試作は進んでいたものの、商品化を阻む壁にぶつかり、小宮さんとともに残業をする日々が続いた。
 晴れた日には、昼の休憩時間にひとりで屋上にゆき、人家とビルが混在する街の風景や、遠くに見える山並を眺めた。屋上から見える会社のテニスコートでは、ラケットを手にした社員たちが走りまわっており、女子社員たちのはなやぐ声が聞こえた。かん高い歓声が聞こえてくると、佳子や絵里のことが想われた。
 会社にいる間にも、佳子と絵里のことは心にうかんできたが、そのことが仕事のさまたげになるようなことはなかった。実験や測定に取り組みはじめると、僕はそのことに集中できた。
 アイデアが閃いたのは、自動販売機の横でコーヒーを飲みながら、はげしい雨を眺めていたときだった。アスファルトをたたく雨がしぶきをあげていた。風が吹き過ぎると、しぶきの層が地表付近を霧のように流れた。霧のように見えているところは、雨滴にしぶきが加わっているのだから、その分だけ空間の水分量が多いのだ、と思ったとたんに、僕の中で閃くものがあった。僕は紙コップを手にしたまま職場にかえり、小宮さんをせきたてて会議室に入った。
 僕は白板に向かって、思いついたばかりのアイデアを記した。アスファルトで跳ね返る水滴の動きをヒントに、CVD装置内でのガス分子の動きを類推し、それをもとに試作方法を変更しようとする案だった。そのアイデアを小宮さんは即座に受け入れた。そのまま会議室で実験方法を検討し、1時間ほどで試作案を作った。
「よし、これで決まった」と小宮さんが言った。「今日のうちに準備しておいて、あしたから作ってみよう」
 それから一週間後には、厚かった壁を崩せる見通しが得られた。さらに一週間が過ぎた頃には、スピーカーユニット用の評価サンプルを作ることができた。
 評価試験の結果は満足すべきものだった。小宮さんとの努力が実を結ぼうとしていた。その材料を使ったスピーカーが実用化され、それを組み込んだシステムが製品になったら、それを手にいれて音楽を聴いてみたいと思った。
 それから先のおもな仕事は、生産に移すうえでの問題点を解決することと、試作品と同じものを安定して作れるようにすることだった。解決しなければならない課題は残っていたが、見通しは明るかった。
 僕が新しい目標を意識するようになったのは、試作に成功してから間もない頃だった。試作の仕上げに力を注ぎながらも、その一方で、スピーカーシステムを開発してみたい、という気持ちが芽ばえていた。その仕事に移れば野田課長のもとを離れられるので、新しい目標を僕は次第に強く意識しはじめた。それまでの仕事にはゴールがすでに見えていたから、担当業務を変えてもらえる可能性はありそうに思えた。

 事務室で実験データをまとめていると、池田からの電話があった。
 特別な用件はないと言いながらも、池田はなぜか僕に会いたがっていた。池田が大学院の入試に合格したことがわかったので、合格祝いということにしておごることにした。
 その日は残業をしないで、池田と会う約束の新宿駅へ向かった。
 どうしたわけか、池田には元気がなかった。おごるから一緒に飲もうと誘ったのだが、池田が望んだのはコーヒーだった。
 駅に近い喫茶店の片隅で、池田は大学院でつかもうとしている夢を語った。博士課程まで進んで将来は大学に職を得るつもりだと聞いて、池田らしい選択だと思いながら僕は声援をおくった。
「ところでな、松井」と池田が言った。「おまえには付き合っている人がいたはずだが、まだつき合ってるのか、その人と」
「どうしたんだよ、いきなり。お前はまさか、あのひとと別れたんじゃないだろうな」
 学生時代の池田にはつき合っている女がいて、結婚を前提にした付き合いをしていた。彼らといっしょに過ごす機会があったので、僕はその人と言葉をかわしたことがあった。活発すぎるようなところはあったけれども、とても感じの良い人だった。意外なことに、池田はその女と別れるつもりだと話した。理由を聞いても池田は答えなかった。
「よくそんな気になれたな」と僕は言った。「別れるといっても、簡単にできるものじゃないだろう」
「いろいろあるだろ、人それぞれに」
「人それぞれと言っても、あの人は納得してるのか」
「まだ話してないからな、あいつには」
「別れたくないと言ったらどうするんだ」
「おれはもう決めたんだ」
「いくらなんでも、あの人の気持を確かめもしないで決めたりはしないだろうな」
「あいつのことも考えたさ、もちろん」
「結婚するつもりだったんだろ」
「おれにはそんな気はない。あいつだって、最初からそんな気は無かったと思う」
 ずいぶん身勝手なことだと思った。池田の考え方に腹が立ったが、すぐにうしろめたいような気持ちになった。佳子と別れようなどとは思ってもいなかったが、自分には池田を非難する資格など無さそうな気がした。
