第2章 その妹

 演奏会場となる建物に近づくと、入口の近くに坂田の姿が見えた。意外なことに坂田は女をつれていた。坂田からは知らされていなかったが、妹をつれて来たらしいとすぐに察しがついた。
「わるいな、待たせたか」と僕は声をかけた。「妹さんか」
「ああ、せっかくだからつれてきた。妹のエリだ」
 なぜか照れたような表情を見せながら坂田が紹介すると、その妹は、「はじめまして、エリです」と言って、かるくおじぎした。きれいな眼がまぶしかった。
「俺よりも妹のほうが楽しみにしていたんだ、今日の音楽会を」
「クラシックは初めてなんです。一度は聴いてみたいと思って、兄についてきました」
 つつましやかな口ぶりだった。そのものごしに、控えめな性格が表われていた。
 建物の入口を入ったところで、2階の座席へ向かう坂田たちと別れることになった。
「それじゃ、あとで」と僕は坂田に向かって言った。
 僕はその妹にも声をかけようとして、どのように呼びかけようかと考えた。そのとき、その妹が笑顔を見せて、「エリです」と言った。僕はその言葉に誘われるように「エリさん」と呼びかけ、「クラシックなんて、気楽に聴けばいいですよ。聞こえてくる音を聴いてるだけでいいんだから」と言った。
 開演を待ちながら僕は思った。坂田といっしょに飲んだとき、坂田は妹を紹介すると言っていた。坂田は妹を紹介するつもりでつれてきたのかもしれない。機会をみて、佳子のことを坂田に知らせよう。
 演奏会がおわったあと、僕たちは会場の外で落ち合った。
「どうだった、坂田」僕は坂田に感想をもとめた。「会社のCDで聴くのと違ってたか」
「演奏するのを見ながら聴くのもいいもんだな。だけど、楽器を演奏している人の動きに気をとられるんだよな、俺は」
「珍しいからだろ」
「終わる頃には眠かったけどな。でも良かったよ、クラシックの音楽会というものを体験できて」
「俺だって、家でLPを聴くときには、しょっちゅう居眠りしてる。演奏会で眠るなんていうのは最高のぜいたくだよ」
 絵里が笑った。遠慮ぶかそうな小さな声だった。

第29話
 絵里を見ながら坂田が言った。「松井、どこかに寄らないか。せっかくだからさ、絵里に音楽のことを話してやってくれよ」
 喫茶店をさがしながら地下鉄の駅に向かっていると、駅の入口に近いところでようやく見つかった。
 コーヒーカップを手にしたまま、僕はその日の演奏会の解説をした。オーケストラの特徴や演奏曲目のこと、さらには作曲家のことなど。僕の向い側が坂田で、そのとなりが絵里だった。絵里はきれいな瞳を輝かせながら、僕の話にだまって耳をかたむけていた。
 いつのまにか、坂田に向って話しかけているときですら、僕は絵里に聞かせるために話しているような気持になった。
「だったら、わたし、ラフマニノフよりも以前の人が作った曲も聴いてみたいですね」と絵里が言った。
「テープにダビングしてあげるよ、絵里さんが気に入りそうなのを。さっきも話したんけど、絵里さんのラジカセだったら、ヘッドフォンで聴いたほうがいい音で聴けるからさ、音質のいいヘッドフォンも貸してあげるよ」
「うれしいです」絵里が僕を見つめるようにして言った。「ありがとうございます」
「どんなのにしようかな」僕は絵里の気に入りそうなものを考えた。「さっき聴いたようなピアノ協奏曲ということで、シューマンとショパンのにしてみようか。他にも何か考えとくよ」
 音楽の話がしばらく続いたあとで、銀行のことが話題になった。絵里が語った職場での体験談は、銀行の内部のことを知らない僕にはめずらしく、そして面白かった。
 喫茶店でのひとときを、僕はうかれたような気分ですごした。自分に向けられた絵里の笑顔を意識して、僕はいつになく冗舌だった。
 絵里がひかえめな性格だということは、最初に言葉を交わしたときにわかった。絵里のものごしやその口ぶりに、そして、笑顔の中の美しい眼に、誠実で優しい人がらがにじみ出ていた。そんな絵里が僕には好ましく思えた。絵里が僕の心に残したものはそれだけではなかった。僕は気がついていた、絵里もまた僕に対して好意を持ってくれたということに。佳子という存在がありながら、ほかの女から好意を持たれたという意識が、僕をうわついた気分にしていた。

