翌朝、目を覚ました佳乃は気合を入れるために自分の頬を音を立てて叩いた。
「よっし!頑張るぞー!!」
 おー!と、拳を掲げて言ってから、ベッドから起き上がりいそいそと着替えを始める。
 飲食店なので髪は一つにまとめ、動きやすい服装を選んだ。なにせ、普通の洋菓子店ではないのだ。いつなんどき、何が起こるかわからない。
 鏡で何かおかしなところがないかを確認してから、部屋を出る。
 玄関まで行ったところで、母親である紗和が心配そうに頬に手を添えながら出てきた。
「しっかり水分補給しながらお店に向かうのよ。昨日みたいに倒れないように」
「はーい。わかってるよ。いってきます」
 ひらりと軽く手を振って、家を出る。
 昨日帰ってから、バイトの話をする際倒れたことを話さずにはいられなかったため、話したが。
「あー…話さないほうがよかったかなぁ。お店の秘密とかは言ってないんだから、別に全部話す必要なかったかも」
 昨日の自分の行いを軽く後悔しながら、店への道をゆったりと歩いていく。
 今日も今日とてやはり夏だけあって暑いが、昨日よりは風がある分マシだった。
 ふわりと柔らかく吹いてくれた風に感謝しながら、気分良く微笑んだ。
 店の名前は『Nota Western CUPPEDIAE』ラテン語で使い魔の洋菓子という意味らしい。
 やはり普通の店ではないので不安もあるが、楽しみでもある。
 これから、どんなことが起こるのか。
「ワクワクするなぁ」
 雲ひとつない晴天を見上げて、佳乃は呟いた。


 カランコロン、と、何度聞いても軽快で爽やかな音を響かせて、佳乃はNotaを訪れる。
「こんにちは」
 少し緊張で声が硬くなってしまった。
「こんにちは」
 それに、柔らかなアリスの声が返ってくる。昨日とは違い、パティシエールらしくコックコートを着ていた。
「暑かったでしょう?昨日みたいに体調を崩さないようにね」
 今朝の母親と同じことを言われてしまい、少し複雑に思いながらも彼女はうなずく。佳乃としても、昨日のようなことは繰り返したくはなかった。
 佳乃の神妙な様子に、アリスはおかしそうに笑ってから手に持っていた白黒のワンピースのようなものを手渡した。
 「この店の制服よ。気にいるといいけど…」
 軽く折り畳まれたそれを、佳乃はそっと広げてみる。
 白い生地に右胸に小さな黒猫が刺繍されており、下は白黒のプリーツスカートになっていた。
「わ、かわいいです!」
「ならよかった。厨房に入る時はこのエプロンをつけてね。それ以外はつけなくて構わないわ」
 手渡されたエプロンは黒地に白猫が描かれたものだった。それを受け取って、うなずく。
「あの、店長」
「アリスでいいわ」
「じゃ、じゃあ、アリスさん。私はなにをすればいいですか?」
 もっともな質問に、アリスは小さくうなずいた。
「あなたには主に店番とラッピング、店内・店の周りの軽い清掃を頼みたいの。慣れてきたらイートンインスペースを解放して、接客も頼みたいと思っているわ。やることが多いけれど、大丈夫?」
 予想以上に多い仕事量になりそうなのには少し驚いたが、この店のバイトは元はと言えば助けてくれたお礼なのだ。問題はない。
「はい!大丈夫です。バイトは初めてなので、至らないところはあると思いますが、がんばります」
 その言葉にうなずいてから、アリスは店の奥、厨房とは違うドアを指差す。
「じゃあ、そこの部屋で着替えてきて。着替え終わったら厨房に入ってきて。私はそこにいるから」
「わかりました」
 佳乃は、言われた通りその部屋に入っていった。

「…すごい、ちょっと怖いくらいサイズがぴったり」
 先ほど手渡された制服を着てみると、驚くほどに体の大きさとマッチしていた。
「やっぱり使い魔だからかな…」
 なんとなく納得できるような、できないような。そもそも使い魔とはどういうものなのだろうか。魔女の部下?
