土曜日。佳乃は朝からご機嫌だった。今日の夕方、悠斗と共に彼の妹の誕生日プレゼントを作るのだ。何を作るかは、悠斗が決めることになっている。
 まだ昼過ぎなのに、早く夕方にならないかと定期的に時計に目をやる佳乃に、アリスは苦笑し、お茶をしにきていたアルバはおかしそうに笑った。
「佳乃、少し落ち着いたら?今朝からそわそわしすぎよ」
「分かってはいるんですけど…友達とお菓子を作るのなんて、初めてなので。しかも、それを誰かにプレゼントするなんて、わくわくしちゃいますよ」
 きらきらと目を輝かせる佳乃に、アルバが紅茶を一口飲んで言う。
「ヨシノはとてもいい子だね。見ていて和んでくるよ」
 にこにこと笑って、再び紅茶を飲むアルバに、佳乃ははにかむ。やはり直球に褒められると、照れてしまう。
「でも、私も楽しみだわ。佳乃の友達は、一体どんなお菓子を作りたいと言うのかしら」
 アリスの呟きに、佳乃はやはり職業柄そこが一番気になるのだな、と考える。着目点がパティシエールだ。
「そうですね…私もそこら辺は何も聞いてないので、わかりません」
 今思えば、悠斗に妹がいること自体をつい最近知ったのだ。果たして彼の妹は、見ず知らずの人物も手伝ったお菓子を食べてくれるのだろうか。
 あまり深く考えていなかったので、その考えに至った佳乃はさぁっと血の気が引くのを感じた。
 急に顔色を悪くした佳乃に、アリスが心配そうに覗き込む。
「どうかしたの?顔色が悪いわよ」
「いえ、大丈夫です。ちょっと悪いこと考えちゃって。体調が悪いとかじゃないので、心配なさらず」
 そんな時、ドアベルが店内に響く。
「いらっしゃいませ」
 いつものように来店者を出迎える挨拶を口にして、佳乃は入ってきた人物に目を丸くする。
「こんにちは…ん?」
 入ってきたのは蒼だった。彼は、いつものように佳乃に挨拶をすると、彼女の顔色を見て首をかしげた。
「三鷹さん、体調悪い?大丈夫?」
 あっという間に距離を縮めて心配そうに瞳を覗き込まれて、佳乃は先ほどとは真逆に、顔を赤くする。
「え、あ、はい!大丈夫です。体調が悪いわけじゃなくて、ちょっと嫌なこと考えちゃっただけなので!!」
 慌ててささっと後ろに身を引いた佳乃に、蒼はそっかとうなずく。たしかに体調が悪いわけではないようだ。
「…迷惑じゃなければ、話してくれないかな?」
 大抵の女性なら、優しく笑って小首をかしげてしまえばすぐにその悩みを話し始めるのだが。
 佳乃は大きく首を横に振った。
「大丈夫です。自分で解決してみせますよ!倉木さんだって、何か悩みがあるでしょうし、私の話聞いていただく義理もありません」
 彼女の返答に、蒼はおかしそうに笑い始める。
 ほら、やっぱりこの子は面白い。今まで出会ってきたつまらない、自分の顔しかみない女たちとは違うのだ。
「えぇ…私、また何かおかしなこと言いました?」
 以前と同じように目の前で笑い続ける蒼に、困惑して佳乃はそれを静観していたアリスとアルバに問いかける。
「あはは、彼にもいろいろあるんだよ、きっと」
「変わったツボをしているんだと思って、少しの間放っておきなさい。大丈夫よ」
 アルバはともかく、しれっと仮にも客に対して失礼なことを言い放ったアリスに、佳乃はさらに困惑した。そうは言われても、本当に放っておいていいのだろうか。
「あ、あの、倉木さん」
 笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、蒼は佳乃へと目を向ける。
「もしお時間があるなら、イートインスペースで何か食べて行きませんか?ちょうど今なら空いてますし」
「うん、そうさせてもらうよ。そうだ、君に伝えようと思ってたんだけど、おすすめしてくれたシフォンケーキ、すごく美味しかったよ。できれば、今日もおすすめを教えて欲しいな」
 それに、彼女は嬉しそうに笑った。
「それならよかったです!はい、では少し待っていてくださいね。あ、先に先におかけになっててください」
 慌ただしく厨房へとお冷をとりに行った佳乃を微笑ましく思いながら、蒼は彼女が戻るまで素直に先に座った。


 待ちに待った夕方、なはずだった。先ほどまでは蒼やアルバと談笑していたおかげで気が紛れていたが、いざもう少しで悠斗が来るとなると、少し気まずいのだ。
 といっても、先ほどの考えは本人に言われたわけでも何でもなく、ただ勝手に佳乃が考えているだけのものに過ぎないのだが。
 早鐘を打つ心臓を必死に押さえつけながら俯いている佳乃に、アリスが声をかけようとしたところでドアベルが鳴ってしまう。
「こんちは…」
 入ってきたのは案の定悠斗だった。既に店のドアには「close」の看板がかけてあるのだから、当たり前なのだが。