 どんなに実験をくり返しても、成果らしいものはほとんど得られなかった。とはいえ、僕は実験装置の取り扱いにすっかり慣れて、小宮さんから試作の作業をまかされるようになっていた。
 僕と小宮さんは時おり吉野さんの職場をたずね、実験データについての意見を聞いた。吉野さんは親切に指導してくれただけでなく、あとで電話をかけてきて、自分の意見を補足するようなこともあった。吉野さんは自分の仕事で忙しかったはずだが、いつでも気さくな態度で相談に応じてくれた。
 僕には月曜日の会議が疎ましいものになった。野田課長はいらだちを隠さず、きつい言葉で課員を責めた。野田課長のそのような姿に、僕は疑問をいだきはじめた。
 僕の課の四つのグループは、いずれも困難な技術上の課題をかかえていた。困難な課題だからこそ開発に意義があるはずだが、そのような開発が予定通りに進むとはかぎらない。試作の遅れにいらだつ野田課長の姿とその言動に、僕は憎しみすら覚えるようになった。
 実験室で小宮さんとふたりきりになったとき、僕は野田課長に対する不満をぶちまけた。
 僕の言葉に同意した小宮さんは、「野田さんは猛烈社員流のやり方から抜け出せないんだよ」と言った。
「こんなにがんばってるんだから、僕たちだって猛烈社員じゃないかな」
「もちろん、おれたちだって随分がんばってるさ。だけどな」と小宮さんが言った。「目標に向かってがんばるのと、野田さんみたいに無理な計画を立てて、それを達成するためにがんばるのとは違うはずだろ。ああいうのを猛烈社員型って言うんじゃないのかな」
「猛烈に働いて、たくさん作ってどんどん売って、それで日本は豊かになったわけですよね。だけど、日本人の生活というのはそれ程でもないんでしょ。外国とくらべて住宅が狭すぎるし、通勤には時間がかかりすぎるし。新聞や週刊誌にはそんなことが載ってますよね。日本の誰なんだろう、豊かになったのは」
「会社だろ、もちろん。あのグラウンドを見ろ。土地を買ってあんなに広くしたじゃないか。だけどさ、一番得をしているのはアメリカ人じゃないのかな。誰かが言ってたぜ、日本人はアメリカ人の豊かな生活のために、汗水たらして働く奴隷みたいなもんだって」
 そんな記事か論説を読んだことがある、と小宮さんは言った。企業は互いに競争し、良い製品を少しでもやすく作ろうと努力する。その競争にまき込まれた日本人が汗を流して作った製品を、アメリカやヨーロッパでは豊かな生活のために使っている。それにひきかえ、日本人は努力したほどには報われていない。勤勉に働くことは日本人の美徳であるにしろ、それが自分たちに還元されていないのであれば、それは奴隷の労働に似たものである。小宮さんによれば、日本人奴隷論というのはそのようなものであるらしかった。
 僕は小宮さんと議論した。実際のところ、今の日本人のおかれた状態はどのようなものなのか。確かに今の日本人には奴隷的な要素がある、と小宮さんは主張した。
「もしもそれがほんとなら、急いでリンカーンを見つけて来なきゃならないですね」と僕は言った。
「誰かがリンカーンにならなくちゃならないんだよ」
「労働組合ってリンカーンにはなれないのかな」
「いまの組合がやれるのは、せいぜい奴隷の待遇改善だろう」と小宮さんは言った。「やっぱりさ、おれたち日本人が変わらなきゃだめなんだよ、奴隷のような状態から脱却するには。どっかの誰かによって解放されるってもんじゃないだろ、そういうのは」
 たしかにその通りだと思った。日本を住みよい国にしたいというのであれば、自分たちが真剣に考えるほかはないだろう。政治について坂田と話し合ったことが思いだされた。

