翌日。佳乃が学校に登校してくると、すでにクラスメイトたちは躍起になって文化祭の準備を始めていた。
「あ、おはよー、佳乃ちゃん」
クラスの友人に挨拶され、それにかえしながら、佳乃も荷物をロッカーにおいて準備に取り掛かる。
段ボールに色を塗っていると、クラスの委員長である花崎が紙を見ながら声を張り上げた。
「誰か買い出しに行ってくれる人いるー?ペンキと画用紙なんだけど…一人じゃ大変だから、二人!!」
ちょうど手が空いたところなので、佳乃が手を上げた。
「私今手空いたから行くよ」
「お、サンキュー。んじゃあと一人…」
「俺も手空いたからいく」
なぜか慌てたように手を上げたのは、悠斗だった。
「よし、じゃあこれ買い物リストな。領収書もらってきてくれればいいから。んじゃ、気をつけて行ってこいよ〜」
ひらひらと手を振る花崎にうなずいて、二人は教室を後にした。
一限目の講義を終え、次の講義まで小一時間あるためそれまで何をしようかと頭を悩ませていた蒼の肩を、後ろから叩いた人物がいた。まぁ、それが誰なのかは予想はついているのだが。
「よっ、蒼。お前今から暇だよな?」
まるで次の講義まで時間があることを知っているかのような口ぶりに、彼はうんざりと顔をしかめる。
「なんで知ってるの。君は僕のストーカーか何か?」
「否定しないってことは合ってるんだよな。じゃあさ…」
見事に嫌味をスルーして、裕也はにっこりと笑う。
「オレと一緒にこの近くの喫茶店行こーぜ。そこの店のコーヒー、めっちゃ好評なんだよ。お前コーヒー好きだろ?」
「まぁ、好きだけど」
もはや諦めたようにため息をつきながら、蒼はうなずく。
「じゃあもちろんいくよな?」
「一人で行けば?」
当然のように言う裕也に、蒼は素気無く返す。それに、彼はショックを受けたように顔を歪ませる。
「ひっどいなー!少しは迷えよ!」
「なんで君に気を使わなきゃならないのさ。行きたいなら一人で行けばいい」
騒々しそうに顔をしかめる蒼に、裕也はパッと顔を輝かせる。
「そうかそうか。オレには気をつかなくてもいいからに気を許してくれてるんだな!オレもお前のこと好きだぜ、蒼!」
なぜそうなるのだろう。ここまでポジティブな思考をされると、いっそ尊敬できる。
このままずっと断っていたとしても時間の無駄なので、蒼は仕方なさそうにため息をついた。
「わかったよ、行けばいいんでしょ行けば。ただし裕也の奢りね」
「えぇ…まじか」
だが、せっかく誘いになってくれたのだ。無下にするわけにはいかない。
「わかった!任せとけ」
自信満々に自分の胸を叩いて見せた裕也に、蒼は軽く嘆息した。
花崎に手渡された買い物リストとすでに購入したものを確認して、佳乃と悠斗はうなずいた。
「よし、あとは赤のペンキだけだな」
他の色のペンキと画用紙は近くのホームセンターで揃っていたのだが、赤だけ売れ切れていたのだ。
「惜しかったよね。売れ切れなら仕方ないけど、赤のペンキって人気なんだね」
「そうだなぁ。ここら辺の高校はみんな文化祭近いから、たぶんそれで売れ切れたんだろ。俺、安くて品揃え良い店知ってるからそこ行こうぜ」
購入したものを肩にかけて言う悠斗に、佳乃は片手を出す。
「半分もつよ。全部持ってもらったら私いる意味ないし」
「んじゃ、お前はこっちな」
すっと画用紙の入っている袋を手渡され、佳乃は不服そうに口を尖らせる。これでは悠斗だけが重い荷物を持つことになってしまう。
「岬くん、気を使わなくて良いよ。私もペンキ持つよ?」
もう一度手を出してくる佳乃に、彼は苦笑した。
「流石にその言い分は聞けねぇな。いいから、早く行くぞ。昼過ぎになったら大変だ」
