翌朝。日曜なのでNotaにやってきた佳乃を、いつかのときのようにノエルが出迎えた。
「おはようございます、ノエルさん」
「おはよう、佳乃ちゃん。アリスは今、倉庫に行ってるから先に着替えてきちゃいな」
その言葉にうなずいて、佳乃はいつもの着替え部屋へと入りかけたところで、思い出したようにあ、と声をあげた。
「ん?どうかした?」
「はい。あの、後でノエルさんに渡したいものがあるので少し待っててもらえますか?」
「うん、大丈夫だよ。今日は午前中ずっとここにいる予定だから」
それにうなずいて、今度こそ着替え部屋に入って行った佳乃の後ろ姿を見届けて、彼女は軽くため息をついた。
佳乃には、大長老の件を話すつもりはない。変に身構えてしまって彼女の良さが発揮されなくなってしまったら、大変だからだ。一応、アリスには伝えておいてあるので、もしもこの店で何かあれば対処してくれるだろう。
「ごめんね、佳乃ちゃん」
完全にこちら側の世界のことに巻き込んでしまったことへの申し訳なさで、改めてノエルは佳乃のいる部屋へ謝罪の言葉を述べる。
「大丈夫よ、佳乃なら。きっと大長老様も認めてくださるわ」
タイミングを図ったかのように戻ってきた自分の使い魔に、彼女は微笑む。
「そうだね。私たちは、佳乃ちゃんを信じてあげよう」
それにうなずいて、アリスはそっと、厨房へと姿を消した。
着替え終え、部屋を出るとノエルがイートインスペースでコーヒーを飲んでいた。そして先ほどから用意しておいたものを手に、佳乃はノエルにそっと近づく。
「これ、文化祭のチケットです。私のクラスは喫茶店をやるので、これたらぜひ遊びに来てください」
どうしてか二枚手渡されたそれに、彼女は首をかしげる。
「どうして二枚なの?」
「あ、もう一枚はアルバさんに渡していただければ嬉しいです」
その言葉に、なるほどとうなずいてから少し不服そうに眉を寄せる。
「別にわざわざ呼んだりしなくていいんだよ?」
「あはは、そういうわけにはいきませんよ。昨日お店に来たとき、誘ってねと言われたので」
それに、ノエルはうんざりとした顔をした。
「佳乃ちゃんから懐柔していくとは、姑息な手を使ったな。後であったら懲らしめなきゃ」
物騒な物言いに、佳乃は苦笑する。冗談だとはわかっているが、ノエルなら本当にやりそうで少し怖い。
「あ、でも本当に十月の初めの方にやるんだね。そろそろ準備も忙しくなってくるんじゃない?」
チケットに記載されてある日付を読んで言うノエルの言葉に、彼女はうなずく。
「なので、来週からあんまりこっちのほうに来れないと思うんです。すみません」
「大丈夫だよ。高校の学校行事は人生に何回もあるわけじゃないんだから、しっかり楽しまなきゃね!」
ぐっと親指を立てて爽やかな笑みを浮かべるノエルに、佳乃は大きくうなずく。
「はい!全力で楽しみます!!」
「ふふ、気合が入っているわね。水を刺すようで悪いのだけど、そろそろ開店するわよ。準備はいい?」
それに、彼女は慌てて最終的な身嗜みをチェックしてから、店内を見渡す。確認を終え、大きくうなずいた。
今日もまた、忙しい一日が始まる。
夕方。もう後少しで閉店という時間に、アルバがやってきた。
「こんばんは、ヨシノ」
朗らかに笑うアルバに、佳乃も笑顔を返す。
「こんばんは。どうしたんですか?こんな時間に来るのは、珍しいですね」
アルバが普段訪れるのは、大抵まだ明るい時間帯の間が多い。今日のように空が赤く染まりかけている時間帯に来るのは、珍しかった。
彼女の問いかけに、彼は一つうなずいた。
「うん。ヨシノ、今日はこれから何か用はある?」
「いえ、ありませんけど…」
今日はもう、家に帰るだけだ。
不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼はにっこりと笑った。
