その日は朝から、十夜の挙動が不審だった。
朝食の席でもチラチラと私を窺っていた。
そうして一緒に『ほほえみ茶屋』へと向かっている今も、時折チラチラと私の表情を窺っている。
「十夜、朝からちょっと変じゃないですか? 一体どうしたっていうんですか?」 
ついに我慢も限界に達し、私から口火を切った。
ぴったりと隣を行く十夜の目を、ジッと見上げて問う。
「……幸子、もし店が回らなくなったら俺を呼んでくれ。俺も店を手伝う」
!! 
衝撃に、思わずその場で足を止めた。十夜も同時に足を止めた。
店が回らないほどの、お客様……!
「もしかして、大規模災害とかで団体さんが来るという事ですか!?」
一気に表情を暗くした私に、十夜が慌てて首を振った。
「あ、いや! 別にそういうんじゃない!」
「そうですか、よかった」
ホッと安堵の息を吐いて、止まっていた足を進める。十夜も一緒に、歩き出す。
「……」
「……」
どちらも無言のまましばらく歩を進めれば、『ほほえみ茶屋』の店先に着いてしまった。
「十夜、何だかよく分かりませんが、もう二十年間一人で切り盛りしてきてるんですから、今更の人員補充は検討していませんよ?」
「あ? あぁ……」
悪戯めかして告げれば、これまた十夜の食いつきが鈍い。
「それじゃ私、開店準備がありますからこれで」
十夜の真意が分からないけれど、このまま入口の前に立っていても埒が明かないと判断した。挙動不審な十夜に見切りをつけ、開店準備に取り掛かった。
「幸子」
すると再び、十夜が店内に顔を出す。
「十夜? 何か忘れ物ですか?」
「幸子、やはり今日はここで仕事をする事にする」
「え?」
これはとても珍しい事だった。いや、これだけではない。
先に十夜が言っていた、店が回らなくなったら手伝う、という発言にしてもそうだ。
これまで十夜は、店の経営にはノータッチのスタンスだったはず……?
「すまんが奥の一席を使わせてもらうぞ」
だけど私が何か言うより前、十夜は開店作業に勤しむ私の隣を通り過ぎると、店内の一番奥の席を陣取った。
「なに、心配しなくとも俺は別段営業の邪魔などしない。店が混めば席も空ける」
「いえいえ、私は別に十夜が営業の邪魔をするなんて思ってませんよ?」
「はははっ、そうか。まぁとにかく、俺の事は気にしなくていい」
言うが早いか、十夜は真剣そのものの面持ちで、持ち込み仕事に取り掛かる。
首を傾げつつも、私も残る開店準備に取り掛かった。
十夜は邪魔をしないと言った言葉通り、私に話しかけてくる事も、目線を向ける事すらしない。その気配を消すように、奥の席で静かに仕事をしていた。

カラカラカラ。

開店作業を終えたと同時、『ほほえみ茶屋』の引き戸が開く。暖簾が割れ、今日一番のお客様が入店した。
「いらっしゃ……っっ!」
けれど出迎えの言葉は、最後まで続かなかった。
「ごめんください? もう、いいかしら?」
それはとても優しい、おっとりとした口調だった。
その声を耳にして、暖簾の隙間から現れた顔を見て、意思とは無関係に涙が溢れ出た。
「え、お嬢さん? 泣いているの??」
老齢の女性はオロオロとして、ポケットを探る。
「あぁ、あったわ。さぁ、これでお顔を拭ってちょうだい?」
皺の刻まれた手が差し出したのは、色褪せたハンカチだった。
ハンカチの隅っこには、老齢の女性が手にするには少々不似合いな、可愛いクマのキャラクターが刺繍されていた。
そのハンカチを、見間違える訳がない。それは中学生の私が初めて自分の手で刺繍をして、お母さんにあげたハンカチだった。
堰を切ったように、涙が流れた。
「あらあらっ」
いきなり目の前で号泣し、差し出されたハンカチも一向に受け取ろうとしない私に、女性が小首を傾げて歩み寄る。
「どうしたのお嬢さん?」
! 私の正面に立った女性の身長は、私よりも頭半分、低かった。改めて見る女性の姿は、記憶の中のそれよりも、小さくて細い。丸くなった背中に、深く皺の刻まれた女性の微笑みに、ついに嗚咽が零れた。
女性は記憶の中のそれよりも随分と、老いていた。
「まぁまぁ、何か悲しい事があったの?? 大丈夫よ、だーいじょうぶ」
女性が手を差し伸ばし、私の目元にハンカチを宛がった。
トン、トン。
そうしてハンカチを持つのと逆の手が、私の背をトントンと優しく撫でる。
女性に抱き寄せられれば、懐かしい「お母さん」の香りがした。優しい手のひらの温もりも、昔と同じ。
「……お、お母さんっっ」
どうしても堪え切れずに、嗚咽と一緒に呼び掛けた。
「あらあら? ふふふ」
お母さんは、三途の川での常で、生前の一切の記憶がない。だから私の事も、覚えていない。
なのに、お母さんが私に向ける笑顔は同じなのだ。生前に大好きだった、お母さんの笑み、そのまんまだった。
苦しくて、なのに懐かしくて嬉しくて、お母さんの胸に縋って泣いた。
「……あの、厚かましいのは承知してます。もう少しだけ、こうしていても、いいですか? 次の、お客様が来るまでっ」
なんとか一呼吸吐き出して、嗚咽と共に、切れ切れに伝えた。
もう二度と感じる事が出来ないと思っていた、お母さんの優しい温もり。それを今、こうして再び肌に感じている。
もう少しだけ、後少しだけ、……お母さんの背中にグッと腕を回した。手放すことが惜しい。手放したくなかった。
何よりこれが、お母さんと温もりを分け合う最後なのだ。
「あらあら? ふふふ、もちろん構わないわ」
お母さんはずっと、トントンと優しいリズムで私の背中を撫でてくれた。
私は幼子に戻ったように、お母さんの胸にスンスンと鼻先を寄せて泣いていた。嬉しくて、切なくて、泣いた。