 昼食をとっている間に雨が強まっていた。社員食堂から僕の職場までは50メートルもなかったが、その距離を走ることすらあきらめさせる雨だった。食堂の出口付近にはたくさんの社員がたむろしていた。
「このようすだと、しばらく待つしかないだろう。中に入ってコーヒーでも飲みながら話さないか」
 いつのまにか坂田が横に立っていた。
 自動販売機のそばで紙コップを手に立ち話をしていると、坂田がとうとつに先日の演奏会のことを持ちだした。絵里は演奏会のことをとても喜んでおり、そのような機会をさらに持ちたがっている、ということだった。僕はそれを聞いて、佳子の存在を知らせなければならないと思った。
「実はおれのつき合っている人も音楽が好きなんだ。埼玉に住んでいるから、いっしょに演奏会に行くことはめったに無いけどな」
 僕の話したことに意外な感じを受けたらしく、坂田はとまどったような表情を見せた。
「そうか・・・・でもいいじゃないか、音楽会に行く程度の浮気なら。お前にはつき合っている人がいること、家に帰ったときに絵里に話すよ。がっかりするだろうけどな」
 坂田の「がっかりするだろうけど」という言葉が僕の胸にさざ波をおこした。甘美な想いを伴うさざ波は、ここちよく拡がりかけたけれども、すぐに不安を伴う予感がそれを抑えた。自分の心の不確かさをかいま見たような気がした。僕は佳子に対してうしろめたさを覚えた。
 僕は心の揺れをおさえて言った。「絵里さんが聴きたがってるなら、もちろん喜んでつき合うよ。おれだって、一人で聴きに行くより、絵里さんといっしょの方が楽しいからな」
 演奏会の日の別れぎわに、絵里は「もしも迷惑でなかったらですけど、いつかまたいっしょにお願いできますか」と言った。絵里の遠慮ぶかそうな声と笑顔を前にして、僕は喜んでつき合うと答えたのだった。絵里が望んでいるというのであれば、それを拒むわけにはいかないと思った。
 多少のこだわりはあったけれども、僕は絵里の希望に応えることにした。そして、僕は自分に向って言いわけをした。約束通りに絵里を演奏会につれて行き、そのついでに自分も楽しいひと時をすごすのだ。そのことに問題があろうはずはない。いったんその気になると、なるべく早く絵里を演奏会につれて行きたくなった。
 その日は夕食を終えるとすぐに自分の部屋に入り、プレイガイドに立ち寄るたびに持ち帰っていた、演奏会に関わる資料を取りだした。さがしてみると、どうにか良さそうなのがあったので、電話で坂田にそのことを伝えた。
 坂田を介して絵里の都合をたしかめてから、つぎの日の夕方には入場券を買った。演奏会まで四日しかなかったので、良い席はすでに売りきれていた。

 その日の演奏会に、僕はめずらしく早めに出かけた。会場の入口で絵里を待たせるようなことをしたくなかった。
 待つほどもなく、白いブラウスを着た絵里の姿が見えた。壁にもたれていた僕のまわりには、知人を待っているらしい人が立ち並んでいたから、絵里には僕の姿が見えなかったのだろう。僕に見られていることに気づかないまま、絵里は軽快な足どりで近づいてきた。白いハンドバッグを手にした絵里がとても清楚に見えた。
 絵里が近くまできてから、僕はもたれていた壁をはなれた。僕に気づいて、絵里はおどろいたような表情を見せたが、すぐににこやかな笑顔をうかべた。
「ごめんなさい、待ちましたか」
「いや、ちょっとだけ」と僕は答えた。「たまには早く来て、どんなだか試してみようと思ったんだ」
「試すって・・・・」絵里はとまどいを見せたが、すぐに笑顔で続けた。「それで、どうでしたか、早く来てみたら」
「待つことも案外に楽しいということがわかったよ。絵里さんがどんな風に現われるのか想像したりしてさ」
「期待にそえましたか、こんな現れ方で」
 絵里は両うでを左右に開きながら言って、そんな自分のしぐさをはにかむみたいにほほ笑んだ。いきなり、絵里がそれまでよりも身近で親密な存在になった。笑顔のなかのきれいな眼が、それほど眩しくはなくなった。
「絵里さんを見ていたら、演奏会に期待していることがよくわかったよ。ここへ向かって一所懸命に歩いてくるみたいだった」
「わー、はずかしい」本当にはずかしそうな表情を見せて絵里は笑った。「この次は松井さんよりも先に来なくっちゃ」
 うちとけたもの言いをしながらも、絵里の笑顔にはまだ堅さが残っていた。そんな絵里を見ていると、いたわってやりたいような気持ちになった。