「聞いてみよう」
 自分で考えていても埒があかないので、こういう時は本人に聞くのが一番である。
 部屋を出て、言われた通りエプロンをつけてから厨房へ入った。
 アリスは、何か白い生地をこねている最中だった。あれはなんだろう。
 佳乃が入ってきたのに気づいたようで、彼女は顔をあげる。
「着替え終わったのね。サイズはどう?」
「ぴったりです。少し怖いくらいに」
「ふふ、ならよかった」
 素直な感想に、アリスはおかしそうに笑いながら、その生地を冷蔵庫の中へとそっと入れた。
「あの、それ何の生地ですか?」
「パイ生地よ。チェリーパイの注文が入っているから、仕込みをしていたの。受け取りは明日。今からフィリングを煮詰めるけれど、見学する?」
 パイ生地、という単語を聞いたところで目を輝かせた佳乃に、アリスはにっこりと笑った。それに、彼女は大きくうなずく。
「ぜひ!」
 それを受けて、アリスは生地を入れた冷蔵庫とは別の冷蔵庫を開け、そこから真っ赤なさくらんぼを取り出した。まるでとれたてのように艶やかだ。そのまま食べても美味しいだろう。
 それを軽く水で洗い流し、へたを手際よく外していく。
 なんだかただ見学しているのも悪い気がしてきて、佳乃は口を開いた。
「あの、何か手伝えることはありますか?」
「そうね、じゃあグラニュー糖を計っておいてくれる?量はそこの紙に書いてあるわ」
 まるで佳乃が手伝いを申し出るのをわかっていたかのような指示と用意周到さに、またまた目を瞬かせる。
 なんでもお見通しだ。
 ぼうっとしているわけにもいかないので、言われたように紙を見てグラニュー糖を計っていく。
 その間に、アリスはへたを外し終えたさくらんぼを鍋に入れ、水を注いでいた。
「計り終わりました」
「ありがとう」
 差し出されたそれを受け取り、さらさらと心地よい音を立ててさくらんぼの入った鍋へとグラニュー糖をいれていく。
 軽く鍋を揺すってから、火をつけて弱火にする。
 少しして、甘い香りが鍋から漂ってきた。匂いだけで味が想像できそうだ。
 しばらくして煮詰め終わったようで、アリスが火を止める。予め用意していたバットの中にフィリングを入れ、ケーキクーラーの上に乗せた。
「あとは粗熱をとって、冷蔵庫で冷やして完成よ」
「わぁ、楽しみですね!どんなお客さんなんですか?」
「魔女よ。私の主の友人なの」
「おぉ…すごい。あ、もしかして昨日オーナーは別にいる、って店長言ってましたけど、それが店長のご主人様ですか?」
 目を輝かせる佳乃に、彼女はうなずく。
「あまり店には顔を出さないの。そのうちきたら紹介するわね」
 結構適当な扱いなので、それでいいのかと若干心配になってしまうが、本人がいいと言っているならいいのだろう。
「わかりました。楽しみにしてますね」
「ええ。さてと、それじゃあ、細かい仕事内容について説明するわね。ついてきて」
 軽く使った鍋や台を片してから、アリスは厨房を出る。それに、佳乃は慌てて後を追った。


 仕事内容を全て教わり、ちょうど正午に差し掛かったので、昼食を取ろうということになった。
「あの、昨日言われたように私なにも持ってきてないのですが…」
「大丈夫よ。今から私がまかないをつくるわ」
「ありがとうございます。じゃあ、手伝いますね!」
 元気よく言った佳乃に笑ってうなずいて、再び二人は厨房に入る。

 二人で作ったまかないを店内の奥、いわば休憩室のようなところで食べ始める。
「そういえば、昨日の彼に作るお菓子の話だけれど。何を作るのかはもう決めたの?」
 アリスの問いかけに、佳乃はわかりやすくギクリと体を硬直させた。
「それが…まだ決めてないんです。一応時間はあるので焦らなくてもいいとは思うんですけど…」
 それにうなずいて、アリスは首を傾げる。
「あなた、お菓子作りは得意なの?」
 佳乃は、微妙な顔をした。そして、軽くため息をつく。
