今日も、三途の川は穏やかに凪いでいた。
日に四便の定期運航便もつつがなく出航し、三途の川にはいつも通り、私と十夜の二人だけが残る。
「十夜、お待たせしました」
「ああ、帰るか」
『ほほえみ茶屋』の店じまいを終え、西日を浴びてキラキラと煌く川面を横目に、十夜と二人肩を並べて家路につく。
「ねぇ十夜、よく三途の川って、善人は船で渡れて罪人は深い濁流を進むとか言われてましたけど、実際は全員が船で渡れるんですね」
『ほほえみ茶屋』もそうだけれど、船もまた、規定の料金を定めていない。
持つ者も持たない者も皆、平等に船に乗る。
「死は人の上に平等なんだ」
とても重い言葉だった。そして裏を返せば、生は不平等だと、そういう事なのか。
何故だろうか? オレンジ色に差し込む西日がひどく情感を刺激する。心に感傷を、呼び起こす。
十夜は無言で、私の肩を抱き寄せた。肩に触れる十夜の手のひらから、温もりが伝わった。
「十夜……」
抱き合えば、触れ合えば、温もりが沁みる。愛情が芽生える。
だけど温もりと愛を求めながら、孤独の中で幕を閉じた命もあった。
私は『ほほえみ茶屋』を開店して間もない頃に出会った、あるお客様を思い出していた。
彼女との出会いが、この地で数多の魂を見送る重さと覚悟を、教えてくれた。
当時を思い出せば、私の目頭がジンと熱を持つ。私はそっと瞼を閉じた。


