、自分の作ったものを人に食べてもらうのはなかなかに緊張するものだ。
アリスは、ノエルがクッキーを食べ始めた時点で店のドアに「close」の看板を出しに行っていてこの場にいない。
クッキーを飲み込むまでの時間は、きっとそれほど長くはなく、かかっていたとしても数十秒。
アリスが食べているときとはまた違う、この店のオーナーであり、大魔女であるノエルに手作りクッキーを食べてもらっていると事実に、得体の知れない緊張感を佳乃は味わっていた。
「うん、とっても美味しかったよ。ごちそうさま。これならきっと、その初恋の彼の心も鷲掴みだ!」
にっこりと満面の笑みでそう言ってもらえただけで、佳乃にとっては充分すぎるくらい強いおまじないだ。
「ありがとうございます!当日は絶対緊張すると思うんですけど、ちゃんと渡しますね!!」
改めて気合を入れ直している佳乃をうんうんとうなずきながら見ていると、アリスが戻ってきた。
「よかったわね、無事にノエルにもお墨付きを貰えたようで。これでもう心配はいらないわ」
「はい!あとは肝心のあの人に渡すときのクッキーを失敗しないようにすることだけですね」
佳乃は、そう言ってこれから当日までの数日の夜を、クッキー作りに費やすことを決めた。
当日。佳乃は、やはり緊張していた。
彼はちゃんときてくれるだろうか。クッキーは他人からしても美味しくできているだろうか。ラッピングはおかしくないか。などなど、要らぬ心配事まで出てきてしまい、それが頭の中でぐるぐると回っている。悪循環だ。
もはや目までぐるぐるしている様子の佳乃に、それを見ていたアリスが苦笑まじりにため息をついた。
「緊張しすぎよ。今日は別に告白するわけでもないんだから、クッキーをお礼として、渡すんでしょう?」
「そうなんですけど…こんなの初めてなので、緊張はします…」
もしも佳乃に耳がついていたらそれは今、しょんぼりと垂れ下がっているだろう。
と、そんな時、店の扉が勢いよく開いた。心なしか、いつもは軽やかになるドアベルも騒々しく聞こえる。
「佳乃ちゃん!おまじないかけにきたよ!」
「え!?」
言いながら入ってきたのは、ほかでもないノエルだった。
「あれって、本気だったんですか?あれからお店にいらっしゃらないので、てっきり冗談なのかと」
サラリと心にグサリと刺さることを言われてしまい、ノエルは少し苦笑した。これからはちゃんと定期的に店に顔を出すことにしよう。
「本気の本気だよ。可愛いバイトちゃんためなら火の中水の中、なんちゃって」
パチンと切れ長目をウィンクさせて、宣言したオーナーになんだか徐々に緊張が解けてきた。もしかしたら、すでにおまじないをかけられているのかも知れない。
「ノエルさんはいい人…あ、人じゃない、魔女さんですね」
おかしそうに笑いながら言われてしまって、ノエルは軽く目を丸めた。
「そんなこと初めて言われたよ。佳乃ちゃんは変わっているね」
魔女に変わり者呼ばわりされるのは少し複雑だ。
少し不服そうに口を尖らせる佳乃に、ノエルはそっと近づく。そして、優しく手を取った。
目を閉じて何かをボソボソと呟くと、手を離される。
触れられた手が、暖かい。
「がんばってね!応援してるから」
「はい!」
流石にここまでされて、先ほどのようなことを考えたりするほど、冷たい人間ではない。きっと成功する。
「頑張ります!」
夕方。ノエルの入店時とは大きく違い静かに扉が開き、ドアベルが鳴った。
入ってきたのはあの青年だった。
「こんにちは」
あの人変わらず優しく爽やかな笑みを向けてくる。
今、店内には佳乃しかいない。アリスは気を使って倉庫に、ノエルは用事があるということで先ほど帰っていった。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
やはり緊張するのは変わらない。でも、先ほどのような悪い考えはもうなかった。
彼はちゃんときてくれた。考えてみれば、見ず知らずの人を助けるくらいいい人だ。人からもらったものを卑下するような人なはずない。