さっさと前を歩いて行ってしまう悠斗を、釈然としないまま佳乃は追いかけた。
無事に赤いペンキを購入し終えて、佳乃は今度こそ自分でそれを持つ。
意地でもそれを渡そうとしたない彼女に、彼は呆れたように笑った。
「意外と頑固だなぁ」
「そっちもでしょ。ずっと重い方持ってるんだもん。申し訳ないよ」
「気にしなくて良いのに。俺、お前が思ってるより力あるよ?」
肩を竦める悠斗をじとりと見つめて、佳乃はため息をつく。
「そういう問題じゃないの。とにかく、これは私が持つからね」
「はいはい。あ、そうだ。三鷹、コーヒー好きか?」
思い出したように言う悠斗に、彼女は戸惑いながらもうなずく。
「じゃあ、ここの近くにすげぇコーヒーのうまい喫茶店があるんだよ。土曜のお礼に、奢らせてくんない?」
それに、彼女は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「え、いいよそんなの。気持ちだけで」
「いいから。俺が勝手に奢りたいだけ。だめ?」
こてんと可愛らしく首をかしげ、上目遣いに見てくる悠斗に、佳乃は仕方なくうなずいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「っしゃ、行こ行こ!」
嬉しそうにぱっと表情を明るくさせて手を引く悠斗に、佳乃はおかしそうに笑った。
本当に大学から近くにあった裕也一推しの喫茶店のコーヒーは、たしかに美味しかった。
すっきりとした後味に芳醇なコーヒーの香り。蒼は、無言で飲み進めていく。
そんな友人に満足げに笑って、裕也もまたコーヒーを飲む。うん、うまい。ちなみに、時間に余裕がある上に比較的空いていたので、二人は現在イートインスペースで座ってコーヒーを楽しんでいる。
と、店内に男女の高校生が入ってきた。それに、裕也は首をかしげる。今は平日の午前中だ。制服を着ているのを見ると、サボりだろうか。
「やぁ、今時の高校生は堂々としたもんだな。平日の真昼間からサボってデートとは」
けらけらと面白そうに笑ったことを、裕也は蒼の顔を見てすぐに後悔する。
コーヒーを飲むのをやめ、その二人の高校生を見る蒼の表情が、とても硬いものだったのだ。
「蒼…?」
彼のそんな表情を初めて見る。ひどく驚いたような、悲しいような顔をしていた。
「どうした?」
何も言わずにじっと二人の男女を見つめる蒼の肩を、裕也は掴む。
それに、彼ははっと我に帰ったように目を瞬かせる。
「…あぁ、ごめん。ちょっとびっくりして」
そう言って力なく笑う蒼の顔色が悪い。もともと白かった肌が、さらに白く見えてくる。
「体調悪いなら、戻るか?」
案じる裕也に、彼は緩く首を振る。
「大丈夫。体調は平気だよ」
言いながらも、彼の目線は二人の男女へと向いている。それに、裕也は何かを察したようにはっとした。
「…もしかして、あの子がこの前お前が言ってた女の子か?」
蒼は押し黙る。それが答えだった。
「なるほど…悪い、オレが連れてきたばっかりに嫌なもん見せたな」
申し訳なさそうに項垂れる裕也に、彼は苦笑した。
「裕也のせいじゃないよ。運が悪かっただけだ。それに、まだあの二人が付き合っているとは限らないしね」
そうは言うが、どこからどう見てもあの二人は仲睦まじい恋人同士だ。だが、思っていてもそれを言ってはいけない。
「そうだな」
うなずいてくれる優しい友人に、蒼はうなずきかえしながらも暗い気持ちが晴れないままでいた。
(三鷹さん、僕のことが好きじゃなかったのかな…)
昨晩の佳乃の言葉と笑顔を思い出して、彼は胸の痛みを感じた。