「得意か不得意かで聞かれると、あんまり。基本的には食べる専門ですね!」
 堂々と言ってのけた佳乃に笑いながら、彼女は提案がある、とでもいうように人差し指をピンと立てた。
「なら、クッキーはどうかしら?」
「クッキー、ですか」
 虚をつかれたように目を瞬かせる佳乃にうなずいて、佳乃は立ち上がり一冊のノートを取り出す。
 それを佳乃に開いて見せてくれた。開かれたページには「基本の型抜きクッキーの作り方」というタイトルと共に、可愛らしい形をしたクッキーのイラストが描かれていた。
「わぁ、可愛いですね。それに意外と簡単そうです」
 軽くレシピに目を通しても、工程はあまり多くないように見える。これならほぼ初心者である佳乃にも作れそうだ。
「そうでしょう。意外と簡単なのよ。それに、いろんな形にできるから自分の気持ちを伝えるのにもいいのよ。ほら、このハート型とか」
 ハート型にくりぬかれたクッキーのイラストを指差して、アリスは悪戯っぽく微笑む。それに、佳乃はうっ、と恥ずかしそうに目を逸らした。
「…バレました?」
「まぁ、あんなにかっこいい子に助けてもらったら、好きになるのは仕方ないもの。わかるわよ。顔も真っ赤だったしね」
 くすくすと、おかしそうに笑われてしまい佳乃は恥ずかしさで消えてしまいと思ったが、バレてしまったら背に腹は変えられない。
「もうこの際なので開き直りますが、あの人のこと好きなんです。でも、その、やっぱりまだハート型とかはちょっと、ハードルが高いというか…」
 ごにょごにょと言葉を濁すと、アリスは考えるように頰に手を添える。
「そうね…じゃあ、他にもいろんな形で作ってみて、いくつかハート型を紛れ込ませれば変に思われないんじゃないかしら」
 それは妙案だ。
「そうします!」
「じゃあ、せっかくだし一緒に作りましょうか。初めて作るのよね?」
 その言葉に、佳乃はうなずきながらも首を傾げる。
「でも、いいんですか?私がここにバイトさせてもらってるのも、お詫びなんですが…」
 なんだかかえってこちらが色々してもらっている気がしてならない。
 不安そうに眉を寄せる佳乃に、彼女は柔らかく笑った。
「大丈夫よ。人手が足りなかったのは事実だから、あなたがきてくれて助かってるわ。それに、忙しくなるのはこれからよ」
 たしかに、通常の洋菓子店のピークはお昼を過ぎたあとから夕方にかけてだと記憶している。
 まぁ、佳乃としてはお礼になっているならいいのだが。
 いまいち釈然しないままだが、断る理由は思いつかなかったのでその申し出をありがたく受けることにする。
「じゃあ、お言葉に甘えて。バシバシ鍛えてもらっていいです!」
 ぐっと拳を握りしめて気合を入れたところで、ドアの向こうから耳になじみ始めたあの軽快な音が響く。
「お客様がいらっしゃったみたいね」
 言いながら立ち上がるアリスに、佳乃も立ち上がる。
 さぁ、クッキー作りの前に働かなければ。


 夕方、最後の客が帰ったあと、佳乃は予想以上に疲労していた。
「洋菓子店の店員」というのは、笑顔で可愛く、お客様と楽しくお喋りをする、というイメージが強かったのだが、実際にやってみるとなかなかにハードだったのだ。まぁ、もちろんここが普通のお店でないことも理由の一つだが。
 客の中には使い魔らしき動物も多かったので、それらが落としていく羽毛やらなんやらを全て掃除し、聞いたことのない洋菓子を聞かされそれを探し、まだ覚え立てで時間をかけながらも精一杯ラッピングをし…などなど。店内は冷房が効いているとはいえ、汗が首筋を流れた。
「つ、疲れた…」
 すでに何もなくなったショーケースの上に突っ伏し、佳乃はうなだれる。
「お疲れ様」
 店のドアに「close」の看板をかけてきたアリスが、苦笑まじりにねぎらってきた。そして、その足のまま厨房に入ったかと思ったら、なにか赤く透き通る飲み物が入ったグラスを手に戻ってきた。
