季節の変わり目は、お客様が多くなる。
今日も、『ほほえみ茶屋』はご高齢のお客様で満席となっていた。

「おや、満席ですかの?」
暖簾を割り、老爺が店内を見渡した。
「すいません。空くのを待たれますか?」
忙しく配膳しながら、答えた。
「……いや」
老爺は首を横に振った。けれど老爺は店から出ようとはせず、私の手元をジッと見つめていた。
うん? 団子を見てる?
「あの、お団子はテイクアウトも出来ますよ。良かったらお包みしましょうか?」
老爺に水を向けてみた。
「おお! ぜひ頼む!」
老爺は満面の笑みで首を縦に振った。
どうやら老爺は、余程団子が好きらしい。
これは聞くまでもないだろう。私はきな粉、あんこ、醤油ダレ、全部の味を包んだ。

「お爺さん、お待たせしました」
団子の包みを老爺に手渡す。
「おお! 香ばしいのぉ!」
ほくほく顔で老爺は包みを受け取った。
あれ??
間近に老爺を見て、ふと感じた違和感。
!!
違和感の正体はすぐに分かった。老爺の瞳が、しっかりと私を見つめていた。

『ほほえみ茶屋』のお客様とは、基本的に視線が合わない。
ご用聞きやお会計、もちろんお客様と正面から向かい合う。私はお客様を見て、お客様も私を見る。
けれど、お客様の瞳は私を映しても、見てはいない。現の光を映さぬ瞳はどこまでも空虚で、何も見ない。
『見る』という行為はきっと、心があって初めて成立する行為なのだ。
けれど老爺と私の視線は、確かにピタリと合っていた。

「ではお嬢さん、これはお代じゃ」
老爺は私の手に硬貨を握らせると、足取り軽く店を出て行った。
……もしかして、天界の人?
このまま老爺を行かせていいのか、疑念が湧く。
「あ……」
老爺を呼び止めようと、一歩踏み出した。
「お嬢さん、団子の追加を頼めるかね?」
「あたしゃ煎茶のおかわりをお願いするよ」
けれど店内のお客様から、次々と声が掛かる。
「は、はーい! ただいま順番にうかがいます」
老爺から受け取った硬貨をエプロンのポケットに突っ込んで、私はお客様の対応に追われた。
……ひぇぇ。ここまでの大繁盛は、正直一人で切り盛りするには辛い。
なにせここは、追加の人員補充などあり得ぬ地なのだ。
全ての対応を終え、店の軒先を見た時には既に老爺の姿はなくなっていた。





この日は、最後の船を見送って、店じまいを終えても十夜の迎えがなかった。
暖簾をしまい、施錠する。
周囲をぐるり見渡すが、やはり十夜の姿はなかった。
「珍しい……」
十夜の迎えがないのは、二十年の年月の中、これが二度目だ。
実は、かつて一度だけ十夜の迎えがない日があった。
その日、十夜は三途の川をはじめとした天界各所の管理者を集めての研修会に参加していた。
研修後には飲み会だから、帰りは遅くなるだろうと聞かされていた。
『管理者を集めての研修会』『飲み会』、現世を彷彿とさせるこれらのキーワードに思わず噴き出したのは言うまでもない。
十夜も随分と俗な事を言うと、感心したものだった。
ところが今日は、そんな事は一言も聞かされていない。
「十夜ー!?」
一応、声を張ってみる。
しかし返事はなく、いないものはやはり、いない。
私は首を傾げ、一人屋敷に向かって歩き出した。