『楽しみにしててくださいね』
そう言ってふにゃりと笑った佳乃に、嘘はなかったはずだ。
コーヒーを一口啜ってみる。先ほどまではあんなに美味しく感じたコーヒーが、今はとても苦く感じた。
学校への道のりを歩きながら悠斗に奢ってもらったコーヒーを飲んだ佳乃は、ぱっと目を輝かせる。
「これ、すごい美味しい!」
「だろ?」
満面の笑みで飲み続ける佳乃に、彼は満足げに笑って自分も飲み始める。
「この前たまたまここら辺通った時にあの店を見つけてさ。試しにコーヒー頼んで飲んでみたら、びっくりするくらい美味かったから。誰かに共有したかったんだよなー」
「そうなんだ。まさに運命の出会い、だね」
にこにこと笑ってコーヒーを飲む佳乃に、悠斗はおかしそうに笑う。
「三鷹はたまに、面白い表現をするよな」
くすくすと笑う悠斗に、なんだか最近こういう風に笑われるのが多いなと佳乃は思った。
「そうかなぁ…」
むむ、と複雑そうに眉を寄せる佳乃にうなずいて、彼はあ、と声を上げる。
「そうだ。ティラミス、妹にめっちゃ喜んでもらえたよ。『美味しい!本当にこれお兄が作ったの!?』って」
とても嬉しそうに笑って話す悠斗に、佳乃も嬉しそうに笑う。
「ならよかった。私も家族で食べて、すごい褒められたの。また一緒に作りたいな」
「だな〜。店長さんに教わるのは勘弁だけど」
苦笑して言う悠斗に、彼女もうなずく。できればもうあのスパルタレッスンにはお世話になりたくない。
「あ、そうそう。アリスさんに聞いたんだけどね。ティラミスって、直訳すると『私を引きあげて』っていう意味らしいよ。なんか素敵だよね」
それに、彼は目を丸くする。
「へぇ、面白いな。当たり前なのかもしれないけど、ちゃんと意味があるんだ」
「私も初めて知ったの。だから、落ち込んでる人に意味を教えて渡すと良いのよ、って言ってたよ」
人差し指をぴんと立てて自慢げに言う佳乃に、悠斗はなるほどとうなずく。
「お菓子で元気付けるってのはすごいロマンティックだな。ちょっと照れくさいけど」
「ふふ、たしかに少し勇気がいるよね」
それを想像すると、結構ハードルが高いことがわかる。まぁ、きっとそのような状況にはならないだろう。
そう結論づけて、佳乃は腕時計に目をやる。次に目を丸くした。
「み、岬くん時間もう十二時になっちゃう!早く戻らなきゃ!!」
その言葉に、彼は慌ててコーヒーを一気に飲み干す。佳乃も同じように飲み干して、ちょうど近くにあったゴミ箱にからになったそれを放り投げる。
「急ごう!」
「うん!」
二人は、慌ただしく学校への道のりを走って行った。
その日の夕方。閉店間近に蒼がNotaを訪れた。出迎えたアリスは、暗い表情の彼に不思議そうに首をかしげる。
「いらっしゃいませ…あいにく、今は佳乃はいませんが、何かあったのなら話をお伺いしましょうか?ちょうど、もう閉店でお客様もいらっしゃらないはずなので」
それに、少し逡巡してから彼はうなずいた。彼女はさらに首をかたむける。一体何があったのだろう。
ひとまず彼をイートインスペースに座らせ、アリスは店の外に「close」の看板をかけてくる。
一度厨房に行き、指を鳴らして黒いワンピース姿に着替えた。
店内に戻り、蒼の前に座る。
「それで、何かあったんですか?」
柔らかく微笑むアリスに、彼はゆっくりと口を開いた。
今日あった出来事を話し終え、蒼は一つ息をついた。
アリスは無言ですっかり冷めてしまった紅茶を飲む。
「…なるほど。佳乃が同じ高校の男の子と二人で喫茶店を訪れていたと。あなたはそれに、傷ついたんですね?」
確認するように言うアリスに、彼はうなずいた。