「どうぞ。さっき手が空いた時作っておいたの。よく冷えているから今のあなたにはぴったりよ」
 見るからに美味しそうに輝くそのドリンクを、佳乃は一口口に含む。
 口いっぱいに広がるチェリーの香りと程よい酸味と甘み。すこしだけ柑橘系のなにかが入れてあるのか、後味がとても爽やかだった。思わず一気に飲み干していく。
「これ、すっごく美味しいです!もしかして、さっき作ったチェリーのフィリングででたシロップですか?」
「ええ。それを冷水で割って、すこしだけライムを絞り入れたの。気に入ってもらえたならよかったわ」
 汗水を流して働いた後に、こんな爽やかなドリンクを飲んで気に入らない人間なんていない。
 感動しながら、佳乃はアリスの言葉にうなずく。
「アリスさんって、なんでも作れますよね。プロなのはわかってるんですけど、心からすごいと思います」
 しみじみとカラになったグラスを見つめながら言う佳乃に、彼女はふわりと柔らかく笑った。
「それはありがとう。私はこう見えて、やっぱり人よりは長く生きているから、その分たくさんのお菓子やドリンクの作り方を研究してきているから、そう言われると嬉しいわ」
 そうか。あまりにも普通の人と変わらなかったので、すっかり忘れていた。そういえば、彼女は使い魔なのだった。
「アリスさんは、なんの使い魔なんですか?」
 なんだか言い回しがおかしくなってしまったような気がするが、他にいい言い方が思いつかなかった。仕方ない。きっと伝わるだろう。
「私は猫よ。ちょうど、その制服に刺繍されているような黒猫ね。今は無理だけれど、そのうち見る機会があると思うわ」
 魔女に黒猫。まさに御伽噺(おとぎばなし)によくあるような、某ジブリ作品のような定番の組み合わせだ。なんだか感動してしまう。
「楽しみにしてますね!」
 急に瞳をきらきらと輝かせた佳乃に、アリスは少し不思議そうに首を傾げる。
「ええ。それで、今日からクッキー作りの練習をしていきたいと思っているのだけど、大丈夫?」
「あ、はい!大丈夫です。今のドリンクで疲れが吹っ飛びました。さすがですね」
「ふふ、あれには特になんのおまじないもかけていなかったから普通のドリンクなのだけど。それならよかったわ」
 言いながら、彼女は厨房に入っていく。入りかけたところで、後ろをついてきていた佳乃を、何かを思い出したように振り返る。
「ごめんなさい、いま嘘をついたわ」
 その言葉に、佳乃は虚をつかれたような顔をする。どれが嘘だったのだろうか。
「なんのおまじないもかけていない、と言ったけれど、あなたが元気になるようにという気持ちは込めたわ」
 悪戯っぽく笑って、今度こそアリスは厨房に入っていく。佳乃は、そんな可愛らしい店長にくすりと笑みをこぼした。

 家に帰る道のりで、佳乃はアリスのギャップに打ちひしがれて、とぼとぼと歩いていた。
 結論から言って、彼女はとんでもないほどのスパルタだったのだ。
 初心者だというのを伝えていたとは思うのだが、少しでも間違えれば綺麗な笑顔で。
「それは違うでしょう?同じ間違えをしているわよ。ほらもう一度最初から」
 と、レシピ本をわざわざ佳乃の顔の目の前につき出し言うのだ。そして途中まで進んでいても最初からやり直し。
 かれこれ4回ほどやり直し、ようやく成功したので、解放されたのだ。あたりはすっかりと薄暗くなっている。
 今は真夏なので一年で最も日が長い時期のはずだ。なのに薄暗いと言うことは、7時は過ぎているだろう。
「…今日、家に帰ったら練習しよう…またアリスさんにスパルタ指導を受けるわけにはいかない…」
 軽くトラウマになっているあの綺麗な笑顔を思い出し、佳乃は身を震わせた。美人の怒った顔は怖いものだ。
 不意に、上から影がかかった。
「…?」
 周囲が薄暗いのはわかるが、その影はなんの前触れもなく、しかも、佳乃の真上にのみ出てきたのだ。まるで逆のスポットライトのように。
 首を傾げ上を見上げてみると、なんと昨日の巨大フクロウが。