「こんにちは。あなたが佳乃のお友達?」
 ひとまず悠斗の挨拶に答えて、アリスは念のため確認する。それにうなずいてから、佳乃へと視線を移した。
「あの、三鷹どうしたんですか?ずっと俯いてるんですけど…」
 心配そうに佳乃を見つめる悠斗に、アリスは困ったように眉を寄せる。
「それが私にもわからないのよ。体調が悪いのか聞いても、大丈夫です、の一点張りで」
 頰に手を添え、同じように心配そうに佳乃を見つめるアリスに、悠斗は一つうなずいて考えるように目を伏せた後、彼女に近づいていった。
「三鷹、なんか気にしてることがあるんだろ?言ってみ?」
 下から覗き込み、目をじっと見つめてくる悠斗に、彼女は少し逡巡したあと小さくうなずいた。
「えっと…すごい今更なんだけど、妹さん、知らない人が作るのを手伝ったお菓子なんて、食べたくないんじゃないかなって思って。せっかくの誕生日なのに、不快な気分にしちゃったらダメでしょ?」
 考えてもみなかった観点からの指摘に、思わずアリスと悠斗は顔を見合わせる。
 悠斗は、佳乃に対して呆れたような顔をした。
「あのな、お前気にしすぎだって。俺の妹、そんなに神経質な奴じゃねぇよ。それに、それ言っちゃったら、世の中のお菓子好きの人たちはみんな、『知らない人』が作ったもんを食べるんだから、キリないぞ?」
 彼の言っていることを、ゆっくりと頭の中で解いていく。
 よく考えてみれば、たしかに自分でも知らない人が作ったお菓子を平然と食べている。そもそも最近では、それを作ったのは人ですらなく、機械というケースも多い。
「た、たしかに…頭いいね、岬くん」
 ひどく納得したようにうんうんとうなずく佳乃に、彼は苦笑する。
「えぇ…こんなことで褒められてもあんま嬉しくないんだが」
 それもそうかもしれない。なんだか急にそれまでの考えがおかしく思えてきて、佳乃は笑った。悠斗の言う通り、気にしすぎだったようだ。
 ようやく笑顔を見せた佳乃に、彼はほっとしたように胸を撫で下ろす。
「解決したようでよかったわ。それじゃあ、本来の目的に移りましょうか」
 二人のやりとりを見守っていたアリスが、にっこりと笑う。それに、二人はうなずいた。

 アリスは変わらずコックコート、佳乃は普段どうりアリスから渡されているエプロン、悠斗は持参した青いエプロンを身につけて、準備は万端だ。
「それで、岬くんは何を作ろうと思ってるの?」
「ティラミスを、作りたいと思ってる。妹が一番好きなんだ」
 ちらりとアリスを見る。
「俺、菓子作りなんてしたことないんです。ティラミスなんて難しそうなやつは、やっぱり無理ですかね」
 苦笑する悠斗に、彼女は緩く首を振った。
「そんなことはないわ。ティラミスって、一見作るのが難しそうに感じられるかもしれないけど、案外簡単なのよ」
 言いながら、アリスは次々にティラミスに必要な材料を台の上に用意していく。
 道具まで全て用意して、彼女はにっこりと笑う。
「では、始めましょうか」
 それにうなずいてから、佳乃はとても重要なことを思い出した。
 アリスは、ことお菓子作りになると、途端にスパルタになるということを。


「「うぅ…」」
 アリスのスパルタにより、佳乃と悠斗はイートインスペースの座席で突っ伏していた。
「お疲れ様」
 ことりとおかれた冷水を、二人は一気に飲み干す。今は穏やかな笑みを浮かべているが、先ほどまではその笑顔に有無を言わさない圧があった。
 作り終えたティラミスは、冷蔵庫に入れてある。悠斗が帰るときに持ち帰る予定だ。
 ちなみに、佳乃もちゃっかり自分の分を作っていたので、後で家族と共に食べるつもりだ。
「…にしても、まさか本当に自分でティラミスが作れるとは思ってなかったよ。きっかけを作ってくれてありがとな、三鷹」
 頰付けをついて言う悠斗に、佳乃は緩く首を振る。
「どういたしまして。でも、私もこんな機会なかったらティラミスなんて作らなかったろうし、逆によかったよ」
 ほぅと完全に脱力している佳乃の頭に、悠斗はごく自然な流れで手を置いた。
「疲れたな〜。よしよし」
 きっと、彼としては無意識の行動なのだろう。だが、佳乃としては少し、いや、かなり恥ずかしい。
「…わぁ」
 なんとも言えない声をあげて、徐々に顔に熱が集まっていくのを感じながら、佳乃は振り払えぬままされるがままになる。
 これは、どうするのが正しいのだろうか。
 アリスに助けを求めようにも、彼女は今、厨房で先ほど自分たちが作ったティラミスをラッピングしてくれている。
 このまま一定のリズムでぽすぽすと頭を撫でられ(?)続けるのは、いろんな意味で辛い。