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらえる?連れて行きたい場所があるんだ」
にこにこと、なんだかとても楽しそうなアルバに、佳乃はうなずいた。
閉店し、着替えを済ませアリスに挨拶をしてから店の外に出ると、アルバがホウキを片手に立っていた。
「ホウキで飛んでいくんですか?」
てっきり以前のように飛ばされるのかと思っていたので、きらきらと目を輝かせる佳乃に、アルバはおかしそうに笑いながらうなずく。
「君はリウムの背中に乗って空を食べるくらいには、高いところが平気らしいからね。それに、その方が楽しめるでしょ?飛ばされる方がいいならそうするけど」
それに、佳乃はぶんぶんと首を横に振る。飛ばされるのが怖いとかではないのだが、あの謎の体験はできればもうしたくない。それに、ホウキで空を飛ぶことは、全国の少女の憧れでもあるのだ。
「ホウキでお願いします!」
「あはは、必死だなぁ。冗談なのに」
「アルバさんが言うと、どうしてか冗談に聞こえないんです…」
苦笑する佳乃を面白そうに笑ってから、アルバはホウキを寝かせ、そこに横向きに座るようにする。
「Curabitur」
小さくつぶやくと、彼の体とホウキがふわりと浮かんだ。
「わぁ、すごい!」
「うーん、いい反応」
嬉しそうに笑って、佳乃へと指をくるりと回し、先ほどと同じ呪文を呟いた。
すると、彼女の体もふわりと浮く。アルバは、少し離れた場所にいた佳乃の手を掴み、軽々と体を持ち上げてホウキの上に乗せる。細身の体からは想像もつかないほどの力だ。目を瞬かせていると、アルバが微笑みかけてきた。
「しっかりつかまっててね」
佳乃がこくりとうなずくのを認めて、彼はホウキを徐々に上昇させていく。
あっという間に遠のいて行った地面を見下ろして、佳乃は本当に自分がホウキで空を飛んでいることを実感した。
「ヨシノ、大丈夫?」
ふわりふわりと風を受けてそよぐ黒髪を耳にかけて、アルバは佳乃を見る。それに、彼女は笑顔でうなずいた。
「はい!」
「ならよかった」
そう言って笑うアルバの赤い瞳が、ちょうどその後ろにある茜色の夕日により、宝石のように輝いて見える。佳乃は綺麗だなと目を細めた。
アリスやノエルも含めて、みんな自分たちとは違う容姿、瞳の色をしている。そこを改めて感じると、やはり種族が違うんだなと実感させられるのだ。けれど、その種族の違いがあっても、自分はこうして彼らと深い関わりを持てている。ふと、昔祖母に言われた言葉を思い出す。
『佳乃。人と人とのつながりというのは、運命の巡り合わせでもあり、また、とても大切な縁なのよ。それは時に、悪いことも招いてしまうこともあるかもしれないけれど、決して逃げないで、きちんと受け止めるの。そうすれば、きっとあなたのためになるわ』
祖母は、まるで自分がそうだったかのように穏やかな笑顔で佳乃に教えた。あの時は祖母の言っている意味がきちんと理解できずに返事をしてしまったが、今ならよくわかる。
この出会いは、きっと祖母の言う「縁」というものなのだろう。
だったら、とても素敵な縁だと、佳乃はそっと嬉しそうに笑った。
日が落ちてきて、うっすらと暗くなってきた頃。アルバは徐々に下降していく。どうやら目的地に到着したようだ。
無事に地面に着地すると、アルバが佳乃に向かってくるりと指を回した。
「Revertere」
ふっと、力が抜ける感覚がしたと思ったら体が浮いていない。
「すごいですね」
感心したように何度もうなずいている佳乃に、彼はおかしそうに笑った。
「あはは、まぁこれは本当に初歩的な魔法だけどね」
「へぇ…」
うなずいて、彼女は周りを見渡す。何の変哲もない、普通の町並みだ。最初は以前のように森に連れて行かれるのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「あの、ここって…?」
