父がオーディオ装置を買い替えたとき、古い装置は僕の部屋に置くことになった。音楽好きの父が使っていたものだから、その装置の性能はかなりのものだったに違いない。いずれにしても、そのことがきっかけになって、僕は音楽に親しむようになった。僕は小学校の6年生だった。
最初のうちはラジオを聴くだけであったが、それもしだいにFM放送のクラシック音楽を聴くことが多くなった。中学生になったころには、父が集めたLPレコードのいくつかが僕の愛聴盤になっていた。
音楽を聴く楽しみが深まるにつれ、僕はオーディオ装置そのものに対して強い関心を抱くようになった。オーディオマニアの従兄に相談しながら、アンプやテープデッキの内部を観察したり、従兄がゆずってくれた真空管アンプを使ってスピーカーを鳴らしてみたりした。そのうちに、それだけではあきたりなくなって、従兄と同じようにアンプなどを自分で作りたくなった。そのためには電子回路に関する知識を身につける必要があった。
中学1年生の2学期がおわるころ、従兄が選んでくれた参考書を頼りにして、電気についての勉強を始めた。電気に関する入門書だと聞かされていたけれども、僕には随分むつかしかった。苦労しながらの勉強であったが、つらいとは少しも思わず、むしろそれを楽しんでいた。そのような僕の姿が、父と母はむろん兄をも驚かせ、それにもまして喜ばせることになった。その頃の僕は勉強ができず、家族に不安を与えていたからだ。
僕は興味のあることには熱中できたけれども、そうではない対象に対しては、集中力の維持がむつかしかった。おそらくそのために、まともな成績は一部の科目だけだった。まだ小学生の頃、僕はすでに自覚していた、自分は能力的に劣っているらしい、と。そのような僕が電子回路を学ぼうという気持になれたのは、まともな成績の科目が少しはあったからだろう。幸いにもと言うべきか、僕は小学生の頃から電気に対して強い興味を抱いていた。テレビは番組を楽しむためのものであるだけでなく、それ自体が好奇心の対象でもあった。遠くのできごとが眼前に映しだされるのはどうしてだろう。テレビを発明したひとは、どのようにしてそれを発明したのだろうか。そのような僕の好奇心は、理系の多くの事物や事象に対して向けられたのだが、なかでも電気は特別な対象だった。オーディオ装置を作りたかったのは、自作の装置で音楽を聴いてみたかったからだが、電気で動作するオーディオ装置に対する関心が、強く背中を押してくれたからでもあった。
電気の勉強を始めてから数か月を経た頃、電気に関する僕の知識は中学生のレベルを越えていた。僕はいつのまにか、能力的に劣っているとの思いこみから抜けだし、むしろ自分の能力に自信を抱くようになった。中学2年生の1学期には学習塾に通うことをやめたが、僕の成績は急速に向上していった。成績が良くなるにつれて、高校への進学に対する意欲が高まった。それだけでなく、将来の大学進学をも意識しはじめた。3年生になってからは、電子回路の勉強を中断して、受験勉強に全力をそそいだ。そのような努力をした結果、中学校を卒業するころには、成績優秀者のひとりになっていた。
高校生になると、参考書を読むだけではあきたりなくなって、こづかいを貯めては電子工作に励むようになった。オーディオをきっかけにして入った道だが、高校時代に作ったのは、トランシーバなどの実用品だった。
電子回路の独学が、数学などの成績をおし上げてくれたけれども、不得手な教科がいくつかあったので、大学の受験では1年ほど浪人生活をした。
大学に入って2年が過ぎたころには、将来の就職希望先がすでに決まっていた。音響機器や映像機器を製造する会社で、父が愛用していたスピーカーのメーカーでもあった。僕はどうしてもその会社に入りたかった。筆記試験につづいて行なわれた面接試験では、それまでに蓄えていた知識を披瀝しながら、スピーカーの開発に対する意欲をけんめいにうったえた。そのような働きかけが功を奏したのだろうか、望みがかなって採用されることになった。
そして、僕は大学の電子工学科を卒業し、かねてから希望していた会社に入社した。ぶじにそこに就職することができたので、その会社でスピーカーを開発したいという夢をなかば実現できたような気がした。