その子の来店は、他のお客様から聞かされて知った。
「ねぇお姉さん、店先に薄汚れた子がまだいるよ。俺が来た時にもいたんだけど、早く追いやった方がいいんじゃないかい? かなりその、臭ってるよ?」
会計を済ませて一度店を出たおじさんが、戻ってきて私に告げた。
「え? あ、はい。私が行って見てみます。お客様はどうぞ、船に行かれて下さい」
「そうかい? それじゃあね」
おじさんは店を出ていった。私は濡れ手を前掛けで拭い、店の軒先に回った。
すぐに、汚れ切った男の子がしゃがんでいるのに気付いた。男の子とはかなり距離があったのだけれど、鼻をつく異臭がこちらまで漂っていた。
「ねぇぼく、お腹、空いてない?」
私は男の子に歩み寄って、問いかけた。
男の子は顔を上げ、私をジっと見つめていた。もちろん三途の川にあって、男の子の目は実際に私を見てはいない。
けれど男の子の人を窺うかのような行動は、染み付いたもののように感じた。
余りにも長い間が空くので、もしかして男の子が言葉を話せないのではないかと、私は本気で心配になった。
「……うん。空いてる」
! 男の子の声を聞いた時、私は心底ホッとしていた。
「そっか。私、お団子屋さんなの。お団子を食べよっか?」
「うん」
「少しだけ待っててね?」
船が出航するタイミングで、店内にちょうどお客様はいない。とはいえ曲がりなりにも飲食店に、悪臭を放つ状態の男の子を入れる事は憚られた。
男の子の見た目は三歳くらいで、体格はとても小さい。
私は大急ぎで厨房に戻ると、大きな盥と石鹸、タオルを抱えて男の子の元に戻った。
「ぼく、お洋服、脱げる?」
男の子はジーっと私を見上げ、コクンと頷いた。
「よしっ、いい子」
その間に私はもう一度厨房に取って返し、両手でバケツ一杯のお湯を持って男の子のところに戻ってきた。
「……っ! さっ、さぁっ、お湯を掛けるよ? ギュッと目を瞑っていてね?」
目に飛び込んだ、汚れ切り、痩せ細った体。
涙が出そうになった。
そうしてざんばら髪で垢だらけのその子は、男の子じゃなかった。
……女の子、だった。
私は精一杯の平静を装って、涙を堪えて笑ってみせた。
「ほぉら? 目に滲みちゃうよ?」
けれどその子はジーっと私を見つめて、なかなか目を瞑ろうとしなかった。
「……うん」
やっと目を瞑るのを確認して、お湯で流す。石鹸を使って、髪も体も、洗っては流すを繰り返した。
何度も繰り返して、やっと女の子は本来の肌の色を取り戻した。石鹸はまるまる一個を、使い切っていた。
タオルで女の子が体を拭く間に、私は後始末を手早く済ませる。
「きれいになったね。後はお店の中で乾かそっか? おいで」
そうしてタオルで包んだ女の子を、腕に抱き上げた。
すると抱き上げた瞬間、腕の中の女の子が体を硬くした。瞳が零れ落ちそうなくらい、目を見開いて私を見つめていた。
「どうかした?」
「……なんでも、ない」
カチコチに体を緊張させたまま、女の子はぎこちなく答えた。
「これ、新しいタオルね。まだ髪の毛が濡れているから、これで拭こうね? お団子を用意するから、ちょっとだけ待っていて?」
店内の一番奥、厨房にほど近い席に女の子を座らせると、新しいタオルを手渡す。そうして私は大急ぎで厨房に向かった。
常ならそのまま提供するお団子を、私は串から外し、一度湯通しして、柔らかい状態にした。
三歳にもなれば、普通は硬さなど気にせず大人と同じ物を食べる。
けれど女の子の歯は、一目でそれと分かるくらい、虫歯でガタガタになっていた。大きく欠けた歯や、抜けている歯もあった。
湯気を浴びながら、私は必死に嗚咽を堪えた。
「さぁ、お団子を召し上がれ?」
団子を手に戻れば、女の子は私が出したお団子を、貪るように食べた。
「お団子、美味しい?」
女の子は食べながらも、しきりに私の方を気にしていた。
「おいしい……」
ふふっ、可愛い。
私は女の子の頭を撫でようと、何気なく手を伸ばした。
えっ!?
すると女の子は反射的に頭を庇って身を縮め、気の毒なほど震え始めた。
「……大丈夫よ、大丈夫? ここには何にも恐い事なんてないのよ。安心して食べていいの」
私は女の子の震える肩を、安心させるように何度も優しく撫でる。何度か撫でていると、徐々に震えを収めた女の子が、チラリチラリと私を窺って顔を上げた。
「このお団子は全部、あなたのだよ。ゆっくり食べてね?」
ポンポンと優しく背中を叩いて、私は女の子の側を離れた。その方が女の子が安心して食べられると思った。
だけど本当は私自身、これ以上堪えるのが限界だった。私は厨房に取って返した。そうして女の子から死角に入るとすぐに、私は袖で乱暴に目元を拭った。
チラリと覗き見れば、女の子はまた、貪るようにお団子を食べていた。

そうこうしている内に、店内には新たにお客様が来店を始めた。
次の船の出向に向け、続々と来店するお客様を捌きながら、私は女の子からも目を離さない。
途中、気のいいお客様の幾人かが、幼い女の子に話しかけていた。けれど女の子は俯いたまま、それらの声掛けに顔を上げる事はなく、もくもくと団子を頬張っていた。お客様はそんな女の子から、段々と距離を取っていった。
配膳の傍らで女の子に視線をやる。すると団子を一皿平らげた女の子が、目をトロンとさせて、眠たげに目元を擦っているのに気付いた。

