佳乃の通う高校について、すぐに彼女へと有名な緑色のアプリを使って連絡を入れる。
 ちょうど休憩時間に入ったところだったのか、それにはすぐに既読がついた。
『今から向かいますね!』
 そのメッセージと共に送られてきた可愛らしい黒猫のスタンプに、彼はおかしそうに笑った。
 そのままアプリで知らせた場所にとどまっていると、数人の女子高生が話しかけてきた。
「あ、あの、お一人ですか?もしよかったら、私たちと一緒に…」
 それに、彼はにっこりと笑う。
「ごめんね、先約があるんだ」
「そうですか…」
 どこか有無を言わせない笑みに、彼女たちはそそくさとその場を離れていく。
 せめて一人で来るのではなく、裕也を連れてくればよかっただろうか。そうすれば、いいよってくる女子たちを彼に任せておけるのに。
 軽くため息をついて、彼は端末を確認する。新着のメッセージは来ていなかった。
 先ほどもらった出店マップを開いてみると、佳乃のクラスからこの場所まで、そこまで距離はなかった。きっとすぐに来れるだろう。
 彼女はちゃんと昨日自分が渡した髪留めをつけてきてくれただろうか。
 期待に胸を躍らせて、蒼はそっと笑った。


 走り去っていった佳乃の背中を見送って、ノエルがアルバに対して呆れたような視線を投げる。
「あなた、本当に恋愛ごとにおいてはプロね。私なんて、佳乃ちゃんに何があったかさっぱりわからなかったのに」
 それで、結局佳乃ちゃんに何があったの?と首をかしげるノエルに、彼は肩を竦める。
「僕は感受性が豊かなんだよ。ほら、ヨシノのクラスの喫茶店で、彼女と一緒にいた男の子がいただろ?その子、きっとヨシノのこと、好きだったんだと思う。ヨシノが好きな人と今日、文化祭を回るっていうのを知って、慌てて自分の気持ちを彼女に伝えたんだろうね」
 どこか遠くを見るアルバを、ノエルはじっと見つめる。
「アルバは、それについてどう思うの?」
 それに、ふっと彼は笑う。
「別にいいと思うよ。自分の気持ちをどうするかは、その人次第だしね。ただ、ヨシノはとても困惑したんでしょ。自分が彼に好かれてるなんて、思ってもみなかったろうし」
「それもそっか…人間の恋は、複雑で見ていてとても大変そう」
 そう呟くノエルに、アルバは薄く笑った。
「恋に、種族の違いなんてないよ。君も恋をしたらきっとわかるさ」
 なんだかその言葉に腹が立って、彼女はむっと眉間にシワを寄せる。
「なぁんか言い方が気に食わないなぁ。そういうアルバは誰かに恋してるの?」
 それに、彼は面食らったように目を瞬かせ、にっこり笑った。
「さぁ、それは内緒だよ」
「はぁ?」
 意味深な言葉に、彼女は心底疑問そうに声を上げた。
 

 せっかく友紀が髪型を可愛くしてくれたというのに、全力で走ってしまったため、少し崩れてしまった。
 それを申し訳なく思いながらも、佳乃は走る足を止めなかった。
 最後のメッセージが来てからだいぶ時間が経ってしまっていた。これ以上、待たせるわけには行かない。一瞬、もう帰ってしまったかとも思ったが、その考えはすぐに打ち消された。
 あの人が何も言わずに約束を破るような人なはずがない。
 ただ、それとはまた別の心配があるのだ。
 蒼は惚れた贔屓目なしに、顔立ちがとても整っている。今日は文化祭。在校生はもちろん、校外からもたくさんに人々が来ている。それも、相当浮かれているはずだ。
 彼のあの顔ならば、立っているだけでも人を惹きつけるだろう。
「急げ、急げ…!」
 いくら気持ちがはやっていたとしても、急に足が早くなるわけではない。
 わかってはいるのだが、どうしても気持ちが焦っていく。
 ようやく蒼がいるはずの場所にたどり着いて、佳乃は肩で息をする。
 蒼はいなかった。
 流石に帰ってしまったか。人混みは多いが、見つけられるはずだ。
 必死に視線を彷徨わせる。いくら探しても、彼はいなかった。
「やっぱり帰っちゃったよね…」
 項垂れて、佳乃はその場で座り込む。
「私、何やってるんだろう…」
 悠斗のようないい人を自分の勝手で振ってしまって、自分から誘っておいて蒼のことを放って泣いて。アルバやノエルにも迷惑をかけてしまった。