「ごめんね、遅くなっちゃって。本当は昼間に来ようと思ってたんだけど、急用ができて…」
申し訳なさそうに言う青年に、佳乃は勢いよく首を横に振る。
「気にしないでください!そもそも、私が勝手にお礼したいなんて言ってことなので。来てくださったことだけで十分嬉しいです」
すると、青年はおかしそうに口元を覆って笑い始めた。それに、佳乃は首を傾げる。
「ふふ、前から思ってたけど、君すごく礼儀正しいね。今まで、君みたいな丁寧な子あんまり会ったことないよ」
「え、あ、ありがとうございます。祖父祖母が礼儀に厳しい人なので、それで鍛えられました」
まさかそんなことを褒められるとは思っていなかったので、小さい頃叩き込まれた礼儀は無駄ではなかったことを改めて感じて、心の中で祖父と祖母に感謝した。
思わぬところで好感度アップである。
そこまで考えて、本来の目的を思い出す。そして、それまで手に持っていたアリスというプロ直伝の丁寧にラッピングしたクッキーを差し出す。
「えっと、じゃあ、お礼にクッキーを焼いてみたんです。美味しいかはわからないけど、それでよかったらどうぞ」
「ありがとう」
丁寧に両手で差し出されたそれを同じく両手で受け取り、青年はまじまじとクッキーを見つめる。
「すごく綺麗な焼けてるね。美味しそうだ。早速一枚いただいてもいいかな?」
「あ、はい!どうぞ」
そして、青年はラッピングを外しクッキーを一枚口に入れた。
ノエルがクッキーを食べている間とは比にもならないくらいの緊張が彼女を襲う。
もしも口に合わなかったらどうしよう。少し大袈裟かもしれないが、命の恩人に不味いものを食べさせてしまったとなると取り返しがつかない。
ぎゅっとエプロンを握りしめてじっと青年を見つめていると、彼は少し困ったように苦笑した。
「…そんな顔しなくても、すごく美味しいから大丈夫だよ。お店で売ってるのと変わらないくらい、美味しい」
「は、本当ですか!?よかった〜。命の恩人に不味いもの食べさせたらどうしようかと…」
心の底から安堵した様子の佳乃に、彼は本当におかしそうに笑った。
「命の恩人って…!そんなに大袈裟なものじゃないのに」
「いやいや、熱中症って結構怖いんですよ?現に、今の時期熱中症で亡くなった人も結構いるんですから、侮れません。私ももしかしたら、あそこで倒れたままだったら死んでたかもしれませんからね!」
憤然と言い切る佳乃の言葉に、彼はなるほどとうなずいた。
「確かにそうかもね。じゃあ尚更、あの場で君を助けてよかったよ。こんなに美味しいクッキーももらえたしね」
「わー、そう言ってもらえると嬉しいです」
ずっと張り詰めていた糸が切れたような感覚なので、ゆるゆると表情筋が緩んでいくのが感じられる。
「ふふ…あ、ねぇ、名前を聞いてもいいかな。僕は倉木蒼」
「あ、三鷹佳乃です」
今更ながら、お互い名前を知らぬまま会話をしていたのだ。通常ならば佳乃から名前をきき出さなければならなかったはずなのに、蒼から聞かせてしまった。
反省していると、蒼が首を傾げる。
「えっと、三鷹さんは今高校生だよね?ここでのバイトはもう今日で辞めちゃうの?」
「え、いえ。そういうわけでは。少なくともアリスさん…店長に言われるまでは働くつもりです。あと、私高校二年生です」
「そっか。じゃあ、またここに来れば会えるかな?」
「え」
思わぬ言葉に、硬直する佳乃。にこにこと、それを面白そうに蒼は眺めている。
「……えっと、面白がってますか?」
「少しだけ?」
こてんと可愛らしく小首を傾げられ、佳乃はどうしたらいいか困惑した。
何せこういったことは初めてだ。果たしてこういう場合どのように返せばいいのか。
「え、えぇっと…」
ぐるぐると目を回していると、後ろからぽんと肩に手をおかれた。目線だけ後ろにやると、にっこりと微笑むアリスの姿が。
「佳乃、無事にクッキーは渡せたのね。よかったわ」