いまだホウキから降りていないアルバに、不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼ははにっこりと笑う。
「ヨシノ、ここから自宅までの道のりはわかる?」
「え、あ、はい」
質問を質問で返されてしまった。戸惑いながらも、彼女はうなずく。
「じゃあ大丈夫だね。それじゃあ、僕はここで。また明日、ヨシノ」
「え」
流石にそれは予想していなかったため、目を丸くする佳乃には反応せずに、彼は徐々に上昇していく。
「気をつけてね」
最後にひらひらと手を振って、本当に飛んでいってしまったアルバに、佳乃は唖然と口を開ける。
「えぇ…」
流石にこれはひどくないか。何のためにここに自分を置いていくのだろう。
「と、とりあえず…帰ろう」
この道は一応何度か通ったことがあるので、帰り道はわかっている。
歩き出そうとしたところで、後ろから聴き慣れた声が後ろから響いた。
「三鷹さん…?」
それに、佳乃は驚きのあまり固まった。まさか、この場に彼がいるとは思っていなかった。
まるで壊れたブリキのおもちゃのように鈍い音を立てて、佳乃は振り返る。予想通り、そこには目を丸くする蒼が立っていた。
「どうしたの?こんなところで」
「えっと…」
流石に今までのことを素直に話すわけにもいかないので、必死に視線を彷徨わせる。
「ち、ちょっとここら辺に用事があって、それが終わったので帰ってる途中なんです」
なぜ嘘をつくことはこんなに心苦しいのだろう。
彼は、いかにも挙動不審な佳乃に怪訝そうに首をかしげる。
「そうなんだ?僕はバイト帰りなんだ。女の子一人じゃ危ないから、送っていくよ」
「え、いえ、大丈夫です!」
蒼だってバイト帰りということは少なからず疲れているはずだ。わざわざ送ってもらう理由はない。
「うーん、そんなに全力で断られると傷つくな。僕と一緒にいたくない?」
ぶんぶんと首を横に振る佳乃に、蒼は苦笑する。佳乃はさらに勢いをつけて首を横に振った。
「そういうわけじゃありません!!」
「ふふっ、なら送らせてよ。僕の名誉のためにも、ね?」
それに、少しの間微妙な顔をして考えこむと、佳乃はほんのわずかにうなずいた。ここまでいってくれているのに断るのは、かえって失礼だ。
「よろしくお願いします…」
「お願いされました」
満足げに笑って、蒼はうなずいた。
二人並んで道のりを歩いていく。
「…倉木さん、お家はここから近いんですか?」
ずっと無言のままでは少し気まずいので、佳乃が問いかける。蒼は少し考えた末、うなずいた。
「近いと言えば近いかな。ここから歩いて十分くらい。三鷹さんの家は?」
「私の家も同じくらいです。やっぱり、こっちは少しだけ道並が違いますね」
周囲を見渡す佳乃に、蒼はへぇとうなずく。
「そういえば、三鷹さんの高校もう少しで文化祭なんだよね。懐かしいなぁ。準備はどう?進んでる?」
「とりあえず、今は何をやるかと必要なものをリストアップし終えた段階です。うちのクラスは喫茶店をやる予定なんですよ」
楽しそうに胸の前で手を合わせて話す佳乃に、彼は目を細める。
「それは楽しそうだね…僕のことは、誘ってくれないの?」
その言葉に、佳乃はぴたりと歩みを止める。蒼もそれに合わせて、歩くのを止めた。彼女の返事を、じっと待つ。
佳乃は、鞄の中からそっと文化祭のチケットを取り出す。
「ど、どうぞ…」
うつむきがちに手渡されたそれを、彼は嬉しそうに笑って受け取る。
「ありがとう。絶対に行くね」
顔を上げずに、佳乃はこくりとうなずく。
きっと、アルバはこの道をこの時間帯に蒼が通ることを知っていたのだろう。だからこそ、敢えてこの場に自分を置いて行ったのだ。
なかなかの策略に、佳乃は心の中でアルバに対して軽く非難の声をあげる。
(それならそうと言ってくれればよかったのに。心の準備が…!)