「わ…!昨日のお客様!」
 慌てて、フクロウに向けてペコリとお辞儀をする。
 フクロウはそれに応えるように彼女の真上を一周ぐるりと飛んだ。そして、バサリと大きな音を立てて佳乃の目の前に降り立つ。
『こんばんは、人間の娘よ』
「こ…こんばんは…」
 言葉が通じるのか。中性的な声なので、オスなのかメスなのかはわからない。
 内心でひどく驚きながら、とりあえず挨拶を返す。
『アリスから聞いた。貴女はNotaで働くことになったんだろう?近いうち、私の主人があの店を訪れる。その時は紹介させてくれ』
 綺麗な金の瞳に見つめられて、佳乃は興奮気味にうなずく。
「はい!楽しみにしています。わざわざありがとうございます」
 もう一度ぺこりと腰を折ると、フクロウがおかしそうに笑った。
『ふふっ、貴女は使い魔の私にも礼儀を払ってくれる。変わった人の子だ』
「そ、そうでしょうか…?」
 どう答えればいいかがわからず困惑していると、フクロウが首を傾げる。やはりフクロウだけあって首がよく曲がる。
『人の子…ましてや娘がこの時間に一人で出歩くのは少しばかり心配だ。私が貴女の家まで乗せて行こう。さぁ、私の背に乗るといい』
 そう言って、己の背を向けて身を低くして見せるフクロウに、佳乃は慌てて首を横に振った。
「そ、そんな!お客様にそのようなことをしてもらうわけにはいきません。私は大丈夫ですので!!」
 もちろん、あの高級羽毛布団以上の柔らかさ、もふもふさをもう一度、いや、昨日以上に堪能できるというのはとても魅力的なのだが、さすがに今の自分の立場上それはだめだろう。
 佳乃の答えに、フクロウはふふん、と胸を膨らませる。
『遠慮をすることはない。私は貴女を気に入っている。貴女さえ良ければ、友人になりたいと思っているのだ。友人としてならば、私の背に乗ってもいいだろう?貴女ともっと、話をしたいんだ』
 柔らかく心地よい声に、佳乃はうっと言葉を詰まらせる。流石にここまで言われて断るわけにはいかない。
「わかりました…そういうことなら」
 そう言って、そっとフクロウの背に乗る。触り心地は胸毛よりは硬いように感じられるが、やはり高級羽毛布団に劣らない柔らかさともふもふさを持っていた。
「はぁぁ…すごい癒し…」
 思わずしがみ付いてしまって、慌てて慌てて体を離す。
「ご、ごめんなさい!つい」
『構わないよ。しっかり捕まっていなければ、振り落とされてしまうからむしろ先ほどよりも強く捕まっていてくれ』
 そう言われて、若干の申し訳なさを感じながらも痛みを感じないように慎重になりながら、彼女はフクロウの羽毛を握りしめる。
 それを感じ取ったのか、フクロウは体制を整え、羽を大きく広げた。
 風がふわりと舞う。体を、重力に抗う感覚が襲った。
 徐々に地面が遠く離れていく。あっという間に地面が見えなくなって、そっと下を覗いてみると点々と灯る家の灯りが目に映った。
「わぁ…すごい、私、初めて空を飛びました」
 普通に考えてみれば、当たり前のことなのだろうけど。
 すっかりと姿を消して、けれど、わずかに面影を残す夕日の茜色の空を見ながら、そう呟く。
『そうか。喜んでもらえたならよかった。人間には、空高い場所が苦手な者もいると聞いたので、少し心配だったのだ』
 高所恐怖症の人のことだろう。このフクロウ、および他の使い魔たちは、果たしてどのように自分たち人間のことを知っているのだろうか。
 まだまだ、知らないことばかりだ。
「そういえば、お客様にはお名前はありますか?私は佳乃です」
『私はオウクリウム。金の瞳という意味だ。他からはリウムと呼ばれている。ヨシノも、そう呼んでくれて構わない』
「わぁ、素敵な名前ですね」
 リウムは、それに羽を大きく動かして応える。きっと喜んでいるのだろう。
『ヨシノ、貴女の家はどちらだ?』