「あ、は、はい…おかげさまで?」
というか、いつからそこに。
不思議そうに首を傾げている佳乃の隣に立って、アリスは蒼に向き直る。
「この子のクッキーが気に入ったならよかったです。このレシピはうちの店のクッキーと同じものなので、ぜひまたいらっしゃいませ。先ほどあなたがおっしゃったように、この店にくればこの子にも会えますよ」
なんだか一瞬、この2人の間に青白い火花が散った気がした佳乃は、2人を交互に見つめる。
「…すみません、少し意地悪でしたね」
不安そうな目をする佳乃に、蒼は苦笑した。
「全くです。あまりからかわないでください」
アリスは嘆息して、丁寧に腰を折った。
「それでは、生憎と閉店の時間となってしまいましたので、またのご来店をお待ちしております」
それに、佳乃ははっと壁にかけられた時計に目を向ける。確かに、閉店5分前だ。
「あ、ありがとうございました。ぜひまた遊びにきてください」
アリスと同様に丁寧に腰を折った佳乃に、蒼はうなずいた。
「うん。またくるよ。このお店気に入ったしね」
にっこり笑って、彼は会釈して背を向ける。
ドアが開閉した音を聞くまで、佳乃はずっと、腰を折っていた。
けちょんけちょんに言われたらどうしよう、と少し思ったが、一応自分の中では頑張った。大丈夫なはずだ。たぶん。
などと考えながらそろそろ慣れてきたNotaへの道のりを歩いていく。今日も今日とて、快晴で暑い。
「はぁ〜、なんで夏って暑いんだろうなぁ」
呟いて、空を見上げる。当然、太陽が元気よく輝いていた。なんだかだんだん憎らしくなってきた気がする。
首が疲れて元に戻し、むむ、と眉間にシワを寄せていると、一匹の黒猫が佳乃の目の前に飛び出してきた。
「わ!」
艶々とした黒い毛並みにまん丸な碧い瞳。なんだか、どこかでみたことがあるような。
「ア…アリスさん…?」
恐る恐るというように首を傾げてみると、黒猫はまるで「正解」とでもいうようにニャーンと一鳴き。
この時、佳乃は改めてアリスが使い魔だということを自覚した。
黒猫、もとい、アリスと共にNotaを訪れると、冷房の効いた涼しい空間に一気に気が抜ける。
「あー、涼しい」
「ふふ、外はとても暑かったからね。私も肉球が火傷しないか心配になったわ」
歩いているうちに慣れたけど、と付け加える下から聞こえるアリスの声に、佳乃はん?と自分の耳を疑った。
「え、アリスさんその状態で話せるんですか?」
「ええ。さっきは外で、誰がみているかわからなかったから普通の猫のフリをしたの。あなたがすぐに私だって気付いてくれて助かったわ」
音を立てずに彼女の目線に合わせるように机の上に上がって、アリスは目を細める。
「いや、なんか…なんとなく、アリスさんに似てるなぁ、この猫って思っただけだったんですが。目の色とか」
自分を見つめてくる深い碧い瞳を見つめ返して、本当に綺麗だななどと呑気に考える。
「なんか、本当に使い魔なんですね、アリスさん」
しみじみという佳乃に、彼女は器用に前足を自分の口元へ持っていく。
「何度も言ってきていたのに信じていなかったの?」
「いや…信じてはいたんですよ?リウムさんのこともあるし…ただ、なんか、アリスさん普通の人間みたいだから」
それにうなずいて、アリスは少し笑ったようだった。
「人になるのがうまいということは嬉しいわ。最初のころはあんまりうまくいかなかったから。それにしても、リウムというのはオウクリウムのことよね。随分仲が良くなったのね?お店に来た時、自己紹介をしていたかしら?」
首を傾げるアリスに、佳乃は緩く首を振る。
「実は、昨日バイトの帰り道にリウムさんが私のところまで来てくれて。それで家まで送ってもらったんです。その時自己紹介をしました」
それにうなずいて、アリスは一つ瞬きをする。すると、見慣れた人の姿をしたアリスが吉野の目の前に立っていた。
「オウクリウムは人が好きだから、きっとあなたのことが気に入ったのね。これからも仲良くしてくれたら私も嬉しいわ」