「あ、あの、岬くん」
「ん?」
 少し言いづらそうに口を開いた佳乃に、彼は不思議そうに首をかしげる。
「頭…私は、妹さんじゃないよ?」
 言われて数秒、悠斗は硬直した。そして、そっと手を下ろす。
「あー…悪い。つい癖で」
 今度は彼が顔を赤くしている。相当恥ずかしいのだろう。
「ううん、大丈夫。気にしてないよ。結構心地よかったしね」
 苦笑混じりにフォローをされ、悠斗はとても複雑そうに顔を歪めた。
「少しは気にして欲しいんだが。うん、まぁいいか」
 と、目の前に綺麗に包装されたケーキ用の箱が置かれた。
「はい、さっき二人が作ったティラミスよ。手作りだから、なるべく早く食べてね」
 今のやりとりを見られていたのかいなかったのか、なんとも微妙なタイミングでやってきたアリスに、二人は顔を見合わせ複雑そうな顔をする。
「アリスさん、いつからそこに…?」
「さぁ、いつからでしょうね」
 しれっとしらばくれた様子のアリスに、佳乃は見られていたことを確信する。穴があったら入りたいくらいだ。だがそれは隣にいる悠斗も同じ気持ちなはずなので、我慢しよう。
「さて、二人ともそろそろ帰りなさい。もう7時過ぎよ」
「え」
 驚いて時計に目をやると、たしかに夜の7時を過ぎていた。夕方から始めたはずなのに、ずいぶんな時間が経っていたようだ。
「こりゃまずいな。三鷹、送ってくよ」
「あ、うん。ありがとう」
 立ち上がり、お互いに身支度を済ませていく。
 終わってから、悠斗がアリスに頭を下げた。
「今日はわざわざありがとうございました。今度、妹連れてまたきますね」
「ええ、楽しみにしてるわ。気をつけて」
 柔らかく笑うアリスに、佳乃も軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。また明日、アリスさん」
「また明日」
 ひらひらと手を振るアリスに見送られて、二人は店を後にした。


 佳乃の自宅までの道のりを軽く談笑しながら歩いていると、悠斗が何かを思い出したようにおかしそうに笑った。
「にしても、あの店長さん見かけによらずめっちゃスパルタだったよな。人を見かけに判断しちゃダメって言う言葉が、よぉく身に染みたよ」
 それにつられて佳乃も笑う。
「ふふっ、私もこの前クッキーを作ったときとか、すごい大変だったんだよ。あの時は比較的時間があったから、何回もやり直しして、やっとおっけいもらえたの」
 身振り手振りをつけて一生懸命その時の苦労を伝えようとする佳乃に、悠斗はさらにおかしそうに笑った。
「そりゃ大変だったな。いやぁ、美人の笑顔の圧力はおっかないことがわかったわ」
「うんうん。やっぱり、顔立ちが整ってる分怒ったりすると怖いんだろうねぇ。あれ、でも岬くんアリスさんのこと見ても、あんまり驚かなかったよね」
 彼が入店してきた時のことを思い出し、彼女は不思議そうに首をかしげる。それに、悠斗は微妙な顔をした。
「あー…まぁもちろん、美人だなぁとは思ったけど」
 と、佳乃をじっと見つめる。
「好みじゃなかったというか?あんまり気にすんな」
 苦笑した悠斗に、さらに深く首をかしげてから、佳乃はうなずいた。
 あの美貌でさえも好みじゃないのか。
「岬くんってすごい面食い?なんだね」
「ぶっ…!」
 予想外の言葉が佳乃の口から飛び出してきて、彼は吹き出した。
「おま、面食いって…それは違うだろ。というか、今わかって言ってんの?それ」
「うーん…たぶん」
 曖昧な返答に、彼は呆れたように笑った。
「お前はそのままでいてくれ。もうそれが一番いい気がしてくる」
 ぐっと親指を立ててくる相手に、彼女は再び首をかしげる。どういう意味だろう。
「あ、そういやその作ったクッキーってのは誰かにあげたのか?浅黄とか」
 何気なく書かれたその問いかけに、彼女はぴしりと音を立てて固まる。その反応に、今度は悠斗が首をかしげた。
「三鷹?」
「えっと…その、好きな人に」
「え…?」
 悠斗もまた、同じようにして固まる。
「お前、好きな人いたの…?」
 なぜかひどく緊張した声音に、佳乃は不思議に思いながらもうなずく。
「夏休みに倒れたところを助けられて…初恋、かな」
「へ、へぇ…」
 そして少し考え込んでから、覚悟を決めたように目を細める。
「やっぱ前言撤回だわ。お前もうちょっと危機感とか持ったほうがいいかも」
「えぇ…」
 その言葉の意味がわからずに、佳乃は困惑の声を上げる。悠斗はそれに、苦笑した。
「ごめんな」
 どうして謝るのだろう。謝罪の意味がわからずに、佳乃は首をかしげる。それにはなんの反応も示さずに、彼は空を見上げた。
 星のない空に真ん中に、丸い満月が煌々と輝いていた。