その日、珍しく『ほほえみ茶屋』は閑古鳥が鳴いていた。
けれどそれは『ほほえみ茶屋』だけではなかったようで……。

今日の第一便の出航時刻が迫っていた。けれど船頭の懸人さんがまだ、乗船せず埠頭に立ったままだった。
「懸人さん? どうされたんですか?」
これはそうそうある事じゃない。思わず懸人さんに声を掛けていた。
「ああ、乗船客がまだ一人もいないんだ」
長く船頭を務める懸人さんにとっても、これは珍しい事のようだった。
「え? 船もお客様がいないんですね!」
懸人さんは、手元の時計を食い入るように見つめていた。
「……出航時刻だ」
そうして低く、呟いた。
! 
なんと、出航時刻になっても乗客はいないまま。船は対岸に渡る目的がないままに、埠頭に揺れていた。
「懸人さん、よかったらお店にいらっしゃいませんか? お客様もいない事ですし、一服をしませんか?」
『ほほえみ茶屋』の営業中は、懸人さんも仕事中だ。だから、たまにお団子を差し入れたりはするけれど、懸人さんがお客様として『ほほえみ茶屋』を訪れた事はない。
一緒にお茶を飲む事も、またしかり。
「幸子さん、それじゃお言葉に甘えさせてもらおうかな」
懸人さんも二つ返事で、応じてくれた。
「懸人さんは醤油ダレのお団子でいいですよね?」
懸人さんはあんこもきな粉も食べるけれど、醤油ダレのお団子が一番好きだ。
「すいません」
懸人さんは照れたように頷いた。私は厨房でお団子と煎茶を用意すると、懸人さんと二人、向かい合って店内中央のテーブルに腰掛ける。
テーブルの真ん中に大皿のお団子を置き、二人で煎茶を啜った。
「日中の時間をこんなふうにゆっくり過ごすなんて、いつ振りでしょう」
「私も幸子さんもお互い、年中無休ですからね」
懸人さんが苦笑して答えた。
「年中無休とはいっても、私は懸人さんのお仕事と違って、趣味みたいなものですけどね」
「いえいえ。幸子さんほど尊い仕事など、ありませんよ」
え!?
思わぬ台詞に、ギョッとして固まった。聞き間違いかと思い直して向かいの懸人さんを見れば、懸人さんはニコニコと微笑んでいた。
「私はずっと長い事、死者の魂と向き合ってきました。だから変化を肌で感じています。幸子さんが『ほほえみ茶屋』を開いてから、死者の魂が穏やかな色で輝くんですよ」
魂が、輝く?
いやいや! 
「私はしがないお茶屋ですよ。そんな大層な事、出来ませんよ」
「はははっ、ねぇ幸子さん。死者の魂は、悼む心を受けて輝きを増すんです。美しく彩られ、新たな生に向かいます。けれど全部が全部、手厚く弔われる訳じゃない。そんな魂に、幸子さんの『ほほえみ茶屋』が癒しと、潤いを与えているんですよ」
懸人さんが、静かに言い募る。
「もし、そうなら嬉しいです」
「団子と煎茶だけじゃない、『ほほえみ茶屋』は店名の通り『ほほえみ』を提供しています。だから自信を持って下さい」

「ありがとう、ございます」
凄く、嬉しい言葉だった。
まさに私は、そんな思いで『ほほえみ茶屋』を始めたのだ。
「だけど懸人さん、懸人さんの仕事だってとても尊いものだと思います。訳の分からない書類をペラペラ捲ってる十夜とは違って、実際に額に汗して船を漕いで、死者の魂を次の生に送り届ける功労者です!」
悪戯めかして語ってみたのは、どこか影を帯びる懸人さんを励ましたい思いから。
「私は、十夜とは違う」
けれど私の言葉に、懸人さんは一層表情を曇らせた。
「? 懸人さん?」
「……ねぇ、幸子さんは天界の禁忌を知っている?」
懸人さんは一転して明るい声で、唐突に聞いてきた。
「ええっと、確か嘘と殺傷が駄目……だったかな?」
三途の川に暮らして二十年。
それなりに天界の知識も耳に入ってくる。
「私はね、かつてその禁忌を犯した」
「え!?」
「私はかつての罪により、永遠に天界に受け入れられる事はない。かと言って、次の生にも辿り着けない。船頭という仕事はね、私に与えられた罰であり、温情でもある。生者と死者の狭間を永劫に行ったり来たり、それはまさに私にはうってつけの罰。けれど船頭を続けていれば、いつか出会えるかもしれない、その望みは温情。そして事実、……私は出会えた」
一体、どういう意味?
正面から、懸人さんと視線が絡む。懸人さんの瞳に、熱が篭る。
瞳の奥、切なく燃ゆる焔が見えた。
「あの――」
「おっといけない、せっかくの団子が冷めてしまう」
けれど私がそれを問うよりも前、懸人さんは視線を団子に移してしまった。揚々と団子を掴み、大口で齧り付く。
団子を口いっぱいに頬張る懸人さんの姿に、頬が緩んだ。
「お! やっぱり幸子さんの団子は美味いですね。しかもこんなふうに店内で出来たてを食べれば尚美味い」
団子が積み上がった大皿は、あっという間に底が見え始めた。
「懸人さん、まだまだありますからいっぱい召し上がって下さい。でないと今日は、残ってしまいそうですし」
「では、お言葉に甘えてもう一皿いただきます」
私は慌てて追加のお団子の用意に席を立った。
「すぐお持ちしますね」
同時に、私はあの話は懸人さんなりの冗談に違いないと、そう結論付けていた。
それは、懸人さんいう人と禁忌というのが、あまりに結び付かないものだったからだ。
「お待たせしました」
「あれ? 団子に何か掛かってる」
懸人さんは二皿目の団子の変化に気が付いたようだった。
「はい、ちょっとだけ味に変化を付けて粉チーズを振ってみました」
「へー! 美味しそうだ」
懸人さんはほくほくで、二皿目の団子も空にした。

カラカラカラ。
「ごめんください」
「よろしいですかな?」
まるで、懸人さんの食べ終わりを狙いすましたかのように、『ほほえみ茶屋』に続々とお客様が訪れた。
「いらっしゃいませ」
続々と訪れるお客様を、順番に席に誘導し、注文をとる。
さっきまでの静けさが嘘のように、あっという間にお客様で店内はほぼ満席になった。
「幸子さん、ごちそうさまでした。このお礼、いつかするから」
「やだ、気を使わないで下さい。私がしたくって懸人さんをお誘いしたんですから。ゆっくりお茶が出来て良かったです」
「……良かった? いいや、それは私の台詞だ」
謎の台詞を残し、懸人さんは混み始めた店を後にした。
「お姉さん、お団子まだ?」
「はーい、ただいま」
そして忙しく立ち動くうちに、確かな違和感は、いつの間にか記憶の片隅へと追いやられてしまった。
ちなみに懸人さんの船が出航しなかったのは、私が知る限りこの一度だけ。
だから懸人さんを『ほほえみ茶屋』に招いたのも、後にも先にもこの一度だけだ。