「幸子」
そんな時、珍しく営業中の店内に十夜が顔を出した。
「十夜、どうしたんですか?」
「堤防を見回った帰りでな、通り道だから閉店には早いのだが迎えも兼ねて寄ってしまった」
願ってもない、タイミングだ。しかも十夜は自身の仕事を終えた後で、この後はずっとここに留まる心積もりのようだ。
「十夜、ひとつお願いしてもいいですか?」
「? なんだ?」
「あの子、なんです」
私が女の子を指し示す。眠たげにしていた女の子は、ついにうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
「! よし、俺に任せろ。幸子は店の方をやっていて構わんぞ」
十夜は一目見て、状況を全てを汲み取ってくれたようで、私の肩をポンと叩いて女の子のところに向かった。
正直、女の子を見ながら店内を切り盛りするのはかなり無理があったから、私はホッと胸を撫で下ろした。
けれど幼女と十夜という、未知数な組み合わせに、若干の不安も感じていた。
……十夜に子供の相手って、大丈夫なのかな?? 視線は二人に釘付けになっていた。

「お姉さん、お茶のおかわりをお願いします」
「! はい、ただいま」

けれど二人の掛け合いを見る前に、私はお客様からの呼びかけで、接客に戻った。その後も慌ただしく御用聞きや配膳に追われた。

「本日最終便、まもなく搭乗開始いたしまーす!」

そうして船頭の声を合図に、今度はお客様のお会計が続く。
最後のお客様を見送って、私は店内を見回した。……いや、最後のお客様は別にいる。最後のお客様は、女の子だ。
そうして女の子を目にして、私は驚愕した。
女の子が十夜の膝に抱かれ、笑い声を上げていた。
「お、幸子終わったか? それじゃ、俺達も船に行くか。最後の乗船客はこの子だ、俺達で送っていこう」
私の視線に気付いた十夜が、女の子を抱いたまま立ち上がる。
そうして十夜は、女の子をヒョイッと肩に乗せ上げた。
「わぁっ!」
女の子は目を丸くして、嬉しそうに十夜の頭に抱き付いた。
「こぉら、目を塞いだら前が見えなくて危ないぞ?」
「う、うん」
女の子は終始、笑っていた。

「ありがと。ばいばい……」
船乗り場に到着し十夜の肩車を下りた女の子は、今は懸人さんに手を引かれている。はにかんだ笑みで、女の子が告げた。
「ばいばい、達者でな」
「ばいばい。よい、船旅を」
けれど「ばいばい」を済ませたはずの女の子は、ジーっと私を見上げ、もじもじとして動こうとしない。
「どうかした? もしかして、おトイレ?」
女の子は、フルフルと、首を横に振った。
「さっきのやつ、して?」
私は最初、女の子の言う「さっきのやつ」に思い至らなかった。
けれど女の子が懸人さんと繋いだ手を解いて、恥ずかしそうに私に向かって手を伸ばすのを見て、すぐに腕に抱き上げた。
「もしかして、これのこと?」
女の子はコクンと頷いた。
望んで抱き上げられたはずの女の子は、けれど私が抱けばやはり体を固くする。女の子の手は、私の肩に置くのを躊躇って宙を彷徨っていた。
私は構わずに、抱き上げた女の子をキュッと抱き締めた。

すると女の子の手が、そっと、そおっと私の肩を抱き返した。
たったそれだけの事だけれど、嬉しさに胸が詰まった。
「……あたし、本当はずっと、こうしてほしかったの。ありがとう、マ、ママッ。バイバイっ!」
女の子は太陽みたいに微笑むと、私の腕からピョンと降り、一人船に走っていった。
私は女の子の小さな背中を食い入るように見つめて、立ち尽くしていた。