バクバクと早鐘を打つ心臓を感じながら、佳乃は柔らかく笑う目の前の初恋の相手を見る。
「当日、もし良ければなんですけど…」
「うん?」
ぎゅっと、佳乃は一度目を瞑る。そして、決心したように開いた。
「私の休憩時間になったら、一緒に回りませんか?案内します!」
頰を染め、緊張した面持ちの佳乃に、蒼は息を呑む。
(だから、わかりやすすぎるよ、三鷹さん)
心の中でそう呟いて、彼は嬉しそうに笑った。
「もちろん、僕で良ければ」
その答えに、佳乃はほっと胸を撫で下ろす。
「楽しみにしててくださいね」
「うん」
ふにゃりと笑う佳乃に、蒼は柔らかく笑った。
佳乃と別れたアルバは、再びNotaを訪れていた。
店内に入ってきたアルバに、アリスは目を丸くする。
「どうしたんですか?佳乃とどこかに行ったんじゃ…」
首をかしげるアリスに一つうなずいて、アルバは微笑んだ。
「ヨシノをあの初恋の男の子に引き合わせるために、彼が普段この時間帯に通ってる場所に置いてきたんだ」
「え?」
予想していなかった返答に、アリスは珍しく眉間にシワを寄せる。
「もう外は薄暗いのに?もし倉木様に合わなかったら、どうするんですか」
非難の色をにじませる問いかけに、アルバは朗らかに笑った。
「大丈夫だよ。念のためこっそり保護魔法をかけておいたから。それに、今日の彼には寄り道する気持ちは一切ないことも確認済みだよ」
抜かりのないその返答に、彼女は呆れたようにため息をつく。
「全く。あなたはいつも急ですね。佳乃に説明はしたんですか?」
それに、彼は首を横に振る。もう一度、アリスはため息をついた。
「あの子にも心の準備というものがあるでしょうに。今度同じようなことをする時は、ちゃんと事前に伝えてあげてくださいね」
「わかったよ。でも、僕は良かれと思ってやったんだから、そんな顔をしないでほしいな。ヨシノ、まだ文化祭のチケットを彼に渡せていなかったんでしょ?」
そう言われて、彼女はうなずく。佳乃は今日蒼が店に来たら渡すつもりでいたのだが、残念ながら彼は店に来なかったのだ。閉店時に、少し落ち込んでいたのを思い出す。
「きっと今頃渡せていると思うよ」
「だといいですけど…とにかく、あまり勝手なことはしないでください」
嘆息まじりに言われ、アルバはあまり反省していなそうな顔でうなずいた。
良くも悪くも、彼はマイペースなのだ。
もう何を言っても無駄な気がして、アリスはアルバのために紅茶を入れ始めた。
「おはようございます、ノエルさん」
「おはよう、佳乃ちゃん。アリスは今、倉庫に行ってるから先に着替えてきちゃいな」
その言葉にうなずいて、佳乃はいつもの着替え部屋へと入りかけたところで、思い出したようにあ、と声をあげた。
「ん?どうかした?」
「はい。あの、後でノエルさんに渡したいものがあるので少し待っててもらえますか?」
「うん、大丈夫だよ。今日は午前中ずっとここにいる予定だから」
それにうなずいて、今度こそ着替え部屋に入って行った佳乃の後ろ姿を見届けて、彼女は軽くため息をついた。
佳乃には、大長老の件を話すつもりはない。変に身構えてしまって彼女の良さが発揮されなくなってしまったら、大変だからだ。一応、アリスには伝えておいてあるので、もしもこの店で何かあれば対処してくれるだろう。
「ごめんね、佳乃ちゃん」
完全にこちら側の世界のことに巻き込んでしまったことへの申し訳なさで、改めてノエルは佳乃のいる部屋へ謝罪の言葉を述べる。
「大丈夫よ、佳乃なら。きっと大長老様も認めてくださるわ」
タイミングを図ったかのように戻ってきた自分の使い魔に、彼女は微笑む。
「そうだね。私たちは、佳乃ちゃんを信じてあげよう」
それにうなずいて、アリスはそっと、厨房へと姿を消した。
着替え終え、部屋を出るとノエルがイートインスペースでコーヒーを飲んでいた。そして先ほどから用意しておいたものを手に、佳乃はノエルにそっと近づく。
「これ、文化祭のチケットです。私のクラスは喫茶店をやるので、これたらぜひ遊びに来てください」
どうしてか二枚手渡されたそれに、彼女は首をかしげる。
「どうして二枚なの?」
