土曜日。Notaを訪れる途中で、佳乃は座り込む老人に出会い、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?どこかお怪我を?」
そっと体に手を添え、血相を抱えて顔を覗き込んでくる佳乃に、老人はゆっくりと手をあげる。
「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」
立ち上がろうとする老人の手と背中を支え、ゆっくりと力を入れていく。
しっかりと立ち上がったのを確認して、地面に転がっていた杖を拾い、それを手渡した。
「ありがとう、お嬢さんは親切じゃな」
「いいえ、とんでもない。困っている人には優しくするのは当たり前です」
にっこりと笑って言う佳乃に、老人は好々爺と笑う。
「いいご両親をお持ちのようじゃな。よきかなよきかな」
うんうんと長い髭を撫で付ける老人に、彼女ははにかみ、首をかしげる。
「お爺さん、どこかへお出かけですか?」
それに、彼はうなずく。
「ワシはコーヒーが好きでな。最近ここらでコーヒーの美味いと評判の店へ行こうとしているんだが、道に迷ってしまってのぅ。疲れて少し休んでいたところじゃ」
その話に、もしかしてと佳乃は思い、その店の場所を伝える。それにうなずいたので、佳乃はぽんと手のひらを合わせた。
「そこなら私、最近行ったばかりなんです。よろしければ案内しましょうか?」
柔らかく笑う佳乃に、老人は申し訳なさそうにしながらもうなずいた。
「すまんのぅ。そうしてくれると助かるわい」
「はい!任せてください。あ、でも少しお待ちいただけますか?」
それにうなずいたのを認めて、佳乃は少し離れた場所でNotaへと電話をかける。
アリスに少し遅れる旨を伝えると、快く承諾してくれたので礼を言って電話を切った。
「お待たせしました。行きましょう」
そっと手を差し出す佳乃に、老人は無言でうなずいた。
佳乃から電話があった後、アリスはそれをちょうど遊びに来ていたノエルに伝えると彼女は難しい顔をした。
「きっと大長老様ね。佳乃ちゃんは今、試されているんだ」
「えぇ、私たちはここであの子の帰りを待っていましょう」
顔を見合わせうなずき、二人は佳乃の訪問を待ち望んだ。
「お嬢さん、すまんがさっき座り込んだところで財布を落としてしまったようじゃ。取りに行ってくれないかのぅ」
不意に鞄の中身を探って、申し訳なさそうに言う老人に、佳乃は躊躇いもせずにうなずいた。
「大丈夫ですよ!少し待っていてくださいね」
笑顔で返事をして来た道を引き返す佳乃の背中を見送って、大長老は若干の罪悪感を覚える。まさか、ここまで親切な人間の娘だとは思っていなかったのだ。
ここに来るまでも結構無茶な要望を言って来たりしたというのに、彼女は嫌な顔一つせずに全ての要望に答えてくれた。自分は魔法界では最も高い地位についているが、ここまでの好待遇はなかなかなかった。そもそも、彼らが自分に対してそのように良く対応してくれるのは少なからずの下心がある者たちがほとんどだ。佳乃のように、何の見返りも求めずにただ純粋に何かをしてくれるという者は、一部を除いてはいなかった。
ちなみに、その一部というのはノエルとアルバである。あの二人の場合、才能がある分欲しいものなどがあったとしても、他力本願ではなく自力でどうにかしてしまうのだ。というか、まず他人をあまり頼ろうとしない。
「若者は末恐ろしいのぅ」
照りつける太陽に、彼は眩しそうに目を細める。9月に入ったとはいえ、まだ日差しは強いままだ。
果たして、本当に再び人間と共存できるような生活がくるのだろうか。
Notaの評判は魔法界にも及んでいる。多くの魔女や魔法使い、その使い魔たち。他にも様々な種族の者たちが、Notaに訪れ甘い菓子に癒されている。また、少なからず人間との交流も生まれているので、一石二鳥というわけだ。