「本日最終便、出航いたしまーす!」

遠ざかる船が見えなくなるまで、私と十夜はずっと、並んで船を見送っていた。
「行ってしまいましたね……。それにしても、十夜は随分と幼い子の扱い、慣れてるんですね?」
胸の中は、色々な感情が渦巻いて騒がしい。
私は目を逸らすかのように、敢えて核心に遠い話題を振っていた。
「そうだったか? まぁ魂の見た目だけで言えば幼かったが、彼女の実年齢はもう成人だけどな」
「! うそっ!? だって、ほんの三歳くらいに……っ!」
……いいや、よく考えれば、分かる事だ。
何故なら子供の魂は、『ほほえみ茶屋』には来ない。
三途の川は老若男女問わず渡る。けれど子供の魂は、大人とは別枠で子守り地蔵様が一人一人抱き上げて専用の船に乗せる。
それを鑑みれば、少なくとも彼女の実年齢は、大人という事……。
「彼女の魂は、幸子に触れて煌いて対岸に行ける。俺が抱き上げたり、体を使って遊んでやれば、彼女は初めての体験に確かに笑った。けれど、彼女の本当に欲しかった物は、俺には与えてやれない。それを疑似的にとはいえ幸子、お前が与えてやった。彼女は欲しかった母の愛を、お前に重ね、体感する事が出来た。俺では、成せなかった」
神の身である十夜は透かし見て、彼女の生前の事情を知るのだろう。私はそれを知らず、実際に接した彼女の様子から察するしか出来ない。
……生前から、彼女はずっと、母親を求めていたんだろう。私はもちろん、彼女の母親じゃない。
けれど彼女は、私にママと呼び掛けて、ここ一番の笑顔を残して乗船した。腕にはまだ、彼女の温もりが残っていた。
「可愛い子、だった……」
だけど成人を迎えても、無垢で可愛いままの彼女の魂……。
「なぁ幸子、人は皆、神を全知全能と思って疑わない。けれど、実際はそうではない。神もまた、無力だ」
神は出生に介入しない。
出生に際し、一定の確率で、障がいは発生する。けれどそれに神の意志は介在しない。
彼女の母親はきっと、障がいを持って生まれたあの子を受け入れられず、神を恨み、目を逸らし続けた。
けれど私には、それを非難する事は出来ない。誰が何の権利でもって他者を糾弾出来るというのか。
私に出来る事はただ、あの子の魂の安寧を祈り、願うだけ。
「十夜、人も神も、なんだか歯がゆいですね」
「あぁ、そうだな。けれど幸子、きっと歯がゆくていいんだ。これはきっと万物として根幹の部分、哀愁もなく、何の感慨もなく見送るなだけならば、それは機械の仕事だ」
一見すれば十夜は淡々としていて、何事もクールに熟す。だけど十夜の本質はそうじゃない。熱い血が通い、心が通う、とても深い情を持つ人なのだ。
「私は十夜の志の高さを、とても尊敬しています。そうして一時的とはいえ、この地にあるからには、私も十夜の隣に相応しくありたいです」
「幸子、それは取り越し苦労というものだ。幸子ほどに、死者の魂を悼み、彩を添える者などいない。俺には、そうはいかん。幸子と幸子の茶屋ほど、この地に相応しいものはない」
十夜がそっと、私の肩を抱き寄せる。私は十夜に身を預けた。
「十夜、十夜にそう言ってもらえるなら、私はこの地にある限り『ほほえみ茶屋』を続けます」
「そうか」
肩を抱く十夜の手に、力が篭った。


かつての記憶は、今も私の心に色褪せずに残っている。
閉じていた瞼をそっと開く。十夜が優しい眼差しで、私を見下ろしていた。
「……十夜、あの時の彼女を覚えてますか? 彼女は今頃、どうしているでしょうね……」
「なに、今頃は両親の元でつつがなく過ごしているだろうさ」
神が個々の魂のその後を追う事はしないから、これは十夜の憶測で語られた言葉。
けれど私には、十夜の語る言葉が彼女の今を映す鏡のように思えた。
「そうですね。今頃ママにも、それからパパにも、いっぱい抱き締めてもらってますね」
私と十夜は顔を見合わせて、微笑み合った。
肩に触れる十夜の手のひらが、燃えるように熱い。
けれど、あらゆる感情が木霊す私の心の中は、もっとずっと熱い……。
あと、十年……。

十夜と暮らす我が家は、もう目の前だった。