にっこりと笑うアリスに、佳乃は大きくうなずく。それはこちらも同じだ。
「あ、あと、リウムさんがこのお店がなんのためにあるのかとかも聞きました。私、本当にそんなすごいことに関わっていいんでしょうか?」
首を傾げる佳乃に、アリスはうなずく。
「大丈夫よ。むしろあなたのような子がこの店にいてくれれば助かるわ」
「ならよかったです」
あくまでもこの店に働くのはお礼のためだ。邪魔になっていては意味がない。
「あ、それと、今度リウムさんの主人さんもこのお店に来るそうですよ」
「あらそう。じゃあ、ノエルにも伝えておきましょう」
少し驚いたような反応に、リウムの主人のことを考えてみる。果たしてどんな人なのだろうか。あのリウムの主人だ。きっといい魔女か魔法使いなのだろう。
「アリスさんは、ノエルさんのことを呼び捨てなんですね」
「そうね。最初はちゃんと様をつけて呼んでいたのだけど、本人が嫌がって」
当時を思い出したのか、苦笑するアリスに、昨日のリアムが言っていたノエルの特徴は間違っていないのだな、と勝手に再認識する。
そこで、佳乃は包んできたクッキーの存在を思い出す。まだ開店するには早い時間だ。渡すなら今だろう。
「あの、昨日家で1人で作ってみたんです。よかったらもらってもらえません?」
バックからそれを取り出し、緊張気味に手渡す。アリスはそれを笑顔で受け取った。
「見た目も綺麗に焼けているわね。美味しそう。早速一枚いただくわ」
サクッ、といい音を立てて咀嚼していく。
「うん、とても美味しくできてるわ。これなら人にあげても文句なしね」
「ほんとですか!?やったぁ!」
「頑張るのよ。可愛い女の子に手作りクッキーなんてもらって嬉しくない男の子なんていないもの。きっとうまくいくわ」
その言葉に、佳乃は大きく頷く。
「頑張ります!」
まだ名前も知らないあの青年の顔を思い浮かべ、佳乃は再度覚悟を決めた。
その日の夕方、もう閉店の時間だという時に、とびきり美人な女性が入ってきた。
毛先の方だけ癖のついた、背中まで伸びる美しい艶のある銀髪に、薄い水色の瞳。肌はまさに珠のように白い。長い睫毛が影を作っている。黄色いレースの半袖に、白いシフォンのスカートという装いで、とても涼しげだ。
佳乃は、その女性の来店に思わず息を呑んだ。
「…い、いらっしゃいませ!」
なんとかそれだけ絞り出して、彼女は固まる。アリスやあの青年といい、最近自分の周りには美形が揃ってきている気がしてならない。心臓が持ちそうにないな。
「貴女が佳乃ちゃん?」
にっこりと笑って首を傾げ、名前を呼ばれた佳乃は、かろうじて首を縦に動かした。
「なるほど。確かに可愛い子だね。アリスはいる?」
「え、えっと、今倉庫のほうに行っていて…。すぐに戻ってくると思います」
アリスの知り合いなのか。ということは、魔女か使い魔だろう。それにしても、美人だ。アリスももちろん美人だが、彼女はそれとはまた違う意味での美しさがある。
「ここでの仕事はどう?楽しい?」
不意に美女が聞いてきた。自然と背筋がピンと伸びる。
「は、はい!大変ではありますけど、楽しいです」
明らかに緊張している様子の佳乃に、女性はおかしそうに笑った。
「そんなに緊張しなくていいよ。私が怖い?」
「違います!怖いとかじゃなくて、その、すごく美人でびっくりして…」
「あはは!ありがとう」
大人しそうな見た目とは裏腹に、なんとも明るい性格をしている。
裏口のドアが開閉する音が聞こえた。アリスが戻ってきたようだ。
「あ、戻ってきたみたいだね」
その言葉から間を開けずに、厨房からアリスが出てきた。女性の姿を認めて、少し驚いたように目を丸める。
「珍しいわね、ノエル。なにかあったの?あなたがこの店に来るなんて」
「え!?」
「えー、ひどいい草だなぁ。一応ここのオーナーなんだから、用事がなくてもきてもおかしくないでしょ」
「えぇ!?」
2人の顔を交互に見合わせて、佳乃ほ困惑する。アリスは軽くため息をついた。