「幸子さーん!」
しばらく歩いたところで、背中に向かって呼び掛けられた。
「あ、懸人さん。お疲れ様です」
振り返ると、そこには船頭の懸人さんがいた。走ってきたのだろう懸人さんは額に汗を浮かべ、肩で息をしていた。
ここ、三途の川には十夜だけが暮らす。
懸人さんの居住は対岸にあり、対岸に船を渡した懸人さんがこちら岸に戻ってくるのはとても珍しい事だった。
もしかすると船乗り場に緊急の問題が発生してしまったのだろうか。そうすると、残念ながら肝心の十夜がいない……。
「あの懸人さん、折角来ていただいたのに申し訳ないんですが、今日は十夜の所在が知れなくて」
「いいえ幸子さん、そうではなくてですね、私は十夜からの伝言を預かってきたんです」
なんと、懸人さんが十夜の所在を知っていた。
「十夜からの伝言は、所用で遅くなるから晩飯はいらない、先に休んでいてくれと、こうです」
それはまた、随分とざっくりした伝言だ。
「実は十夜、以前に管理報告で天界にあがる予定を、一回すっぽかしていたようなんです。それで十夜と同じ七天神の古参で、管理者の統括役でもある仁王様に呼び出されてしまったんです」
「呼び出しって、それは大丈夫なんですか?」
職務に真面目過ぎるくらい真面目な十夜が、天界にあがる予定を忘れるなんてあるの?
これはかなり、意外に思った。
「ん? まぁ、そんなのはどの管理者も一度や二度はありますから、なんという事もないでしょう。それよりも、その仁王様というのは大層お酒好きでなんですよ。もし宴席になだれ込んで、二次会三次会となればなかなか抜け出すも難しいでしょう。十夜、今晩は戻れないかもしれません」
私の心の声が伝わった訳でもないだろうが、懸人さんが補足をくれた。
けれど『二次会』『三次会』って……私は内心、笑いを堪えるのに必死だった。
「幸子さん?」
俯いて挙動不審に肩を揺らす私を、懸人さんが心配そうに覗き込んだ。
「な、なんでもないです。それより懸人さん、わざわざありがとうございます。それを伝える為に戻ってきてくれたんですよね?」
それにしても、懸人さんはいつもこうやって細やかな気遣いをしてくれる。
本当に、ありがたい。
「いえ、私は船を漕ぐのは苦にもなりませんから」
懸人さんは静かに微笑んで、首を横に振った。
「それでも、ありがとうございます。あ! 懸人さん、残り物ですがよかったらお団子を持っていってください。懸人さん、醤油ダレのお団子、お好きですよね?」
私は手早く風呂敷包を解く。
「今日は注文にムラがあって、たまたま醤油ダレだけ残ってるんです。ふふふっ、なんだか懸人さんにお渡しするのを計ったみたいですよね?」
風呂敷の中から団子を入れた包装紙を取り出すと、懸人さんに渡した。
「ありがとう、幸子さん」
懸人さんが受け取る。ほんの一瞬、手と手が僅かに触れ合った。
「軽く炙ると作り立ての美味しさが味わえますよ。後は裏技なんですけど、柚子胡椒を少し振ったりなんかするとピリッとしてまた違った味わいが出来ます」
何故か懸人さんは答えずに、俯いたままだった。
あ、男の人にはちょっと面倒だったかな?
十夜も私が手を出さなければ、自分から炙るなんて手間は掛けない。柚子胡椒も、またしかり。
「あ、面倒な事言っちゃってすません! もちろんそのまま食べてもオッケーですよ!!」
「はい……」
胸に団子を抱いた懸人さんは、小さく頷いてみせた。送りの申し出を断り、懸人さんとはここで別れた。
別れ際、懸人さんの目が夕焼けを受けてだろうか、微かに赤く、熱を孕んでいるように見えた。




その晩は懸人さんの言う通り、夜の帳が完全に降りても十夜は帰って来なかった。
夕食と入浴を済ませれば、別段する事もなく、私は早々に寝台に潜った。
けれど、なかなか眠りは訪れない。
「……仕方ない」
私は早々に眠る事を諦めて、寝台から抜け出ると居間に下りた。そうして今ではすっかり定位置になっている、長ソファの左側に腰掛けた。
「十夜、遅いな……」
チラリと時計に視線をやれば、時刻は午前零時を回っていた。
今日は十夜の居ない、初めての夜だ。
同じ屋敷、同じ空間に十夜がいない。たったそれだけの事が酷く心細く、不安に感じた。
見るともなしに、パラリパラリと手元の本を捲る。
カチ、コチ、と時を刻む壁時計の秒針の音が、常よりもずっと大きく響いていた。