カラ、カラカラカラ。
「ごめんくださーい」
っ!
ビクンと肩が揺れた。
「おや? もしかするとまだ開店前かい?」
……あぁ、二人目のお客様が来てしまった。
この日ほど、お客様の訪れを厭わしく思った事はなかった。お母さんとの邂逅を、邪魔された思いだった。
「いいえ、店は開いています。お好きな席にお掛け下さい」
「ん? そうかい」
答えぬ私に代わってお客様に声を掛けたのは、奥から颯爽と現れた十夜だった。お客様は抱き合う私達の対角へ進み、窓側の席に掛けた。
「兄さん、団子をお願いね」
お母さんとの邂逅に気を取られ、十夜の存在を今の今まで忘れていた。それくらい、私にとってお母さんとの再会がもたらす衝撃は大きかった。
「はい」
十夜は当たり前のように注文に応じ、団子の用意に厨房に向かう。その時、通り過ぎ様の十夜が私に向けて、視線を投げる。
十夜の目が、ゆっくりしておけと、無言のまま私に告げる。
「あ……」
私が何か言うより前、十夜は微笑みを残して厨房に消えた。
一人で切り盛りすると啖呵を切って始めた店だ。それを十夜任せにしてしまう事への心苦しさは、もちろんある。
だけど、お母さんとの時間は有限で、しかも二度と得られない。十夜の労わりによって与えられた、お母さんとの時間。
素直にありがたいと、今は甘えさせてもらおうと思った。
けれど十夜の姿が消えた後、お母さんが私を抱く手をそっと解く。
「好きで始めたご商売なのでしょう? ならば、どんな時でもしっかりとお客様をお迎えしなくちゃいけないわ」
そうしてやんわりと、けれどしっかりとした声音で告げる。
「貴方なら大丈夫、だーいじょうぶよ、ね?」
抱擁を解いたお母さんは、最後に励ますようにトントンと二回、背中を叩いた。
目が覚める思いがした。身につまされる言葉だった。
私情に突き動かされて十夜に甘え、お客様を蔑ろにした自分自身が、恥ずかしかった。
「ありがとうございます。私はもう、大丈夫です。どうぞ掛けて下さい? それで私のお団子を食べていって下さい」
私は袖で涙を拭うと、凛と顔を上げてお母さんに告げた。
「まぁ、ふふふ。ありがたく、ごちそうになろうかしらね」
「はいっ」
私は足早に厨房に向かうと、お礼と、この先の仕事を自分で熟す事を十夜に伝えた。
十夜は私の目を見て頷て、トンッと私の肩を叩くと店内に戻っていった。
その後は、続々と新しいお客様が入店した。
私は全てのお客様に分け隔てなく、サービスを提供した。そんな私の姿を、お母さんと、そして十夜が、微笑んで見つめていた。