「…紹介するわ。この店のオーナーのノエルよ」
「は、はじめまして。三鷹佳乃です」
「はじめまして、ノエルです。Nota Western CUPPEDIAEで働いてくれてありがとう」
とてもいい発音・笑顔で手を差し出され、佳乃は困惑気味にその手をそっと握る。
「私とアリスの正体は知ってるんだよね?」
それに、うなずく。ノエルは、満足げに笑った。
「ならよかった。アリスのことだからちゃんと説明してないんじゃないかと思ったんだ。この店のことも知ってるよね?」
「はい。昨日、リウムさんから教わりました」
彼女の言葉に、ノエルは軽く目を丸めた。
「リウムって、オウクリウムのことだよね。アルバのところの」
「アルバ…?」
「オウクリウムの主人のことよ。魔法使いなの」
アリスが答えて、佳乃はなるほどとうなずく。そして、ノエルの問いかけにうなずいた。
「へぇー、仲良くなったんだ。よかったね!」
にこにこと笑うノエルに、佳乃はなんとも言えない劣等感を感じてしまった。
どうしてこうも美人なのだろうか。目が焼ける。
むむ、と眉間にシワを寄せていると、ノエルが偶然にもアリスが手に持っていた佳乃の手作りクッキーを目に留めた。
「それ、アリスが作ったの?」
「違うわ。これは佳乃が作ったもの。彼女、初恋の人にこれをあげる予定なのよ」
「わー!アリスさん!!」
会ってまもない人物(?)にそんなことを言われてしまえば、恥ずかしい以外のなにものでもない。
顔を赤くして、あっけなく暴露してくれたアリスに抗議の目を向けたが、軽くスルーされてしまった。
「それは素敵だね!うまくいくように、私が軽くおまじないをかけてあげよう」
「わぁ、本物の魔女がかけるおまじないって本当に効きそうでなんか怖いですね…」
ワクワク半分、恐ろしさ半分といった感じだ。だが、仮におまじないのかかったクッキーで両思いなれたとしても、嬉しくない。
そんな佳乃の考えを読み取ったのか、ノエルが安心させるようにぐっと親指を立てた。美人にはいささか似合わない行動である。
「大丈夫。おまじないといっても、本格的なものじゃないから。気休め程度のものだよ。安心して。こと恋愛ごとにおいて、相手の気持ちを勝ち取るのは自分でやらなきゃね!」
そんなノエルに、佳乃は儚げな見た目とは違い中身は随分とサバサバしているな、と変に感心してしまった。
「は、はい!頑張ります!」
とりあえず応援されていることには違いないので、彼女自身もまた拳を握りしめる。
そんな2人に、アリスは少し呆れたようにため息をついてから、ノエルにクッキーを差し出す。
「よかったら、ノエルも食べてみれば?なかなかおいしいわよ」
「あ、いいの?」
ちらりと一瞥されたので、佳乃は無言でうなずく。
「じゃあ、いただきます」
サクサクと咀嚼音が聞こえる。やはり、自分の作ったものを人に食べてもらうのはなかなかに緊張するものだ。
アリスは、ノエルがクッキーを食べ始めた時点で店のドアに「close」の看板を出しに行っていてこの場にいない。
クッキーを飲み込むまでの時間は、きっとそれほど長くはなく、かかっていたとしても数十秒。
アリスが食べているときとはまた違う、この店のオーナーであり、大魔女であるノエルに手作りクッキーを食べてもらっていると事実に、得体の知れない緊張感を佳乃は味わっていた。
「うん、とっても美味しかったよ。ごちそうさま。これならきっと、その初恋の彼の心も鷲掴みだ!」
にっこりと満面の笑みでそう言ってもらえただけで、佳乃にとっては充分すぎるくらい強いおまじないだ。
「ありがとうございます!当日は絶対緊張すると思うんですけど、ちゃんと渡しますね!!」
改めて気合を入れ直している佳乃をうんうんとうなずきながら見ていると、アリスが戻ってきた。
「よかったわね、無事にノエルにもお墨付きを貰えたようで。これでもう心配はいらないわ」
「はい!あとは肝心のあの人に渡すときのクッキーを失敗しないようにすることだけですね」