 うまく行かない時はとことん行かない。もう、彼に気持ちを伝えないほうがいいのだろうか。
 立ち上がり、その場を立ち去ろうとしたところで、誰かに手を掴まれた。
 誰だろう。こんな状況の女の子の手を掴むなど、なんで野暮な相手だ。
 なんだかだんだん腹が立ってきて、文句の一つでも言ってやろうと勢いよく振り返る。もうこの際、完全なる八つ当たりでもしてやろう。
「なん…っ」
 なんですか?と言いかけて、自分の手を掴む相手の姿を認めて彼女は息を呑む。
「三鷹さん、ごめん…っ」
 先ほどの自分と同じように肩で息をする蒼に、彼女は目を丸くする。帰っていなかった。
「君を待ってる間に、小さい男の子が迷子になっちゃったらしくて、目の前で泣き始めたんだ。そのままずっと見ていることができなくて、すぐに戻れると思ってその子を迷子センターに送り届けたんだけど、その子、お母さんが来るまでずっと僕のこと話してくれなかったんだ。言い訳に聞こえるかもしれないけど、信じて欲しい」
 必死に言い募る蒼に、佳乃はそれまで堪えていた涙を流す。彼は、突然泣き始めてしまった彼女に困ったように眉を寄せた。
(さっき全部流したと思ってたのに、全然止まらない…)
 悲しいわけでも、怒っているわけでもない。ただ、自分が恥ずかしいのだ。彼を最後まで信じてあげられなかった。彼は、理由もなく約束を破るような人物でないことを知っていたのに。
「…謝るのは私の方です。もともと、私が遅れちゃったんですから。それに、倉木さんが私に怒って帰っちゃった、なんて、失礼なことを考えてしまったんです。あなたは、そんなことしないとわかっていたのに…!」
 涙を止めようと溢れ出るそれを拭っていく佳乃に、彼は柔らかく笑った。
「そんなの、気にしないよ。何も連絡も入れずにこの場所を離れたのは僕に非があるし。遅れたのも、何か理由があったんでしょ?」
 それこそ言い訳だ。悠斗のことは、完全に自分の事情なのだ。だが、それを蒼に伝えたとしても彼を困らせるだけだ。
「ありがとう、ございます…っ」
 無理やりにも笑って、佳乃は礼を言う。彼は、穏やかな顔をしてうなずいた。


 流石にあのままあの場でとどまっていたは通行人の邪魔になってしまうので、佳乃と蒼はその場から一番近い空き教室へと移動した。
 外の騒々しい空気とは一変してしんと静まり返る教室に、佳乃はまるで違う世界に来てしまったように気持ちになる。
 すっかり真っ赤になってしまった瞳と鼻を鏡で確認して、佳乃はショックを受けたように肩を落とした。
 もともとあまり可愛いとは言えない顔が、さらに大変なものへとなってしまった。果たしてこの状態で告白なんてして、いいのだろうか。
 一瞬迷ったが、今日この時を逃してしまったら、もう二度とこんな機会来ないような気がしてならない。
 マカロンを手に、決意を再度固めて、佳乃は窓から外を眺める蒼をじっと見つめる。
「倉木さん」
 名前を呼ばれて、振り返る。
「これ、昨日言ってた私の作ったお菓子です。マカロンなんですけど、食べれますか?」
 それに、彼はぱっと表情を明るくさせた。
「ありがとう。綺麗にできてるね」
 丁寧にラッピングされたそれを受け取り、彼は嬉しそうに目を細める。
 佳乃は、早鐘を打つ心臓にもしかしたら自分はここで死んでしまうのかもしれないなどと、少し物騒なことを考えていた。
 手渡してから固まる佳乃に、彼は不思議そうにその顔を覗き込む。
「三鷹さん?」
 その距離に、彼女はさっと距離を取る。それに、蒼は少し傷ついたような顔をした。
「あ、ごめんなさい、つい…」
「ううん、大丈夫」
 申し訳なさそうに謝る佳乃に、彼は苦笑する。
 佳乃は、そんな蒼の目をじっと見つめる。
「あの、倉木さん」
 その声音がとても真剣なものだったので、蒼はなんとなくその言葉の続きを察して、彼女の瞳を見つめ返す。
「私、今まで恋っていうのがなんなのか、わからなかったんです」
「うん」
 ぽつぽつと話し始める佳乃の話に、彼はうなずく。
「友達への『好き』と、恋人や好きな人への『好き』の違いが、わからなかったんです。でも…」