「あ、もう一枚はアルバさんに渡していただければ嬉しいです」
その言葉に、なるほどとうなずいてから少し不服そうに眉を寄せる。
「別にわざわざ呼んだりしなくていいんだよ?」
「あはは、そういうわけにはいきませんよ。昨日お店に来たとき、誘ってねと言われたので」
それに、ノエルはうんざりとした顔をした。
「佳乃ちゃんから懐柔していくとは、姑息な手を使ったな。後であったら懲らしめなきゃ」
物騒な物言いに、佳乃は苦笑する。冗談だとはわかっているが、ノエルなら本当にやりそうで少し怖い。
「あ、でも本当に十月の初めの方にやるんだね。そろそろ準備も忙しくなってくるんじゃない?」
チケットに記載されてある日付を読んで言うノエルの言葉に、彼女はうなずく。
「なので、来週からあんまりこっちのほうに来れないと思うんです。すみません」
「大丈夫だよ。高校の学校行事は人生に何回もあるわけじゃないんだから、しっかり楽しまなきゃね!」
ぐっと親指を立てて爽やかな笑みを浮かべるノエルに、佳乃は大きくうなずく。
「はい!全力で楽しみます!!」
「ふふ、気合が入っているわね。水を刺すようで悪いのだけど、そろそろ開店するわよ。準備はいい?」
それに、彼女は慌てて最終的な身嗜みをチェックしてから、店内を見渡す。確認を終え、大きくうなずいた。
今日もまた、忙しい一日が始まる。
夕方。もう後少しで閉店という時間に、アルバがやってきた。
「こんばんは、ヨシノ」
朗らかに笑うアルバに、佳乃も笑顔を返す。
「こんばんは。どうしたんですか?こんな時間に来るのは、珍しいですね」
アルバが普段訪れるのは、大抵まだ明るい時間帯の間が多い。今日のように空が赤く染まりかけている時間帯に来るのは、珍しかった。
彼女の問いかけに、彼は一つうなずいた。
「うん。ヨシノ、今日はこれから何か用はある?」
「いえ、ありませんけど…」
今日はもう、家に帰るだけだ。
不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼はにっこりと笑った。
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらえる?連れて行きたい場所があるんだ」
にこにこと、なんだかとても楽しそうなアルバに、佳乃はうなずいた。
閉店し、着替えを済ませアリスに挨拶をしてから店の外に出ると、アルバがホウキを片手に立っていた。
「ホウキで飛んでいくんですか?」
てっきり以前のように飛ばされるのかと思っていたので、きらきらと目を輝かせる佳乃に、アルバはおかしそうに笑いながらうなずく。
「君はリウムの背中に乗って空を食べるくらいには、高いところが平気らしいからね。それに、その方が楽しめるでしょ?飛ばされる方がいいならそうするけど」
それに、佳乃はぶんぶんと首を横に振る。飛ばされるのが怖いとかではないのだが、あの謎の体験はできればもうしたくない。それに、ホウキで空を飛ぶことは、全国の少女の憧れでもあるのだ。
「ホウキでお願いします!」
「あはは、必死だなぁ。冗談なのに」
「アルバさんが言うと、どうしてか冗談に聞こえないんです…」
苦笑する佳乃を面白そうに笑ってから、アルバはホウキを寝かせ、そこに横向きに座るようにする。
「Curabitur」
小さくつぶやくと、彼の体とホウキがふわりと浮かんだ。
「わぁ、すごい!」
「うーん、いい反応」
嬉しそうに笑って、佳乃へと指をくるりと回し、先ほどと同じ呪文を呟いた。
すると、彼女の体もふわりと浮く。アルバは、少し離れた場所にいた佳乃の手を掴み、軽々と体を持ち上げてホウキの上に乗せる。細身の体からは想像もつかないほどの力だ。目を瞬かせていると、アルバが微笑みかけてきた。
「しっかりつかまっててね」
佳乃がこくりとうなずくのを認めて、彼はホウキを徐々に上昇させていく。
あっという間に遠のいて行った地面を見下ろして、佳乃は本当に自分がホウキで空を飛んでいることを実感した。
「ヨシノ、大丈夫?」
ふわりふわりと風を受けてそよぐ黒髪を耳にかけて、アルバは佳乃を見る。それに、彼女は笑顔でうなずいた。