佳乃は、そう言ってこれから当日までの数日の夜を、クッキー作りに費やすことを決めた。
当日。佳乃は、やはり緊張していた。
彼はちゃんときてくれるだろうか。クッキーは他人からしても美味しくできているだろうか。ラッピングはおかしくないか。などなど、要らぬ心配事まで出てきてしまい、それが頭の中でぐるぐると回っている。悪循環だ。
もはや目までぐるぐるしている様子の佳乃に、それを見ていたアリスが苦笑まじりにため息をついた。
「緊張しすぎよ。今日は別に告白するわけでもないんだから、クッキーをお礼として、渡すんでしょう?」
「そうなんですけど…こんなの初めてなので、緊張はします…」
もしも佳乃に耳がついていたらそれは今、しょんぼりと垂れ下がっているだろう。
と、そんな時、店の扉が勢いよく開いた。心なしか、いつもは軽やかになるドアベルも騒々しく聞こえる。
「佳乃ちゃん!おまじないかけにきたよ!」
「え!?」
言いながら入ってきたのは、ほかでもないノエルだった。
「あれって、本気だったんですか?あれからお店にいらっしゃらないので、てっきり冗談なのかと」
サラリと心にグサリと刺さることを言われてしまい、ノエルは少し苦笑した。これからはちゃんと定期的に店に顔を出すことにしよう。
「本気の本気だよ。可愛いバイトちゃんためなら火の中水の中、なんちゃって」
パチンと切れ長目をウィンクさせて、宣言したオーナーになんだか徐々に緊張が解けてきた。もしかしたら、すでにおまじないをかけられているのかも知れない。
「ノエルさんはいい人…あ、人じゃない、魔女さんですね」
おかしそうに笑いながら言われてしまって、ノエルは軽く目を丸めた。
「そんなこと初めて言われたよ。佳乃ちゃんは変わっているね」
魔女に変わり者呼ばわりされるのは少し複雑だ。
少し不服そうに口を尖らせる佳乃に、ノエルはそっと近づく。そして、優しく手を取った。
目を閉じて何かをボソボソと呟くと、手を離される。
触れられた手が、暖かい。
「がんばってね!応援してるから」
「はい!」
流石にここまでされて、先ほどのようなことを考えたりするほど、冷たい人間ではない。きっと成功する。
「頑張ります!」
夕方。ノエルの入店時とは大きく違い静かに扉が開き、ドアベルが鳴った。
入ってきたのはあの青年だった。
「こんにちは」
あの人変わらず優しく爽やかな笑みを向けてくる。
今、店内には佳乃しかいない。アリスは気を使って倉庫に、ノエルは用事があるということで先ほど帰っていった。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
やはり緊張するのは変わらない。でも、先ほどのような悪い考えはもうなかった。
彼はちゃんときてくれた。考えてみれば、見ず知らずの人を助けるくらいいい人だ。人からもらったものを卑下するような人なはずない。
「ごめんね、遅くなっちゃって。本当は昼間に来ようと思ってたんだけど、急用ができて…」
申し訳なさそうに言う青年に、佳乃は勢いよく首を横に振る。
「気にしないでください!そもそも、私が勝手にお礼したいなんて言ってことなので。来てくださったことだけで十分嬉しいです」
すると、青年はおかしそうに口元を覆って笑い始めた。それに、佳乃は首を傾げる。
「ふふ、前から思ってたけど、君すごく礼儀正しいね。今まで、君みたいな丁寧な子あんまり会ったことないよ」
「え、あ、ありがとうございます。祖父祖母が礼儀に厳しい人なので、それで鍛えられました」
まさかそんなことを褒められるとは思っていなかったので、小さい頃叩き込まれた礼儀は無駄ではなかったことを改めて感じて、心の中で祖父と祖母に感謝した。
思わぬところで好感度アップである。
そこまで考えて、本来の目的を思い出す。そして、それまで手に持っていたアリスというプロ直伝の丁寧にラッピングしたクッキーを差し出す。
「えっと、じゃあ、お礼にクッキーを焼いてみたんです。美味しいかはわからないけど、それでよかったらどうぞ」