朝一番に訪れたお母さんは、最終便の出航まで静かに私を見つめながら、店内に留まっていた。
出航の時刻が迫ると、店内のお客様が続々と船着き場に向かう。
お母さんが席を立ったのは、一番最後だった。
お会計の前で、私は再びお母さんと向き合っていた。
「美味しいお団子をごちそうさまでした。えぇっと、お代ね、お代……」
お母さんはハンカチを取り出したのと反対のポケットをガサゴソと探していた。
「お代は、よかったらさっきのハンカチをいただけませんか?」
「え? これ?」
お母さんはキョトンとした顔をしている。
「絶対に大事にします。ずっと、大切にします」
「……ふふふ、いいわよ。なんでかは分からないのだけど、とっても大切な物のような気がしていたの。だけどそんなふうに言ってもらえるなら、どうかお嬢さんが持っていて?」
お母さんの手が、私の手を包み込み、その手にハンカチを握らせた。
「……最後にもうひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「何かしら?」
「さっちゃん、って呼んでもらえませんか?」
お母さんがふわりと笑った。
「さっちゃん? さっちゃんなら大丈夫、だーいじょうぶよ?」
ハンカチを握る私の手を何度も撫でながら、お母さんは「さっちゃん」と私を呼んだ。
「さっちゃん、元気でね。お団子屋さん、頑張ってね。だけどとっても美味しいお団子屋さんだから大丈夫ね」
「……お母さん、良い、船旅を」
お母さんという言葉が、自然と口から出ていた。お母さんは微笑んだまま、表情を変えない。
けれど、ここでは会わないはずの目線が、確かに絡み合った気がした。私の胸の奥、心の目で確かにこの一瞬、私はお母さんと繋がっていた。
私は万感を胸に、お母さんの船出を見送った。
そうして店内に一人になった瞬間、一気に体から力が抜けた。
床にへたり込みそうになる私を、すんでのところで支えたのは十夜だった。
「……十夜」
あぁ、そうか。今日は、店内に一人じゃなかった……。
十夜は無言のまま、私の膝裏に腕を差し込むと、横抱きに抱き上げた。
人一人の重さを腕に抱えても、十夜はまるで揺らがない。重さを感じさせない足取りで、私を奥の席へと運んだ。
「十夜は、これを知っていたんですね。それで、心配してくれてた……」
十夜は壊れ物を扱うみたいにゆっくりと、丁寧に私を座席に座らせる。十夜の目が、優しい光をたたえて私を見下ろしていた。
「さて、何の事だ?」
十夜は知らんぷりをする。
そうしてポケットから引っ張り出したハンカチを、不器用に私の目元に押し付けた。
「……十夜、普段はハンカチなんて面倒くさがって持たないじゃないですか。おトイレの後は、ペッペッて長衣の裾で手を拭いちゃってるの、私知ってるんですよ?」
「ふん。俺だって、たまには持つぞ? 例にほら、今日は持っていただろう?」
……そのたまにしか持たないハンカチは、パリっと糊がきいたまま。夕暮れに差し掛かっても、まだ一回も使っていない。
「ふふふふふっ。なんだかまるで、用途を決めて持っていたみたい……っ、っっ」
無駄話で誤魔化したつもりの涙は、やっぱりうまく、誤魔化されてはくれないみたい。
「もう黙れよ。胸くらい、貸してやるから」
トントン、と背中を撫でる十夜の手。
お母さんとは違う、ゴツゴツして、大きな手。
だけど、温かさと優しさは、勝るとも劣らない。
涙は治まるどころか、その勢いを激しくした。
「……十夜、……ありがとう」
「幸子、人はいつか命を散らす。けれどそれは新たな生の始まりで、決して悲しむばかりではない」
三途の川に暮らして、私は生き死にの理を知っている。お母さんはまた生まれ、そして誰かのお母さんになるのだろう。
「それでも、弔いは死者の魂を彩る。だから今夜は、俺に聞かせてくれないか? どんな母上であったのか。生前の母上を偲び、母上を悼んで過ごそう」
十夜の大きな優しさが、深く沁み入るようだった。
お母さんの死だけじゃない、十夜の深い優しさもまた、私の胸を詰まらせた。
「うん、うん十夜……」

その晩は居間のソファで十夜と二人、肩を並べて一夜を明かした。
私がぽつりぽつりと、生前の母の思い出を語る。十夜はそれに、静かに耳を傾ける。
その穏やかな瞳を横目に見ながら、私は十夜の影響力の大きさを感じていた。
こんなにも充足し、柔らかに凪いだ気持ちでお母さんの旅立ちに向き合えるのは、他ならない十夜がいてくれるから。
「幸子、母上はとても素敵な女性だったのだな」
そうして一夜語り明かし、白む空を望む私は、晴れやかな心でお母さんとの決別ができていた。
「はい。自慢の、お母さんでした」
十夜の腕の中、そっと瞼を閉じ、お母さんに別れを告げた。
お線香も、読経もない。
だけど確かに、お母さんの魂に彩を添えた一夜だった。慈しみに満ちた、弔いの一夜が明けた。