「でも、どうして傷ついたのかがわからないんです。彼女が僕のことを好きでないことが、そんなにショックなんでしょうか。だとしたら、僕はとても自分勝手ですよね」
自嘲じみた笑みを浮かべる蒼に、彼女は呆れたように目をすがめる。
「まだ気づかないんですか。あなたはもう少し聡い方だと思っていたのですが」
ここに来て馬鹿にされたので、むっと彼は眉を寄せる。どういう意味だろうか。
「倉木さん」
いつも、客としてくる時は様をつけていたのに、今はさん付けだ。きっと、彼女は今自分と「店長と客」という立場でなく、知り合いとして話を聞いてくれているのだと気づいた。
「あなたはきっと、今まで人を好きになったことはないんでしょうね」
その言葉に、彼はうなずく。もちろん、人から告白をされたことは多々ある。だが、自分が人に恋愛感情を持ったことはなかった。
「だからこそ、あなたは自分の気持ちに気づかなかった。あなたは、佳乃のことが好きなんですよ」
「三鷹さんが、好き…」
一瞬、以前裕也に言われた言葉を思い出す。
『きっとその子はお前を変える運命の相手に違いない』
その言葉とアリスの言葉を、頭の中で響かせる。
目を閉じて、彼は佳乃のくるくると変わる表情を思い出す。
再び目を開けたときには、彼の瞳に静かな決意がにじんでいた。
アリスは、そっと笑って立ち上がり、紅茶を片したはじめる。
「…あの、ありがとうございました。おかげで自分の気持ちに気づけました」
「どういたしまして。頑張ってくださいね」
穏やかに笑うアリスにうなずいて、彼は苦笑する。
「僕、てっきりあなたに嫌われているんだと思ってましたよ」
「あら。それは心外ですね」
つい最近言外にさっさと帰れ、と言っていた女性とは思えないくらいに優しく笑うアリスに、蒼は肩を竦める。
おそらく、この女性には一生敵わないのだろうなと、彼は諦めたように嘆息した。
「あ、おはよー、佳乃ちゃん」
クラスの友人に挨拶され、それにかえしながら、佳乃も荷物をロッカーにおいて準備に取り掛かる。
段ボールに色を塗っていると、クラスの委員長である花崎が紙を見ながら声を張り上げた。
「誰か買い出しに行ってくれる人いるー?ペンキと画用紙なんだけど…一人じゃ大変だから、二人!!」
ちょうど手が空いたところなので、佳乃が手を上げた。
「私今手空いたから行くよ」
「お、サンキュー。んじゃあと一人…」
「俺も手空いたからいく」
なぜか慌てたように手を上げたのは、悠斗だった。
「よし、じゃあこれ買い物リストな。領収書もらってきてくれればいいから。んじゃ、気をつけて行ってこいよ〜」
ひらひらと手を振る花崎にうなずいて、二人は教室を後にした。
一限目の講義を終え、次の講義まで小一時間あるためそれまで何をしようかと頭を悩ませていた蒼の肩を、後ろから叩いた人物がいた。まぁ、それが誰なのかは予想はついているのだが。
「よっ、蒼。お前今から暇だよな?」
まるで次の講義まで時間があることを知っているかのような口ぶりに、彼はうんざりと顔をしかめる。
「なんで知ってるの。君は僕のストーカーか何か?」
「否定しないってことは合ってるんだよな。じゃあさ…」
見事に嫌味をスルーして、裕也はにっこりと笑う。
「オレと一緒にこの近くの喫茶店行こーぜ。そこの店のコーヒー、めっちゃ好評なんだよ。お前コーヒー好きだろ?」
「まぁ、好きだけど」
もはや諦めたようにため息をつきながら、蒼はうなずく。
「じゃあもちろんいくよな?」
「一人で行けば?」
当然のように言う裕也に、蒼は素気無く返す。それに、彼はショックを受けたように顔を歪ませる。
「ひっどいなー!少しは迷えよ!」