「ありがとう」
丁寧に両手で差し出されたそれを同じく両手で受け取り、青年はまじまじとクッキーを見つめる。
「すごく綺麗な焼けてるね。美味しそうだ。早速一枚いただいてもいいかな?」
「あ、はい!どうぞ」
そして、青年はラッピングを外しクッキーを一枚口に入れた。
ノエルがクッキーを食べている間とは比にもならないくらいの緊張が彼女を襲う。
もしも口に合わなかったらどうしよう。少し大袈裟かもしれないが、命の恩人に不味いものを食べさせてしまったとなると取り返しがつかない。
ぎゅっとエプロンを握りしめてじっと青年を見つめていると、彼は少し困ったように苦笑した。
「…そんな顔しなくても、すごく美味しいから大丈夫だよ。お店で売ってるのと変わらないくらい、美味しい」
「は、本当ですか!?よかった〜。命の恩人に不味いもの食べさせたらどうしようかと…」
心の底から安堵した様子の佳乃に、彼は本当におかしそうに笑った。
「命の恩人って…!そんなに大袈裟なものじゃないのに」
「いやいや、熱中症って結構怖いんですよ?現に、今の時期熱中症で亡くなった人も結構いるんですから、侮れません。私ももしかしたら、あそこで倒れたままだったら死んでたかもしれませんからね!」
憤然と言い切る佳乃の言葉に、彼はなるほどとうなずいた。
「確かにそうかもね。じゃあ尚更、あの場で君を助けてよかったよ。こんなに美味しいクッキーももらえたしね」
「わー、そう言ってもらえると嬉しいです」
ずっと張り詰めていた糸が切れたような感覚なので、ゆるゆると表情筋が緩んでいくのが感じられる。
「ふふ…あ、ねぇ、名前を聞いてもいいかな。僕は倉木蒼」
「あ、三鷹佳乃です」
今更ながら、お互い名前を知らぬまま会話をしていたのだ。通常ならば佳乃から名前をきき出さなければならなかったはずなのに、蒼から聞かせてしまった。
反省していると、蒼が首を傾げる。
「えっと、三鷹さんは今高校生だよね?ここでのバイトはもう今日で辞めちゃうの?」
「え、いえ。そういうわけでは。少なくともアリスさん…店長に言われるまでは働くつもりです。あと、私高校二年生です」
「そっか。じゃあ、またここに来れば会えるかな?」
「え」
思わぬ言葉に、硬直する佳乃。にこにこと、それを面白そうに蒼は眺めている。
「……えっと、面白がってますか?」
「少しだけ?」
こてんと可愛らしく小首を傾げられ、佳乃はどうしたらいいか困惑した。
何せこういったことは初めてだ。果たしてこういう場合どのように返せばいいのか。
「え、えぇっと…」
ぐるぐると目を回していると、後ろからぽんと肩に手をおかれた。目線だけ後ろにやると、にっこりと微笑むアリスの姿が。
「佳乃、無事にクッキーは渡せたのね。よかったわ」
「あ、は、はい…おかげさまで?」
というか、いつからそこに。
不思議そうに首を傾げている佳乃の隣に立って、アリスは蒼に向き直る。
「この子のクッキーが気に入ったならよかったです。このレシピはうちの店のクッキーと同じものなので、ぜひまたいらっしゃいませ。先ほどあなたがおっしゃったように、この店にくればこの子にも会えますよ」
なんだか一瞬、この2人の間に青白い火花が散った気がした佳乃は、2人を交互に見つめる。
「…すみません、少し意地悪でしたね」
不安そうな目をする佳乃に、蒼は苦笑した。
「全くです。あまりからかわないでください」
アリスは嘆息して、丁寧に腰を折った。
「それでは、生憎と閉店の時間となってしまいましたので、またのご来店をお待ちしております」
それに、佳乃ははっと壁にかけられた時計に目を向ける。確かに、閉店5分前だ。
「あ、ありがとうございました。ぜひまた遊びにきてください」
アリスと同様に丁寧に腰を折った佳乃に、蒼はうなずいた。
「うん。またくるよ。このお店気に入ったしね」
にっこり笑って、彼は会釈して背を向ける。
ドアが開閉した音を聞くまで、佳乃はずっと、腰を折っていた。