「はい!」
「ならよかった」
そう言って笑うアルバの赤い瞳が、ちょうどその後ろにある茜色の夕日により、宝石のように輝いて見える。佳乃は綺麗だなと目を細めた。
アリスやノエルも含めて、みんな自分たちとは違う容姿、瞳の色をしている。そこを改めて感じると、やはり種族が違うんだなと実感させられるのだ。けれど、その種族の違いがあっても、自分はこうして彼らと深い関わりを持てている。ふと、昔祖母に言われた言葉を思い出す。
『佳乃。人と人とのつながりというのは、運命の巡り合わせでもあり、また、とても大切な縁なのよ。それは時に、悪いことも招いてしまうこともあるかもしれないけれど、決して逃げないで、きちんと受け止めるの。そうすれば、きっとあなたのためになるわ』
祖母は、まるで自分がそうだったかのように穏やかな笑顔で佳乃に教えた。あの時は祖母の言っている意味がきちんと理解できずに返事をしてしまったが、今ならよくわかる。
この出会いは、きっと祖母の言う「縁」というものなのだろう。
だったら、とても素敵な縁だと、佳乃はそっと嬉しそうに笑った。
日が落ちてきて、うっすらと暗くなってきた頃。アルバは徐々に下降していく。どうやら目的地に到着したようだ。
無事に地面に着地すると、アルバが佳乃に向かってくるりと指を回した。
「Revertere」
ふっと、力が抜ける感覚がしたと思ったら体が浮いていない。
「すごいですね」
感心したように何度もうなずいている佳乃に、彼はおかしそうに笑った。
「あはは、まぁこれは本当に初歩的な魔法だけどね」
「へぇ…」
うなずいて、彼女は周りを見渡す。何の変哲もない、普通の町並みだ。最初は以前のように森に連れて行かれるのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「あの、ここって…?」
いまだホウキから降りていないアルバに、不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼ははにっこりと笑う。
「ヨシノ、ここから自宅までの道のりはわかる?」
「え、あ、はい」
質問を質問で返されてしまった。戸惑いながらも、彼女はうなずく。
「じゃあ大丈夫だね。それじゃあ、僕はここで。また明日、ヨシノ」
「え」
流石にそれは予想していなかったため、目を丸くする佳乃には反応せずに、彼は徐々に上昇していく。
「気をつけてね」
最後にひらひらと手を振って、本当に飛んでいってしまったアルバに、佳乃は唖然と口を開ける。
「えぇ…」
流石にこれはひどくないか。何のためにここに自分を置いていくのだろう。
「と、とりあえず…帰ろう」
この道は一応何度か通ったことがあるので、帰り道はわかっている。
歩き出そうとしたところで、後ろから聴き慣れた声が後ろから響いた。
「三鷹さん…?」
それに、佳乃は驚きのあまり固まった。まさか、この場に彼がいるとは思っていなかった。
まるで壊れたブリキのおもちゃのように鈍い音を立てて、佳乃は振り返る。予想通り、そこには目を丸くする蒼が立っていた。
「どうしたの?こんなところで」
「えっと…」
流石に今までのことを素直に話すわけにもいかないので、必死に視線を彷徨わせる。
「ち、ちょっとここら辺に用事があって、それが終わったので帰ってる途中なんです」
なぜ嘘をつくことはこんなに心苦しいのだろう。
彼は、いかにも挙動不審な佳乃に怪訝そうに首をかしげる。
「そうなんだ?僕はバイト帰りなんだ。女の子一人じゃ危ないから、送っていくよ」
「え、いえ、大丈夫です!」
蒼だってバイト帰りということは少なからず疲れているはずだ。わざわざ送ってもらう理由はない。
「うーん、そんなに全力で断られると傷つくな。僕と一緒にいたくない?」
ぶんぶんと首を横に振る佳乃に、蒼は苦笑する。佳乃はさらに勢いをつけて首を横に振った。
「そういうわけじゃありません!!」
「ふふっ、なら送らせてよ。僕の名誉のためにも、ね?」
それに、少しの間微妙な顔をして考えこむと、佳乃はほんのわずかにうなずいた。ここまでいってくれているのに断るのは、かえって失礼だ。