 問われて、佳乃はそっと下を見下ろす。すこしだけ怖いと思ったが、それ以上に景色の良さとはじめての経験による気持ちの方が上回っていたので、落ち着いて自宅を探すことができた。
 少しの間見下ろしていると、やがて見慣れた家の外観がぼんやりと見つけられたので、それを指差す。
「あれです」
『ふむ。ならば近いな。少し、遠回りをしようか』
 楽しげな声に、佳乃は元気よく返事をした。
 返答を受け、リウムはそのままぐるりと方向転換する。すでに日が落ちたことにより、心地よい風が吹く。
 上を見上げてみると、ちょうどリウムの瞳のようなまん丸で、綺麗な金色に輝く満月が雲に隠れながらも顔を出す。
「わ、今日の月、リウムさんの目みたいですね!」
『あぁ、そうだね。今日は満月だ。私の主人や、アリスの主人の魔力が高まる日でもある。もちろん、使い魔である私たちもその恩恵を受けているけどね』
 佳乃からすれば摩訶不思議な世界の話に、胸を高鳴らせる。
「やっぱり、魔女や魔法使いたちにとっては満月は特別なんですね。よく御伽噺とか本の中ではそうですから」
『ふむ。人間界にも私たちのことは正しく伝わっているようだね。喜ばしいことだ』
 また少し、上に高く飛んでから。
『…ヨシノは、昔私たちのようなものたちと貴女たち人間が、共に支え合って暮らしていたことを知っている?』
「え?」
 それは初耳だ。
 彼女の反応に、リウムは目を細める。
『随分と前の話だよ。訳あって、決別してしまったけど。魔女や魔法使いたちの中には、人間との共存を願っているものもいるんだ』
「そうなんですか…」
『今、その話の中心にあるのがNotaなんだ』
 唐突にでた現在のバイト先の名前に、佳乃は目を瞬かせる。一体、どういうことだろう。
 その反応に、リウムは苦笑したようだった。
『きっと、アリスは面倒がって貴女に説明していないだろうから私から説明してしまうね。先月、サバト…魔女や魔法使いたちの会合のようなものが開かれて、今話した人間との共存を望む魔女たちがそれを実行するかどうかを議論にかけた。だが、当然それに反対するものもいる。そこで、魔女や魔法使いたちを統べる長が、アリスの主人である魔女、ノエルに命じたんだよ「人間界にてなんらかの関わりを持ち、共存しても構わないか否かを見定めろ」と』
 まだ会ったこともない自分のバイト先のオーナーの話に、ごくりと生唾を飲む。ノエルという名前なのか。
『ノエルは希代の大魔女だ。魔女としての実力も知力も申し分ない。彼女が判定役というのに、誰も異論を唱えなかった。なにより、ノエルはこの議論に対して、中立の立場だったからね』
 つまり、ノエルはどちらでもないということだ。もしかしたら人間があまり好きではないのかもしれない。
『そして、ノエルは店を作った。それがNota Western CUPPEDIAEだよ。ただ、彼女自身はなんの店でも良かったらしくて、アリスが申し出て洋菓子店にしたらしい。彼女は昔から、洋菓子を作るのが得意だったからね。それで、ノエルはズボラな性格だから、面倒がって、今はほとんどアリスが店を経営しているという状態なのさ』
 自分のバイト先のまだ会ったことのないオーナーの話を聞き、若干呆れてしまう佳乃である。だが、あのアリスの主人で、しかも現役?の魔女なのだ。美人であることは間違い無いだろう。
 などという少しズレたことを考えていると、返事がないのを不思議に思ったのか、リウムが軽く首を動かした。
『ヨシノ?』
「あ、ごめんなさい。ちょっとオーナー…ノエルさんてどんな魔女さんなのかな、って思って」
 それに、なるほどというようにリウムは目を細める。
『そうだな…彼女は、なんというか…一言で、ガサツな女性、とでも言おうか。面倒がり屋で、色んなことにズボラだ』
 結構な言われように、佳乃は困ったように笑う。
『だが、魔女としての腕は確かだし、性格も情に厚くて優しい。安心してあの店で働くといい。アリスも、君が働くことを喜んでいるようだしね』