通勤を始めてから苦労したのは朝寝坊のくせだった。目覚まし時計を手の届かないところに置いて、ベルをとめた後でふたたび眠ることがないようにするなど、自分なりに努力をしていたのだが、母が用意してくれた朝食をとらずに家を出ることもめずらしくはなかった。
毎朝7時に家を出てバス停に向かった。三鷹市の南はずれで深大寺にも近いその辺りには、いなか町に似た風情があって樹木が多い。通勤を始めてからしばらく経つと、道すじの眺めはあわただしく変わった。家々の庭の落葉樹が葉をひろげ、生け垣の花が道をかざった。幼い頃から通いなれた道だが、朝の光のなかで見るその光景は新鮮だった。それはおそらく、そのような時刻に外出したことがなかったからだろう。
三鷹駅で下りの電車に乗ったあと、さらにバスを乗りついで工場についた。そこまで付きそってきた寝不足感をふりはらい、気持ちを引き締めて僕は工場の門を入った。
坂田とはじめて言葉を交わしたのは、入社して三日目のことだった。新入社員研修が始まり、学生気分の残滓を払い落とされた日だ。
ひとつのプログラムが終わった休憩時間に、隣の席で資料を見ている仲間に話しかけてみた。それまで互いに口をきかなかったが、気さくな口調で応えてくれた。胸につけた名札に坂田とあった。
その会社を選んだ理由や、仕事に対する夢を語り合っているうちに、僕と坂田は意気投合し、研修はいつも並んで受けるようになった。
坂田も東京の生まれで、大学は違うけれども、僕と同じように電子工学科を出ていた。家族と暮らしていた墨田区からでは、通勤に時間がかかり過ぎるということで、坂田は工場に近い独身寮に入っていた。
初めての給料が振り込まれた日に、僕は坂田と飲みにでかけた。渡された給料袋には明細書しか入っていなかったけれども、記念すべきその日を坂田と祝いたかった。
飲み歩いた経験を持たなかった僕と坂田は、立川の街をうろついたあげくに、学生がコンパの後で入りそうな雰囲気の店に入った。
僕たちはビールを飲みながら話し合った。日本が工業国として発展し続けようとするのであれば、企業間の競争がいかに激しかろうと、製造業で働く者を経済的にもっと優遇すべきではないか。
「ほんとはな、おれも少しは興味があったんだ、もっと給料がいいところに」と坂田が言った。「銀行なんかに入ったのも結構いるんだよ、おれの同期の奴にも。データや情報の処理をやるんだろうけどな」
「コンピュータをやるしかないだろな、おれたちが銀行に入ったとしたら。お前には向いてないような気がするけど」
「だからやめたよ、そういうところは。せっかくいろんなことを勉強したのにさ、好きでもないコンピュータの仕事に限定されたくないからな」
「4年もかけて仕入れた知識だからな」と僕は言った。
そうは言ったけれども、僕はそれほどまじめな学生ではなかった。朝寝坊の僕は1時限目の講義をほとんどさぼっていた。
「お前もおれも技術者になるわけだが」僕にビールを注ぎながら坂田が言った。「どんな奴だろうな、技術者になりたがるのは」
僕は坂田と議論した。理科系と称される人は、どうしてそのような道を選ぶのか。
人には好奇心があるから、理系の学問は誰にとっても興味深いはず。だが、理系の学問を学ぶには、系統的に知識を積み重ねてゆく必要があるため、欠かすことのできない知識のどこかに不足した部分があると、その先へは進めなくなることがある。そのようなとき、欠けている知識を補充した上で、さらに前に進もうと努めるような人が、理系人間と呼ばれるのではないか。その人たちがそれを理解したいという気持ちに駆りたてられるのは、理系の学問に適した才能に恵まれているからというより、理系の事象や学問に対する興味に強く背中を押されるからだろう。
僕は自分自身の体験を語った。中学1年生まではまったくの成績劣等生だったこと。オーディオに対する興味におされて始めた電気の勉強が、僕に自信をもたらす結果になったこと。
僕の話を聞いて坂田は言った。「今の日本では、小学校や中学校で落ちこぼされたら、そこから這い上がるのに苦労するわけだが、落ちこぼされている子供の中には、お前みたいなのがたくさんいるのかも知れないぞ。先生の話をろくに聞かずに、自分が興味を持っていることだけを考え続けているような子供が。そんな子供はほんとうは普通以上に集中力があっても、勉強する気も能力もないと決めつけられるんじゃないのかな、いまのような偏差値教育の中では」