「よろしくお願いします…」
「お願いされました」
満足げに笑って、蒼はうなずいた。
二人並んで道のりを歩いていく。
「…倉木さん、お家はここから近いんですか?」
ずっと無言のままでは少し気まずいので、佳乃が問いかける。蒼は少し考えた末、うなずいた。
「近いと言えば近いかな。ここから歩いて十分くらい。三鷹さんの家は?」
「私の家も同じくらいです。やっぱり、こっちは少しだけ道並が違いますね」
周囲を見渡す佳乃に、蒼はへぇとうなずく。
「そういえば、三鷹さんの高校もう少しで文化祭なんだよね。懐かしいなぁ。準備はどう?進んでる?」
「とりあえず、今は何をやるかと必要なものをリストアップし終えた段階です。うちのクラスは喫茶店をやる予定なんですよ」
楽しそうに胸の前で手を合わせて話す佳乃に、彼は目を細める。
「それは楽しそうだね…僕のことは、誘ってくれないの?」
その言葉に、佳乃はぴたりと歩みを止める。蒼もそれに合わせて、歩くのを止めた。彼女の返事を、じっと待つ。
佳乃は、鞄の中からそっと文化祭のチケットを取り出す。
「ど、どうぞ…」
うつむきがちに手渡されたそれを、彼は嬉しそうに笑って受け取る。
「ありがとう。絶対に行くね」
顔を上げずに、佳乃はこくりとうなずく。
きっと、アルバはこの道をこの時間帯に蒼が通ることを知っていたのだろう。だからこそ、敢えてこの場に自分を置いて行ったのだ。
なかなかの策略に、佳乃は心の中でアルバに対して軽く非難の声をあげる。
(それならそうと言ってくれればよかったのに。心の準備が…!)
バクバクと早鐘を打つ心臓を感じながら、佳乃は柔らかく笑う目の前の初恋の相手を見る。
「当日、もし良ければなんですけど…」
「うん?」
ぎゅっと、佳乃は一度目を瞑る。そして、決心したように開いた。
「私の休憩時間になったら、一緒に回りませんか?案内します!」
頰を染め、緊張した面持ちの佳乃に、蒼は息を呑む。
(だから、わかりやすすぎるよ、三鷹さん)
心の中でそう呟いて、彼は嬉しそうに笑った。
「もちろん、僕で良ければ」
その答えに、佳乃はほっと胸を撫で下ろす。
「楽しみにしててくださいね」
「うん」
ふにゃりと笑う佳乃に、蒼は柔らかく笑った。
佳乃と別れたアルバは、再びNotaを訪れていた。
店内に入ってきたアルバに、アリスは目を丸くする。
「どうしたんですか?佳乃とどこかに行ったんじゃ…」
首をかしげるアリスに一つうなずいて、アルバは微笑んだ。
「ヨシノをあの初恋の男の子に引き合わせるために、彼が普段この時間帯に通ってる場所に置いてきたんだ」
「え?」
予想していなかった返答に、アリスは珍しく眉間にシワを寄せる。
「もう外は薄暗いのに?もし倉木様に合わなかったら、どうするんですか」
非難の色をにじませる問いかけに、アルバは朗らかに笑った。
「大丈夫だよ。念のためこっそり保護魔法をかけておいたから。それに、今日の彼には寄り道する気持ちは一切ないことも確認済みだよ」
抜かりのないその返答に、彼女は呆れたようにため息をつく。
「全く。あなたはいつも急ですね。佳乃に説明はしたんですか?」
それに、彼は首を横に振る。もう一度、アリスはため息をついた。
「あの子にも心の準備というものがあるでしょうに。今度同じようなことをする時は、ちゃんと事前に伝えてあげてくださいね」
「わかったよ。でも、僕は良かれと思ってやったんだから、そんな顔をしないでほしいな。ヨシノ、まだ文化祭のチケットを彼に渡せていなかったんでしょ?」
そう言われて、彼女はうなずく。佳乃は今日蒼が店に来たら渡すつもりでいたのだが、残念ながら彼は店に来なかったのだ。閉店時に、少し落ち込んでいたのを思い出す。
「きっと今頃渡せていると思うよ」
「だといいですけど…とにかく、あまり勝手なことはしないでください」
嘆息まじりに言われ、アルバはあまり反省していなそうな顔でうなずいた。
良くも悪くも、彼はマイペースなのだ。
もう何を言っても無駄な気がして、アリスはアルバのために紅茶を入れ始めた。