「なんで君に気を使わなきゃならないのさ。行きたいなら一人で行けばいい」
騒々しそうに顔をしかめる蒼に、裕也はパッと顔を輝かせる。
「そうかそうか。オレには気をつかなくてもいいからに気を許してくれてるんだな!オレもお前のこと好きだぜ、蒼!」
なぜそうなるのだろう。ここまでポジティブな思考をされると、いっそ尊敬できる。
このままずっと断っていたとしても時間の無駄なので、蒼は仕方なさそうにため息をついた。
「わかったよ、行けばいいんでしょ行けば。ただし裕也の奢りね」
「えぇ…まじか」
だが、せっかく誘いになってくれたのだ。無下にするわけにはいかない。
「わかった!任せとけ」
自信満々に自分の胸を叩いて見せた裕也に、蒼は軽く嘆息した。
花崎に手渡された買い物リストとすでに購入したものを確認して、佳乃と悠斗はうなずいた。
「よし、あとは赤のペンキだけだな」
他の色のペンキと画用紙は近くのホームセンターで揃っていたのだが、赤だけ売れ切れていたのだ。
「惜しかったよね。売れ切れなら仕方ないけど、赤のペンキって人気なんだね」
「そうだなぁ。ここら辺の高校はみんな文化祭近いから、たぶんそれで売れ切れたんだろ。俺、安くて品揃え良い店知ってるからそこ行こうぜ」
購入したものを肩にかけて言う悠斗に、佳乃は片手を出す。
「半分もつよ。全部持ってもらったら私いる意味ないし」
「んじゃ、お前はこっちな」
すっと画用紙の入っている袋を手渡され、佳乃は不服そうに口を尖らせる。これでは悠斗だけが重い荷物を持つことになってしまう。
「岬くん、気を使わなくて良いよ。私もペンキ持つよ?」
もう一度手を出してくる佳乃に、彼は苦笑した。
「流石にその言い分は聞けねぇな。いいから、早く行くぞ。昼過ぎになったら大変だ」
さっさと前を歩いて行ってしまう悠斗を、釈然としないまま佳乃は追いかけた。
無事に赤いペンキを購入し終えて、佳乃は今度こそ自分でそれを持つ。
意地でもそれを渡そうとしたない彼女に、彼は呆れたように笑った。
「意外と頑固だなぁ」
「そっちもでしょ。ずっと重い方持ってるんだもん。申し訳ないよ」
「気にしなくて良いのに。俺、お前が思ってるより力あるよ?」
肩を竦める悠斗をじとりと見つめて、佳乃はため息をつく。
「そういう問題じゃないの。とにかく、これは私が持つからね」
「はいはい。あ、そうだ。三鷹、コーヒー好きか?」
思い出したように言う悠斗に、彼女は戸惑いながらもうなずく。
「じゃあ、ここの近くにすげぇコーヒーのうまい喫茶店があるんだよ。土曜のお礼に、奢らせてくんない?」
それに、彼女は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「え、いいよそんなの。気持ちだけで」
「いいから。俺が勝手に奢りたいだけ。だめ?」
こてんと可愛らしく首をかしげ、上目遣いに見てくる悠斗に、佳乃は仕方なくうなずいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「っしゃ、行こ行こ!」
嬉しそうにぱっと表情を明るくさせて手を引く悠斗に、佳乃はおかしそうに笑った。
本当に大学から近くにあった裕也一推しの喫茶店のコーヒーは、たしかに美味しかった。
すっきりとした後味に芳醇なコーヒーの香り。蒼は、無言で飲み進めていく。
そんな友人に満足げに笑って、裕也もまたコーヒーを飲む。うん、うまい。ちなみに、時間に余裕がある上に比較的空いていたので、二人は現在イートインスペースで座ってコーヒーを楽しんでいる。