「ノエルも考えたな」
あの魔女は多少性格に難があるものの、とても腕が立ち頭の回転も早い。本気で争えば、どちらが勝つわからないくらいくらいには、彼女の腕を認めている。
物思いにふけっていると、そこに小さな女の子がやってきた。
「おじーちゃん!」
元気に声をかけてきた少女に、大長老はなんじゃと答える。
「お外は暑いから、このお水あげる!ねっちゅうしょうになっちゃうんだよ!」
自信満々に言ってペットボトルに入った水を差し出してくる少女に、彼は好々爺と笑う。
「ありがとう。お嬢ちゃんは優しいのぅ」
「えへへ〜」
嬉しそうに笑ってから、少女は元気に手を振って離れて行く。そういえば、昔ノエルがまだ少女だった頃に、一度だけ「お願い」をされたことがあった。果たして彼女は覚えているだろうか。
今やすっかり生意気で、あまり褒められた性格ではなくなってしまったが。
この前呼び出した時のことを思い出して、彼は苦笑する。ずいぶんと嫌われてしまったようだ。昔はよく後ろをついて回ってくれていたのに。
「おじいさん、お財布ってこれですか?」
昔の思い出に浸っていると、佳乃が財布を持って戻ってきた。
うっすらと汗をかいているのを見ると、走ってきたのだろう。
「おぉ、それじゃ。ありがとう」
手渡されたそれを受け取って、大長老はそれをそっと撫でる。ちりんと、透明の鈴が鳴った。
「それ、綺麗ですよね」
「あぁ、そうだろう」
これは昔、ノエルとアルバがくれたものだ。魔法界にある氷の森で採れた永久氷石という素材を使って、二人で作ったものらしい。
もらった時、驚いた気持ちもあったが、それ以上に嬉しい気持ちが勝っていたのをよく覚えている。
「昔、孫のような存在の子たちがワシのために作ってくれてなぁ。嬉しかった」
目を細める大長老に、佳乃はにっこりと微笑む。
「大切な人たちなんですね」
「ふふ、そうじゃな。手のかかる子ほど、可愛く思えるとはよく言ったものじゃ。さてと、では行くとするか」
ゆっくりと歩き始める大長老に、佳乃はうなずいた。
ようやくコーヒー店についた二人は、レジまでに続く長い列に目を丸くした。
「この前来たときは結構空いてたのに…」
今思えば、あの時は平日の、しかも午前中という時間帯だったから空いていたのだ。人気の喫茶店がいつもあんなに空いていたら、逆に驚きだろう。
この列を老人に並ばせるわけにはいかないので、佳乃は空いている席がないかと周りを見渡す。
と、ちょうどコーヒーを飲み終えたらしき女性が席を立った。
「おじいさん、あそこ席空いたので待っていてください。私が買っておきます。冷たいコーヒーか、温かいコーヒーどっちがいいですか?」
「悪いのぅ。冷たいコーヒーが飲みたい」
「わかりました」
うなずいて、佳乃は早速列に並び始める。大長老は、言われた通りに空いた席に座った。
列も短くなってきて、あと少しで買えるとなったところで、レジの脇に様々な種類のコーヒー豆が売っていた。値段も手頃なものとなっている。
(そうだ。アリスさんとノエルさんに、今日のお詫びとしてここのコーヒー豆を買って帰ろう)
普段からとてもお世話になっているので、何かプレゼントしたいと思っていたのだ。ノエルはコーヒーが好きだし、アリスは好きかどうかはさておき、お菓子に使えるので無駄にはならないだろう。
そう思って、アイスコーヒーとともに、いくつかのコーヒー豆も購入した。
それにしても、悠斗とともにこの店を訪れていて良かった。もしもそれがなかったら、この店の存在自体を知らずに、あの老人を案内することなどできなかっただろう。やはり、昔祖母の言っていた言葉は当たっている。
無事に購入し終え、彼女は老人の座る席へとアイスコーヒーを運んだ。
「おぉ、ありがとう」
手渡すと礼を言って、彼はゆっくりとした動作で、コーヒーを一口飲んだ。
佳乃も、席に座って自分の分のコーヒーを飲む。うん、やっぱり美味しい。