 ふふふ、と安心させるように柔らかい声音で言ってくれたリウムに、佳乃は大きくうなずいた。


 無事に家まで送り届けてもらって、佳乃はようやく夕飯にありついた。
「あぁ…働いた後のご飯最高!」
 幸せを噛み締めるように呟いた娘に、紗和はおかしそうに笑った。
「随分と遅いから心配したけど、やりがいのある仕事をしてきたのね」
「うん!洋菓子店で働くのって、大変なんだねぇ。これからもがんばらなきゃ」
 しみじみとお茶碗を片手に言う佳乃に、紗和は肩を竦める。
「あら、大変なのは洋菓子店だけじゃないのよ。他のお仕事だってうんと大変なんだから。大変じゃないお仕事はお仕事とは言わないわ」
 なんとも説得力のある母の言葉に、彼女はなるほどと相槌を打つ。現に、父である佳彦は毎晩遅くまで働いて帰ってくるのだ。働く大人はかっこいい、という言葉を何度か耳にしたことはあったが、いざ自分が働く立場になるとその言葉の意味を痛感することができた。
「…お父さんに感謝しなきゃね」
「そうよ〜。今佳乃が食べているご飯だって、お父さんが一生懸命働いてくれるおかげで食べられてるんだからね!」
 紗和の言葉に、佳乃はご飯を丁寧に食べ進めた。


 佳乃を自宅まで送り届け、主人の元へ戻ってきたリウムは、フクロウ特有のよく回る首をくるくると動かす。いるはずの主人の姿が見えないのだ。
「こっちだよ、リウム」
 ふと、上から声が聞こえてきた。
 見上げると、青々としげる木の上にはお目当ての主人、アルバがいた。
 一つに緩くまとめた癖のある黒髪が、吹いた風になびいた。
 特徴のある赤い目を細めて、アルバは腕を上げ優しく笑う。
「おいで?」
 そんな主人の様子に少し呆れながら、リウムは体を縮める。通常のフクロウと同じ大きさになった。
 そのままバサバサと音を立てて、リウムはアルバの上げられた腕に乗る。
『アルバ様、アリスの作ったフィナンシェはどうでした?』
「うん、とっても美味しかったよ。彼女は器用だね。僕はああいうの、作れないから。ノエルが羨ましい」
 ふふ、と穏やかに笑って、月を見上げる。
「今日は満月だ。君の瞳と同じ色だね」
 そのまま満月に意識を集中させてしまったので、リウムは呆れたように胸を膨らませる。
『アルバ様』
 一拍置いて、彼はゆっくりとリウムを見る。
「なぁに?」
『Notaに人間の娘が働くことになったのは、昨日お伝えしましたよね?』
 それに、ゆっくりとうなずく。
『その娘、ヨシノというのですが、とてもいい娘です。興味があれば今度一度、店に行ってみればよろしいかと』
「へぇ〜。じゃあさっきまで、リウムはその子と一緒にいたの?」
 人間の匂いがついてる、というアルバに、今度はリウムがうなずいた。
「そっか。じゃあ、気が向いたらいくね。美味しいフィナンシェのお礼もしたいし」 
 のんびりという主人にうなずいて、リウムも月を見上げる。
 もしかしたら、彼女ならば人間との共存に批判的な魔女や魔法使いたちの気を変えられるかもしれないな、と先ほど別れた人間の少女を想った。


 佳乃は、お風呂あがりに台所に立っていた。
「よし、やるぞ!」
 やる、というのはクッキー作りだ。今日アリスの教わったコツやらなんやらを、復習しておくのだ。
 なにしろ、初恋の相手に渡すクッキーだ。あのスパルタ店長アリスにも追いついていかなければ。
 気合を入れ直したところで、紗和がひょこりと顔を出す。
「随分気合入ってるじゃない。なにするの?」
「クッキー作るの」
 娘の返答に、彼女は首を傾げる。
「なんでまた。今まであんまりお菓子作りなんてしたことなかったのに」
「色々あるの。お母さんはあっちいってて!」
 強引に台所から押し出され、紗和は心の中で思った。
(これは好きな人でもできたな)
 と。
 まさか母親にバレているとはつゆほども思わず、佳乃はアリスに教わったコツやらなんやらを思い出しながら、クッキー作りに励んだ。