と、店内に男女の高校生が入ってきた。それに、裕也は首をかしげる。今は平日の午前中だ。制服を着ているのを見ると、サボりだろうか。
「やぁ、今時の高校生は堂々としたもんだな。平日の真昼間からサボってデートとは」
けらけらと面白そうに笑ったことを、裕也は蒼の顔を見てすぐに後悔する。
コーヒーを飲むのをやめ、その二人の高校生を見る蒼の表情が、とても硬いものだったのだ。
「蒼…?」
彼のそんな表情を初めて見る。ひどく驚いたような、悲しいような顔をしていた。
「どうした?」
何も言わずにじっと二人の男女を見つめる蒼の肩を、裕也は掴む。
それに、彼ははっと我に帰ったように目を瞬かせる。
「…あぁ、ごめん。ちょっとびっくりして」
そう言って力なく笑う蒼の顔色が悪い。もともと白かった肌が、さらに白く見えてくる。
「体調悪いなら、戻るか?」
案じる裕也に、彼は緩く首を振る。
「大丈夫。体調は平気だよ」
言いながらも、彼の目線は二人の男女へと向いている。それに、裕也は何かを察したようにはっとした。
「…もしかして、あの子がこの前お前が言ってた女の子か?」
蒼は押し黙る。それが答えだった。
「なるほど…悪い、オレが連れてきたばっかりに嫌なもん見せたな」
申し訳なさそうに項垂れる裕也に、彼は苦笑した。
「裕也のせいじゃないよ。運が悪かっただけだ。それに、まだあの二人が付き合っているとは限らないしね」
そうは言うが、どこからどう見てもあの二人は仲睦まじい恋人同士だ。だが、思っていてもそれを言ってはいけない。
「そうだな」
うなずいてくれる優しい友人に、蒼はうなずきかえしながらも暗い気持ちが晴れないままでいた。
(三鷹さん、僕のことが好きじゃなかったのかな…)
昨晩の佳乃の言葉と笑顔を思い出して、彼は胸の痛みを感じた。
『楽しみにしててくださいね』
そう言ってふにゃりと笑った佳乃に、嘘はなかったはずだ。
コーヒーを一口啜ってみる。先ほどまではあんなに美味しく感じたコーヒーが、今はとても苦く感じた。
学校への道のりを歩きながら悠斗に奢ってもらったコーヒーを飲んだ佳乃は、ぱっと目を輝かせる。
「これ、すごい美味しい!」
「だろ?」
満面の笑みで飲み続ける佳乃に、彼は満足げに笑って自分も飲み始める。
「この前たまたまここら辺通った時にあの店を見つけてさ。試しにコーヒー頼んで飲んでみたら、びっくりするくらい美味かったから。誰かに共有したかったんだよなー」
「そうなんだ。まさに運命の出会い、だね」
にこにこと笑ってコーヒーを飲む佳乃に、悠斗はおかしそうに笑う。
「三鷹はたまに、面白い表現をするよな」
くすくすと笑う悠斗に、なんだか最近こういう風に笑われるのが多いなと佳乃は思った。
「そうかなぁ…」
むむ、と複雑そうに眉を寄せる佳乃にうなずいて、彼はあ、と声を上げる。
「そうだ。ティラミス、妹にめっちゃ喜んでもらえたよ。『美味しい!本当にこれお兄が作ったの!?』って」
とても嬉しそうに笑って話す悠斗に、佳乃も嬉しそうに笑う。
「ならよかった。私も家族で食べて、すごい褒められたの。また一緒に作りたいな」
「だな〜。店長さんに教わるのは勘弁だけど」
苦笑して言う悠斗に、彼女もうなずく。できればもうあのスパルタレッスンにはお世話になりたくない。
「あ、そうそう。アリスさんに聞いたんだけどね。ティラミスって、直訳すると『私を引きあげて』っていう意味らしいよ。なんか素敵だよね」
それに、彼は目を丸くする。
「へぇ、面白いな。当たり前なのかもしれないけど、ちゃんと意味があるんだ」
「私も初めて知ったの。だから、落ち込んでる人に意味を教えて渡すと良いのよ、って言ってたよ」