「…ほぅ、噂に違わぬ美味さよの。良い香りじゃ」
ほっと息をついた大長老に、佳乃はにこにこと笑う。
「本当に美味しいですよね。私、コーヒー豆が売っていたので買っちゃいました。バイト先の店長さんとオーナーに、お土産として」
「ほほぅ。それは喜ぶだろうな」
うんうんとうなずく大長老に、彼女は嬉しそうに笑う。
「そうだと嬉しいです。いつもとてもお世話になったいるので、ずっと何かお返しをしたいと考えていたんですよ」
「そうか…だが、お嬢さんのようないい娘が働いてくれているのなら、その者たちはそれで十分なのではないかな」
ノエルは、佳乃のことをあまりよく思わないような発言をした自分や周りの長老たちに、躊躇いもなく杖を向けようとした。彼女は、それほどまでには佳乃のことを大切にしているということだ。
だが、佳乃は緩く首を振る。
「それは確かにそうかもしれません。他の人たちはとても優しい人たちです。ですが、それじゃ私の気が済まないんです。そもそも、今のお店でバイトすることになったきっかけが、助けてもらったお礼なんです」
力説し始めた佳乃に、大長老は面白く思ってその話に耳をかたむける。自分の知らないノエルやアリス、アルバたちのことを聞けるのなら嬉しいことだ。
「ってことがあったんです。もう、みなさん優しすぎますよね?」
憤然と言い切り、疲れたようにコーヒーを一口飲んだ佳乃に、大長老はおかしそうにふぉっふぉっと笑い声を上げた。
「そうじゃのぅ。確かに優しい者たちだ。そうか、ノエルやアルバは他人に優しく育っているか」
うんうんと嬉しそうにうなずく大長老に、佳乃はうなずきかけてん?と首をかしげる。
「私、名前出して話してましたか…?」
「…お嬢さん、今からバイト先まで案内してくれないかのぅ。これがワシの、最後のわがままじゃ」
質問には答えずに、目を細めて言う大長老に、彼女は不思議そうに首をかしげながらもうなずいた。
Notaに着き、ドアを開けるといつもの軽快な音が鳴り響く。
「いらっしゃいませ…あら、佳乃」
「こんにちは。ごめんなさい、遅れちゃって」
申し訳なさそうに合わせた手のひらを顔の前に持ってくる佳乃に、アリスは緩く首を振る。
「大丈夫よ」
そして、次にノエルと見つめ合う大長老へと目を向け、以前アルバにしたものよりも深く、丁寧なものをした。
「お久しぶりです、大長老様。人間界への長旅、お疲れ様でございます」
「え」
たおやかに腰を折るアリスに、大長老は重々しくうなずく。ノエルは軽く嘆息し、立ち上がった。
そして、同じようにして腰を折る。
「この場所であなたと会えたことを、光栄に思いますわ」
「ふむ。そうは言うがノエル、表情があっておらんぞ」
「まぁ、それは気のせいですよ」
わざとらしく目線を逸らすノエルにため息をついて、頭の上に疑問符を大量に浮かべている様子の佳乃に、大長老は笑いかけた。杖を一度、カツンと音を立てて地面に打ち付けると、一瞬で魔法使いらしい黒い大きな布を纏う。
「改めて、ワシが魔法界の大長老、アダム。今日一日、そなたを試させてもらった」
言われた言葉の意味が理解できず、頭の中でゆっくりと整理して行く。
今日助けた老人が、大長老。つまりは、ノエルたちが住む世界の、最も偉い魔法使いということだ。
「え、えぇ…!?」
これまでの人生の中で一番驚いたことかも知れない。
今の今まで、なんの疑いもせず普通の人間の老人にするような態度をとってしまった。
佳乃は、慌ててアリスと同じような礼を取ろうとスカートを裾を持ち上げる。いざという時に、以前空いた時間にアリスに教わっておいてよかった。
「三鷹佳乃といいます。気づかず失礼な態度をとってしまっていたら大変申し訳ありません!」
青ざめる佳乃に、彼は好々爺と笑った。
「大丈夫。ヨシノはとてもよくやってくれた。ワシは、そなたのような人間の娘なら、この店で働くことを許可できると思ったよ」