「幸子、……幸子」

……ん?
重い瞼を開く。半分眠ったままのぼんやりした視界に、十夜は圧倒的な存在感で飛び込んできた。
私はどうやら、十夜を待ちながら、うたた寝をしていたらしい。
「と、十夜! おかえりなさ、っ!!」
けれど最後まで言い終わる前、十夜の熱い抱擁が、言葉の続きを奪う。
「と、……十夜? 呼び出しで、何かあった?」
苦しいほどの力で、私は十夜の胸に抱き締められていた。
戸惑いや動揺よりも、これまで見た事の無い十夜の焦燥した様子に、不安と心配が湧き上がる。
十夜の腕が僅かに緩んだ隙、私は両腕を十夜の背中に回して擦った。
「……いいや、何もない。いきなり驚かせてすまなかったな」
十夜がクシャリと笑う。けれど十夜の笑みは、どこか歪に見えた。
それだけじゃない、なんだか十夜が、泣きそうに見えた。
「……うそ、私の事が関係していますよね?」
何もない訳がない。
だけど十夜は、薄く微笑んで緩く首を横に振る。
「いいや、関係ない。確かに呼び出しで少し揉めて、それで苛立っていた。すまなかった」
十夜は否定したけれど、それが事実と異なる事を、私は漠然と理解していた。
……揉めた原因は、私だ。
ただ、それが何故、今なのか。
私がこの地に十夜と暮らして二十年が経つ。私の存在を問題にするのなら、これまでにいくらでも時があったはず。
けれど今、十夜は何かしらを告げられて、悩んでいるのだ。
十夜の背中に回した手に、きゅっと力を篭めた。
「十夜、憂いがあるなら聞きたい」
十夜の瞳から視線を外さぬまま告げる。
間近に見る十夜の黒紫の煌き、その中に私が映っていた。きっと私の瞳も同様に、十夜の姿を映すのだろう。
「悩みがあるなら、分け合いたい。私は十夜を知りたいです」
十夜が驚愕の表情で、目を見開く。
っ!
同時に私自身もまた、口をついて出た言葉の重みに驚いていた。
衣食住を共にし、同じ時間を過ごしながら、私たちの関係には何の縛りも無かった。私達は夫婦どころか、恋人ですらない。
しかし心の内までを共有したいと望むなら、それはもうこれまでの同居人とは一線を画している。
憂いや悩みを分け合いたい、その気持ちに言い訳なんて出来ない。
それは相手を愛しく想う、最たる感情に違いない。
十夜に抱き締められるより何より、私自身の感情に衝撃を受けていた。十夜の射抜くような視線から逃げるように、私は慌てて顔を俯かせた。
「幸子、お前は本当の俺を知らない……」
え?
小さな呟きは上手く声として拾えない。
「っ、あっ!」
けれど聞き返すよりも前、ドンッと体重を掛けられて私はファに沈んだ。十夜も私を抱き締めたまま、一緒にソファに寝転んだ。
広いとはいえ、大人二人が横になるにはあまりに狭い。ソファの上、私達はほとんど折り重なるようにピタリと密着していた。
「っ、十夜!」
バクバクと鼓動が早鐘を打ち、全身に熱が巡る。十夜を突っぱねようと腕を伸ばしたけれど、十夜はピクリとも動かない。
「? と、十夜?」
……そう、ピクリとだって動かない。不審に思って十夜を見れば、十夜はスゥスゥと気持ちよさそうな寝息を立てていた。
!!
う、嘘でしょう!? 十夜が、寝ちゃった!?
思わず十夜の口元に耳を寄せる。するとやはり、健やかな寝息が耳を打つ。
その瞬間、一気に体から力が抜けた。
……あり得ない、……でも、寝てる。
私は宙ぶらりんのまま着地点を見失ったような、何とも言えない心地だった。
けれど一旦核心から遠ざかった今の状況に、内心胸を撫で下ろしてもいた。
あと、十年……。
愛した人だから、ここで三十年、悟志さんを待とうと決めた。
だけど当時の激情は年月を経るごとに輪郭が不確かに霞みはじめ、今ではその根幹までもが揺らいでいる。
隣で寝息を立てる十夜に視線をやる。十夜の寝顔に、胸が締め付けられるようだった。
「悟志さん、私は薄情な女ですね……」
十夜の寝顔から視線を逸らし、小さく呟いてそっと瞼を閉じた。  
「だけど悟志さん、貴方はもう抱き締めてくれないから……」
もう二十年、触れ合っていない。もう二十年、笑みや言葉も交わしていない。寂しい時や嬉しい時、同じ感情を共有できない事はあまりにも切ない……。
ふと、悟志さんと行った結婚式場の見学の一幕を思い出した。
あぁ、模擬挙式で祭壇の前、神父様はこう言ったっけ……、『その命ある限り、真心を尽くす事を誓いますか』と。
眦から、滂沱の涙が頬を伝った。
押し殺した嗚咽が、夜の静寂に虚しく響いていた。
眠っているはずの十夜の腕に、僅かに力が篭った気がした。私もまた、十夜に回した腕に力を篭めた。
十夜と悟志さんを天秤にかける事は出来ない。
けれど私は命尽きた。そうして今、私を温かに抱き締めるのは十夜の腕だ……。