人差し指をぴんと立てて自慢げに言う佳乃に、悠斗はなるほどとうなずく。
「お菓子で元気付けるってのはすごいロマンティックだな。ちょっと照れくさいけど」
「ふふ、たしかに少し勇気がいるよね」
それを想像すると、結構ハードルが高いことがわかる。まぁ、きっとそのような状況にはならないだろう。
そう結論づけて、佳乃は腕時計に目をやる。次に目を丸くした。
「み、岬くん時間もう十二時になっちゃう!早く戻らなきゃ!!」
その言葉に、彼は慌ててコーヒーを一気に飲み干す。佳乃も同じように飲み干して、ちょうど近くにあったゴミ箱にからになったそれを放り投げる。
「急ごう!」
「うん!」
二人は、慌ただしく学校への道のりを走って行った。
その日の夕方。閉店間近に蒼がNotaを訪れた。出迎えたアリスは、暗い表情の彼に不思議そうに首をかしげる。
「いらっしゃいませ…あいにく、今は佳乃はいませんが、何かあったのなら話をお伺いしましょうか?ちょうど、もう閉店でお客様もいらっしゃらないはずなので」
それに、少し逡巡してから彼はうなずいた。彼女はさらに首をかたむける。一体何があったのだろう。
ひとまず彼をイートインスペースに座らせ、アリスは店の外に「close」の看板をかけてくる。
一度厨房に行き、指を鳴らして黒いワンピース姿に着替えた。
店内に戻り、蒼の前に座る。
「それで、何かあったんですか?」
柔らかく微笑むアリスに、彼はゆっくりと口を開いた。
今日あった出来事を話し終え、蒼は一つ息をついた。
アリスは無言ですっかり冷めてしまった紅茶を飲む。
「…なるほど。佳乃が同じ高校の男の子と二人で喫茶店を訪れていたと。あなたはそれに、傷ついたんですね?」
確認するように言うアリスに、彼はうなずいた。
「でも、どうして傷ついたのかがわからないんです。彼女が僕のことを好きでないことが、そんなにショックなんでしょうか。だとしたら、僕はとても自分勝手ですよね」
自嘲じみた笑みを浮かべる蒼に、彼女は呆れたように目をすがめる。
「まだ気づかないんですか。あなたはもう少し聡い方だと思っていたのですが」
ここに来て馬鹿にされたので、むっと彼は眉を寄せる。どういう意味だろうか。
「倉木さん」
いつも、客としてくる時は様をつけていたのに、今はさん付けだ。きっと、彼女は今自分と「店長と客」という立場でなく、知り合いとして話を聞いてくれているのだと気づいた。
「あなたはきっと、今まで人を好きになったことはないんでしょうね」
その言葉に、彼はうなずく。もちろん、人から告白をされたことは多々ある。だが、自分が人に恋愛感情を持ったことはなかった。
「だからこそ、あなたは自分の気持ちに気づかなかった。あなたは、佳乃のことが好きなんですよ」
「三鷹さんが、好き…」
一瞬、以前裕也に言われた言葉を思い出す。
『きっとその子はお前を変える運命の相手に違いない』
その言葉とアリスの言葉を、頭の中で響かせる。
目を閉じて、彼は佳乃のくるくると変わる表情を思い出す。
再び目を開けたときには、彼の瞳に静かな決意がにじんでいた。
アリスは、そっと笑って立ち上がり、紅茶を片したはじめる。
「…あの、ありがとうございました。おかげで自分の気持ちに気づけました」
「どういたしまして。頑張ってくださいね」
穏やかに笑うアリスにうなずいて、彼は苦笑する。
「僕、てっきりあなたに嫌われているんだと思ってましたよ」
「あら。それは心外ですね」
つい最近言外にさっさと帰れ、と言っていた女性とは思えないくらいに優しく笑うアリスに、蒼は肩を竦める。
おそらく、この女性には一生敵わないのだろうなと、彼は諦めたように嘆息した。