その言葉に、彼女はぱっと表情を明るくさせる。
「本当ですか!?私、まだここで働いて、いいんですか??」
「あぁ。むしろ、ワシの方から頼みたいくらいだ。これかも、こちらとあちらのつながりを、保つ架け橋としてこの店に働き続けて欲しい。ノエルを頼むぞ、ヨシノ」
「ありがとうございます!」
アリスとノエルは、そっと目を合わせ安心したように笑う。佳乃を信じていなかったわけでは決してない。けれど、万が一もある。必要な時は、アルバやリウムも巻き込んで、全力で抵抗するつもりだったのだが、その必要はなさそうだ。
(よかったわ、これで大方問題が解決したわね)
(うん。これでとりあえず一安心かな。本当、大長老様にはいつもハラハラさせられるんだから)
魔女と使い魔という特別な関係にしか使えない特有のテレパシーを使って、二人は会話する。
と、佳乃が思い出したように自分のカバンの中をあさり始める。
「アリスさんたちにお土産があるんです。これ」
そう言って手渡されたのは、コーヒー豆だった。アダムが自分の髭を撫でつけながら、うなずく。
「そのコーヒーは実に美味だった。そなたたちもきっと気にいるだろう」
その言葉に、二人は嬉しそうに笑う。
「それは楽しみね。早速いただいてみましょう。ちょうどお昼休憩にしようとしていたところよ」
「あ、じゃあ私も手伝いますね!着替えてきます」
慌てて着替え部屋へと入って行った佳乃を見送って、ノエルはアダムに首をかしげる。
「大長老様も、よろしければもう少しゆっくりしていけばどうですか?すぐには戻れないでしょう」
彼女の提案に、彼は少し驚いたように目を丸める。
「そなたがそのように言うとは珍しい。では、遠慮なく邪魔させてもらおうか」
ゆっくりとイートインスペースの椅子に座ったアダムに、ノエルはため息をついた。先はどの言葉はどういう意味だろうか。さすがにさっさと帰れなどと冷たい言葉を吐くつもりはない。
少し複雑な気持ちになって、ノエルは椅子の背もたれに頬杖をつき、佳乃とアリスが戻ってくるのを待つことにした。
「大丈夫ですか!?どこかお怪我を?」
そっと体に手を添え、血相を抱えて顔を覗き込んでくる佳乃に、老人はゆっくりと手をあげる。
「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」
立ち上がろうとする老人の手と背中を支え、ゆっくりと力を入れていく。
しっかりと立ち上がったのを確認して、地面に転がっていた杖を拾い、それを手渡した。
「ありがとう、お嬢さんは親切じゃな」
「いいえ、とんでもない。困っている人には優しくするのは当たり前です」
にっこりと笑って言う佳乃に、老人は好々爺と笑う。
「いいご両親をお持ちのようじゃな。よきかなよきかな」
うんうんと長い髭を撫で付ける老人に、彼女ははにかみ、首をかしげる。
「お爺さん、どこかへお出かけですか?」
それに、彼はうなずく。
「ワシはコーヒーが好きでな。最近ここらでコーヒーの美味いと評判の店へ行こうとしているんだが、道に迷ってしまってのぅ。疲れて少し休んでいたところじゃ」
その話に、もしかしてと佳乃は思い、その店の場所を伝える。それにうなずいたので、佳乃はぽんと手のひらを合わせた。
「そこなら私、最近行ったばかりなんです。よろしければ案内しましょうか?」
柔らかく笑う佳乃に、老人は申し訳なさそうにしながらもうなずいた。
「すまんのぅ。そうしてくれると助かるわい」
「はい!任せてください。あ、でも少しお待ちいただけますか?」
それにうなずいたのを認めて、佳乃は少し離れた場所でNotaへと電話をかける。
アリスに少し遅れる旨を伝えると、快く承諾してくれたので礼を言って電話を切った。
「お待たせしました。行きましょう」
そっと手を差し出す佳乃に、老人は無言でうなずいた。
佳乃から電話があった後、アリスはそれをちょうど遊びに来ていたノエルに伝えると彼女は難しい顔をした。