 真っ直ぐに見つめてくる佳乃に、蒼は金縛りにあったように晒したくても、目を晒せなくなる。
「あの日、倉木さんに助けられて、あなたの優しさや意地悪な面を知って。もっと、倉木さんのことを知りたいって思ったんです」
 一拍置いて、彼女はもともと赤かった顔をさらに深く染める。
「私、倉木さんが好きです。迷惑かもしれません。でも、せめて気持ちを伝えたかったんです」
 ゆらゆらと揺れる瞳の中に、純粋な恋情が浮かぶのを、蒼は確かに見る。
 彼は、佳乃の告白には答えずに、とても穏やかな表情で口を開く。
「…僕はね、三鷹さん。本当は女の人が苦手…というか、もう、嫌いだったんだよね。ほら、自分で言うのもなんだけど、僕は顔がいいでしょ?それを目当てに言い寄ってくる人が、今までにたくさんいたんだ。その中の何人かと付き合ってみたりもしたけど、全員が僕自身のことを見ようとしてくれなかった」
 悲しそうな瞳に、佳乃はぎゅっと胸を締め付けられる感覚がして、胸の前で手を合わせた。
「実はあの日、最初は君が目の前で倒れた時、用事もあったし、助けないで素通りしようと思ったんだ。どうせ助けたら、君はきっと僕のことを好きになると思ったから」
 ひどいよね、と自嘲する蒼に、彼女はゆるく首を振る。そんなことはない。もしも自分が彼と同じ立場であれば、きっと同じように考えるだろう。
「でもね、できなかったんだ。体が勝手に動いてた。そういう、中途半端な優しさが身を滅ぼすって、ちゃんと自覚していたはずなのに」
 苦しそうに顔を歪める蒼の話を、佳乃はじっと聞く。
「…でも、今思うとそれは運命だったのかもしれない。実はね、君が僕のことを好きだというのは、最初から知っていたんだ」
 一変して穏やかに笑って告げられた事実に、彼女は驚いたように目を丸くする。そんな佳乃に、彼はおかしそうに笑った。
「最初はまたか、ってうんざりしてたんだけどね。そのあと、お礼を受け取るって約束しちゃったし、仕方なく君からクッキーを受け取った日。あんまりにも君がわかりやすい態度をとるものだから、面白くて、ずっとからかっていたいなって、思ったんだ」
 にこにこと楽しげに笑う蒼に、佳乃は複雑そうな顔をする。
「君はころころと表情が変わって、面白い感性と表現を持ってる。今まで僕に好意を寄せてきていた女の人とは全く違う君に、興味が湧いた」
 一度言葉を切って、彼は真っ直ぐに佳乃を見つめる。
「君は、今までの人とは違って、僕自身のことをちゃんと見てくれた。僕の少し意地の悪いところとかを見ても、嫌がったりしなかった。三鷹さんみたいな女の子に、初めて会ったんだ」
 柔らかく微笑む彼の亜麻色の髪が、夕日に反射してきらきらと輝く。
「僕も、君が好きだよ。初恋だ。これからよろしくね、三鷹さん」
 じわりと、再び目頭が熱くなる。今日は、ずっと泣いている気がする。
「本当に、私でいいんですか…?」
「うん」
「私、誰かとおつき合いとかしたことないので、迷惑をかける自信しかありませんよ?」
「大丈夫。僕が頑張るから」
 静かに涙を流す佳乃を、蒼はそっと抱きしめる。
「よろしく、お願いします…っ」
「うん、よろしくね」
 とても幸せそうに笑って、二人は見つめ合う。
 やっと自分の気持ちを伝えることができた。たくさんの遠回りをして、たくさんの人に支えられて、ようやくここまで来れた。
 いろんなことがあった文化祭が終わる放送が流れる。窓の外を見ると、続々と来校者が門の外へと退出し始めていた。


 存分に働いて、アリスは調理部の生徒たちに神として崇められていた。
「アリス様、今日は本当にありがとうございました!!」
 数人の調理部員たちが頭を下げてくるのに苦笑して、アリスは借り物のエプロンをその子たちに返してから、教室を出た。
「さて、ノエルたちはどこにいるのでしょうね。佳乃も、無事に自分の気持ちを伝えられたならいいのだけど」
 一人でそんなことを呟きながら、すでに人もまばらになった廊下を歩いていく。今日は、なかなか貴重な体験をして、楽しい一日になった。
 綺麗な茜色の空に、彼女は清々しい気分になって伸びをする。
「さぁ、ノエルたちを探しましょうか」
 そう言って、彼女は校内を歩いていった。