 しつこいとは思いながらも、僕は「あの人は、お前にはもったいないくらいだぞ。よく考えたほうがいいぞ」と言った。
「言っただろ。おれはもう決めたんだ」
 池田の口調にはその話題を拒絶するような響きがあった。
 そのあとで、大学院のことがふたたび話題になったが、池田からは、会話に対する意欲が感じられなくなっていた。
 池田と別れたあとで考えたのは、時間をかけて話し合った大学院のことではなくて、池田の別れ話のことだった。池田がその話題を持ちだしたのは、そのことで僕に相談したいという気持ちがあったからに違いなかった。話が途中で終わったのは、僕が女の方に同情しすぎたためであろうか。池田はそれほど不誠実な男ではないから、彼の方にこそ同情すべき事情があったのかも知れないのだが、そのとき僕は一方的に女の方に同情していた。それと意識することはなかったけれど、僕は心の底で、その女と佳子を重ね合わせていたのかも知れない。佳子と別れることなど考えられなかったが、佳子との行く末を予想することはできなくなっていた。

 小宮さんに職場異動の話がもちあがった。小宮さんにとっては無論のこと、僕にもそれは大きな驚きだった。野田課長は小宮さんに告げたという、人事部からの要請に応えるもので、その異動先では小宮さんの知識と経験を生かすことができるはずだと。小宮さんは野田課長のその言葉を信用しなかった。
「小宮さんはスピーカーをやりたいんでしょ」
「もちろんスピーカーだよ、おれがやりたいのは」
「小宮さんがいなくなったらスピーカー部は困るはずなのに、どうしてだろう」
「野田さんが言うには、あっちの方でもCVDを使うことになったらしいんだ。だけど、やっぱり、おれが野田さんにきらわれてるからだろうな」
「もしも移ることになったとしたら、いつ頃だろう」
「決まったとしても、実際に移るのは来年になってからだな。吉野さんのときは一月だったから、その頃だと思うよ」と小宮さんは言った。
 僕たちの仕事に見通しはついていたから、数か月も先なら小宮さんが去っても、仕事への影響は無さそうだった。とはいえ、小宮さんの異動は僕にとっても好ましくなかった。小宮さんが出ていったなら、たとえ僕が望んでも、スピーカーシステムの仕事に移れなくなりそうだった。
 その翌日、僕は野田課長に申し出て、小宮さんの異動のことで話し合った。小宮さんには無駄なことはするなと止められたのだが、それでも僕は野田課長に疑問をぶつけずにはいられなかった。
 僕は野田課長にうったえた。CVD技術に精通している小宮さんは、自分たちの課に必要な人材であること。そしてなによりも、僕が小宮さんの指導をまだ必要としていること。
「君のことは僕が考える。これからの仕事のことだけでなく、君の将来のことについてもだ。だからな、君は何も心配することはないんだよ」と野田課長が言った。
「ほんとに僕は困るんですよ、小宮さんみたいなベテランがいなくなると」
「心配するな、松井君。君はもうりっぱなベテランだよ。それにな、小宮君がいなくなったら君はもっと伸びると思うんだ」
 ずいぶん不謹慎なことを言う課長だと思った。僕がだまっていると野田課長はさらに続けた。「僕は君に期待してるんだよ松井君。たいした新入社員だよ君は」
「小宮さんが教えてくれたからですよ」
「君だったらやれるな、小宮君がいなくても。君には自信があるはずだがな」
「僕はまだ小宮さんに教えてもらいたいし、それに、小宮さんだってスピーカーの仕事を続けたいと言ってます」
「僕は小宮君から感謝されると思ってるんだがな。今度のことは小宮君にとっても、そんなに悪い話じゃないんだ。とにかくだな、僕はこれからの課のことを、会社のことを考えなきゃならんのだよ。君にはわからないかも知れんけどな」
「それはわかっているつもりです。ですけど、小宮さんをここから出すなんて、誰が考えてもおかしいですよ」言い過ぎたとは思いつつも、野田課長を非難するような口調で僕は続けた。「CVDにはいちばんくわしい人だし、それに、あれだけ力のある人だし」
「このことは、会社のために必要なことなんだ。君が判断することじゃない」野田課長は怒ったように言うと立ちあがり、命令するような口調で言った。「いいか松井君。とにかくだな、このことは君が心配することじゃないんだ」
 野田課長は会議室から出て行き、小宮さんが予想したとおりの結果に終わった。
 会議室の椅子に残ったまま、僕は失望感にとらわれていた。野田課長に対する嫌悪感を強くおぼえた。小宮さんの異動が小宮さんのためになるというのはまだしも、僕のために小宮さんを異動させるかのような言い方をしたではないか。
 あんな課長のもとをすぐにも去りたいと思ったが、小宮さんの異動が実現すれば、たとえ僕が望んでも、スピーカーシステムの仕事には移れないはずだった。