「きっと大長老様ね。佳乃ちゃんは今、試されているんだ」
「えぇ、私たちはここであの子の帰りを待っていましょう」
顔を見合わせうなずき、二人は佳乃の訪問を待ち望んだ。
「お嬢さん、すまんがさっき座り込んだところで財布を落としてしまったようじゃ。取りに行ってくれないかのぅ」
不意に鞄の中身を探って、申し訳なさそうに言う老人に、佳乃は躊躇いもせずにうなずいた。
「大丈夫ですよ!少し待っていてくださいね」
笑顔で返事をして来た道を引き返す佳乃の背中を見送って、大長老は若干の罪悪感を覚える。まさか、ここまで親切な人間の娘だとは思っていなかったのだ。
ここに来るまでも結構無茶な要望を言って来たりしたというのに、彼女は嫌な顔一つせずに全ての要望に答えてくれた。自分は魔法界では最も高い地位についているが、ここまでの好待遇はなかなかなかった。そもそも、彼らが自分に対してそのように良く対応してくれるのは少なからずの下心がある者たちがほとんどだ。佳乃のように、何の見返りも求めずにただ純粋に何かをしてくれるという者は、一部を除いてはいなかった。
ちなみに、その一部というのはノエルとアルバである。あの二人の場合、才能がある分欲しいものなどがあったとしても、他力本願ではなく自力でどうにかしてしまうのだ。というか、まず他人をあまり頼ろうとしない。
「若者は末恐ろしいのぅ」
照りつける太陽に、彼は眩しそうに目を細める。9月に入ったとはいえ、まだ日差しは強いままだ。
果たして、本当に再び人間と共存できるような生活がくるのだろうか。
Notaの評判は魔法界にも及んでいる。多くの魔女や魔法使い、その使い魔たち。他にも様々な種族の者たちが、Notaに訪れ甘い菓子に癒されている。また、少なからず人間との交流も生まれているので、一石二鳥というわけだ。
「ノエルも考えたな」
あの魔女は多少性格に難があるものの、とても腕が立ち頭の回転も早い。本気で争えば、どちらが勝つわからないくらいくらいには、彼女の腕を認めている。
物思いにふけっていると、そこに小さな女の子がやってきた。
「おじーちゃん!」
元気に声をかけてきた少女に、大長老はなんじゃと答える。
「お外は暑いから、このお水あげる!ねっちゅうしょうになっちゃうんだよ!」
自信満々に言ってペットボトルに入った水を差し出してくる少女に、彼は好々爺と笑う。
「ありがとう。お嬢ちゃんは優しいのぅ」
「えへへ〜」
嬉しそうに笑ってから、少女は元気に手を振って離れて行く。そういえば、昔ノエルがまだ少女だった頃に、一度だけ「お願い」をされたことがあった。果たして彼女は覚えているだろうか。
今やすっかり生意気で、あまり褒められた性格ではなくなってしまったが。
この前呼び出した時のことを思い出して、彼は苦笑する。ずいぶんと嫌われてしまったようだ。昔はよく後ろをついて回ってくれていたのに。
「おじいさん、お財布ってこれですか?」
昔の思い出に浸っていると、佳乃が財布を持って戻ってきた。
うっすらと汗をかいているのを見ると、走ってきたのだろう。
「おぉ、それじゃ。ありがとう」
手渡されたそれを受け取って、大長老はそれをそっと撫でる。ちりんと、透明の鈴が鳴った。
「それ、綺麗ですよね」
「あぁ、そうだろう」
これは昔、ノエルとアルバがくれたものだ。魔法界にある氷の森で採れた永久氷石という素材を使って、二人で作ったものらしい。
もらった時、驚いた気持ちもあったが、それ以上に嬉しい気持ちが勝っていたのをよく覚えている。
「昔、孫のような存在の子たちがワシのために作ってくれてなぁ。嬉しかった」
目を細める大長老に、佳乃はにっこりと微笑む。
「大切な人たちなんですね」
「ふふ、そうじゃな。手のかかる子ほど、可愛く思えるとはよく言ったものじゃ。さてと、では行くとするか」
ゆっくりと歩き始める大長老に、佳乃はうなずいた。
ようやくコーヒー店についた二人は、レジまでに続く長い列に目を丸くした。
「この前来たときは結構空いてたのに…」
今思えば、あの時は平日の、しかも午前中という時間帯だったから空いていたのだ。人気の喫茶店がいつもあんなに空いていたら、逆に驚きだろう。
この列を老人に並ばせるわけにはいかないので、佳乃は空いている席がないかと周りを見渡す。
と、ちょうどコーヒーを飲み終えたらしき女性が席を立った。
「おじいさん、あそこ席空いたので待っていてください。私が買っておきます。冷たいコーヒーか、温かいコーヒーどっちがいいですか?」
「悪いのぅ。冷たいコーヒーが飲みたい」
「わかりました」
うなずいて、佳乃は早速列に並び始める。大長老は、言われた通りに空いた席に座った。
列も短くなってきて、あと少しで買えるとなったところで、レジの脇に様々な種類のコーヒー豆が売っていた。値段も手頃なものとなっている。
(そうだ。アリスさんとノエルさんに、今日のお詫びとしてここのコーヒー豆を買って帰ろう)
普段からとてもお世話になっているので、何かプレゼントしたいと思っていたのだ。ノエルはコーヒーが好きだし、アリスは好きかどうかはさておき、お菓子に使えるので無駄にはならないだろう。
そう思って、アイスコーヒーとともに、いくつかのコーヒー豆も購入した。
それにしても、悠斗とともにこの店を訪れていて良かった。もしもそれがなかったら、この店の存在自体を知らずに、あの老人を案内することなどできなかっただろう。やはり、昔祖母の言っていた言葉は当たっている。
無事に購入し終え、彼女は老人の座る席へとアイスコーヒーを運んだ。
「おぉ、ありがとう」
手渡すと礼を言って、彼はゆっくりとした動作で、コーヒーを一口飲んだ。
佳乃も、席に座って自分の分のコーヒーを飲む。うん、やっぱり美味しい。
「…ほぅ、噂に違わぬ美味さよの。良い香りじゃ」
ほっと息をついた大長老に、佳乃はにこにこと笑う。
「本当に美味しいですよね。私、コーヒー豆が売っていたので買っちゃいました。バイト先の店長さんとオーナーに、お土産として」
「ほほぅ。それは喜ぶだろうな」
うんうんとうなずく大長老に、彼女は嬉しそうに笑う。
「そうだと嬉しいです。いつもとてもお世話になったいるので、ずっと何かお返しをしたいと考えていたんですよ」
「そうか…だが、お嬢さんのようないい娘が働いてくれているのなら、その者たちはそれで十分なのではないかな」
ノエルは、佳乃のことをあまりよく思わないような発言をした自分や周りの長老たちに、躊躇いもなく杖を向けようとした。彼女は、それほどまでには佳乃のことを大切にしているということだ。
だが、佳乃は緩く首を振る。
「それは確かにそうかもしれません。他の人たちはとても優しい人たちです。ですが、それじゃ私の気が済まないんです。そもそも、今のお店でバイトすることになったきっかけが、助けてもらったお礼なんです」
力説し始めた佳乃に、大長老は面白く思ってその話に耳をかたむける。自分の知らないノエルやアリス、アルバたちのことを聞けるのなら嬉しいことだ。
「ってことがあったんです。もう、みなさん優しすぎますよね?」
憤然と言い切り、疲れたようにコーヒーを一口飲んだ佳乃に、大長老はおかしそうにふぉっふぉっと笑い声を上げた。
「そうじゃのぅ。確かに優しい者たちだ。そうか、ノエルやアルバは他人に優しく育っているか」
うんうんと嬉しそうにうなずく大長老に、佳乃はうなずきかけてん?と首をかしげる。
「私、名前出して話してましたか…?」
「…お嬢さん、今からバイト先まで案内してくれないかのぅ。これがワシの、最後のわがままじゃ」
質問には答えずに、目を細めて言う大長老に、彼女は不思議そうに首をかしげながらもうなずいた。
Notaに着き、ドアを開けるといつもの軽快な音が鳴り響く。
「いらっしゃいませ…あら、佳乃」
「こんにちは。ごめんなさい、遅れちゃって」
申し訳なさそうに合わせた手のひらを顔の前に持ってくる佳乃に、アリスは緩く首を振る。
「大丈夫よ」
そして、次にノエルと見つめ合う大長老へと目を向け、以前アルバにしたものよりも深く、丁寧なものをした。
「お久しぶりです、大長老様。人間界への長旅、お疲れ様でございます」
「え」
たおやかに腰を折るアリスに、大長老は重々しくうなずく。ノエルは軽く嘆息し、立ち上がった。
そして、同じようにして腰を折る。
「この場所であなたと会えたことを、光栄に思いますわ」
「ふむ。そうは言うがノエル、表情があっておらんぞ」
「まぁ、それは気のせいですよ」
わざとらしく目線を逸らすノエルにため息をついて、頭の上に疑問符を大量に浮かべている様子の佳乃に、大長老は笑いかけた。杖を一度、カツンと音を立てて地面に打ち付けると、一瞬で魔法使いらしい黒い大きな布を纏う。
「改めて、ワシが魔法界の大長老、アダム。今日一日、そなたを試させてもらった」
言われた言葉の意味が理解できず、頭の中でゆっくりと整理して行く。
今日助けた老人が、大長老。つまりは、ノエルたちが住む世界の、最も偉い魔法使いということだ。
「え、えぇ…!?」
これまでの人生の中で一番驚いたことかも知れない。
今の今まで、なんの疑いもせず普通の人間の老人にするような態度をとってしまった。
佳乃は、慌ててアリスと同じような礼を取ろうとスカートを裾を持ち上げる。いざという時に、以前空いた時間にアリスに教わっておいてよかった。
「三鷹佳乃といいます。気づかず失礼な態度をとってしまっていたら大変申し訳ありません!」
青ざめる佳乃に、彼は好々爺と笑った。
「大丈夫。ヨシノはとてもよくやってくれた。ワシは、そなたのような人間の娘なら、この店で働くことを許可できると思ったよ」
その言葉に、彼女はぱっと表情を明るくさせる。
「本当ですか!?私、まだここで働いて、いいんですか??」
「あぁ。むしろ、ワシの方から頼みたいくらいだ。これかも、こちらとあちらのつながりを、保つ架け橋としてこの店に働き続けて欲しい。ノエルを頼むぞ、ヨシノ」
「ありがとうございます!」
アリスとノエルは、そっと目を合わせ安心したように笑う。佳乃を信じていなかったわけでは決してない。けれど、万が一もある。必要な時は、アルバやリウムも巻き込んで、全力で抵抗するつもりだったのだが、その必要はなさそうだ。
(よかったわ、これで大方問題が解決したわね)
(うん。これでとりあえず一安心かな。本当、大長老様にはいつもハラハラさせられるんだから)
魔女と使い魔という特別な関係にしか使えない特有のテレパシーを使って、二人は会話する。
と、佳乃が思い出したように自分のカバンの中をあさり始める。
「アリスさんたちにお土産があるんです。これ」
そう言って手渡されたのは、コーヒー豆だった。アダムが自分の髭を撫でつけながら、うなずく。
「そのコーヒーは実に美味だった。そなたたちもきっと気にいるだろう」
その言葉に、二人は嬉しそうに笑う。
「それは楽しみね。早速いただいてみましょう。ちょうどお昼休憩にしようとしていたところよ」
「あ、じゃあ私も手伝いますね!着替えてきます」
慌てて着替え部屋へと入って行った佳乃を見送って、ノエルはアダムに首をかしげる。
「大長老様も、よろしければもう少しゆっくりしていけばどうですか?すぐには戻れないでしょう」
彼女の提案に、彼は少し驚いたように目を丸める。
「そなたがそのように言うとは珍しい。では、遠慮なく邪魔させてもらおうか」
ゆっくりとイートインスペースの椅子に座ったアダムに、ノエルはため息をついた。先はどの言葉はどういう意味だろうか。さすがにさっさと帰れなどと冷たい言葉を吐くつもりはない。
少し複雑な気持ちになって、ノエルは椅子の背もたれに頬杖をつき、佳乃とアリスが戻ってくるのを待つことにした。