明日の分の団子の形成を終え、茶葉の確認をして厨房を後にする。店内のテーブルと椅子を簡単に整えると、戸口の暖簾を外す。
暖簾を畳み、戸棚にしまう。
そうして最後に戸口を施錠して、店を出た。店の横の木陰で、十夜は幹に背を預け、三途の川を眺めていた。
「終わったか? じゃ、帰るぞ」
私に気付くと十夜はすぐに歩み寄り、私の手から風呂敷を取り上げる。
「はい、お待たせしました」
十夜はいつも、何も言わなくとも私の閉店準備が終わるのを待っている。
そうして私の荷物を取り上げると、決まって空いた方の手に私の手を取る。こうして私たちは毎日、肩を並べて十夜の屋敷に帰宅していた。
「なぁ幸子、今日は団子、残ってないのか?」
いつもよりも嵩の少ない風呂敷包を持ち上げて、十夜が眉を下げる。
「すいません。今日は予想外にお客さんが多くって、完売しちゃいました」
「そうか。そういえば船も定員いっぱいだったか」
声のトーンが明らかに下がる。
十夜は私の作る団子が好きだ。団子の残りはいつも、全て十夜の胃袋に収まって、私の口には入らない。
「明日の分は多めに仕込みましたから」
「ならば俺は、きな粉とあんこ、両方だぞ」
「はい、分かりました」
「ふむっ」
十夜の弾んだ声に、頬が緩んだ。


***


幸子は三十歳という年齢よりも落ち着いた、しっかりとした女だった。
けれど内面の落ち着きとは裏腹に、時折見せる笑みは屈託なく、くっきりと浮かぶえくぼは実年齢よりも余程、幸子を幼く見せた。
「居候、させてもらってるんですから家事くらいはさせて下さい」
初日の幸子の宣言通り、幸子は屋敷の家事仕事の一切合切を担った。幸子を迎え、屋敷はまるでこれまでとは別物のように明るく、居心地よく変わった。
「十夜、今日はシーツを洗いますから部屋に入りますよ。見られてマズい物があったらあらかじめ隠しておいて下さいね?」
「……そんな物はない。勝手に入れ」
「ふふふっ。はい」
幸子が住みやすく屋敷を整え、俺の食事にあれやこれやと世話を焼く。それはなんと、快適で心地よいのだろう。
幸子が微笑みながら、カーテンを端から外してゆく。
「カーテンも洗うのか?」
俺は幸子と暮らすまで、カーテンなど一度だって洗った事が無い。恐らく男の一人暮らしなど、そんなものだ。
「はい。カーテンはたまに洗うと一気に部屋が明るくなるんです。気持ちいいですよ」
俺はひとつ頷くと、幸子が外しにくいだろう高窓のカーテンを外してゆく。
「!」
幸子が感動した目で俺を見上げた。
「ありがとうございます!」
「……あぁ」
照れくさくも、幸福な時間。
幸子と同居して、ほんの数日。けれど、共に過ごした月日など、まるで問題にはならなかった。俺の中で幸子という存在が、見て見ぬ振りなど出来ぬほど大きく育つ。幸子のいない暮らしなど、もう考えられなかった。
一度手にした幸福な時を、手放したくない。
ずっとこのまま、幸子を俺の元においておきたい。幸子を俺だけのものにしたい。
胸の中、狂おしいほど、幸子への愛が募っていた。
外したカーテンを腕に抱え、居間を出る幸子の背中を眺めながら、俺は幸子と出会った日の事を思い出していた。


「どうじゃ十夜? 管理者としての職務は順調か?」
それは、俺が三途の川の管理者として赴任して十年程が経った日の事だった。
「神威様!」
なんの前置きもなく現れたのは、天界の最高権力者、大天神であらせる神威様だった。
俺とて大天神、権天神に継ぐ、七天神の一人。しかし莫大な神通力を有し、天界の頂点に君臨する神威様は、雲上人にも等しい。
七天神の俺でさえ、直接神威様にお会いしたのは三途の川の管理者を任命された時を含め、数える程だ。
「お陰様でつつがなく務めております。……しかし神威様がこのようなところまで、一体どうされたのですか?」
その神威様が訪ねて来られるなど、三途の川が干からびるのと同じ位あり得ぬ事だった。
白髪に長い髭を蓄えた神威様は、己の髭を遊ばせながら首を傾げた。
「うむ。儂にも詳細は分らんのじゃが、どうにも落ち着かなくて来てしもうた。もしかすると、これから三途の川にお主の手に余る何かが起こるやもしれん」
けれど神威様の言葉に具体性はなく、随分と曖昧な物言いだった。
「現時点ではこれ以上ないほど川の流れも穏やかです。仮に不測の事態が起こっても、迅速に対処いたしますのでご心配には及びません」
俺の手に余る?
失礼と思いつつ、どうしても声が険を帯びる。
俺は、神威様に管理者としての適性を疑われているのだろうか? 要領を得ない神威様の物言いに、そんな邪推をした。
三途の川の管理者に就任してまだ十年。
神としては、己がまだ若輩である事も承知している。それでも俺の神通力、備えた知識技能を適正に評価された上での管理者任命と自負していた。
それだけに、内心の衝撃は大きかった。
「十夜、違うんじゃ。儂は決してお主の技量を疑ったりはしておらん。本当に、儂にも詳細は分らんのじゃ。年寄りの戯言と思うて聞き流してくれ……じゃが、もし困った事があれば力になる、儂を訪ねなさい」
それは、とても天界の最高権力者の言葉とは思えぬものだった。
「突然邪魔をしてすまなかったな。ではな」
神威様はそれだけ告げると、瞬きする間にはもう、いなくなっていた。
予期せぬ神威様の来訪が意味するもの……。
考えれば考えるほど、胸には疑念ばかりが積もった。


船の運航は船頭に任せており、平時であれば俺が埠頭で直接乗船を見守るという事はしていない。けれどこの日ばかりは居ても立ってもいられずに埠頭に向かった。
「なんだ、呼んでもないのに十夜が埠頭に来るなんて珍しいじゃないか? 何かあったのか?」
馴染みの船頭が俺を見つけ、歩み寄った。
「懸人、まぁ少し思うところがあってな」
「? へぇ? まぁ、不測の事態じゃなければいいんだ」
懸人は首を傾げたが、それ以上追及をする事もなく、船の点検に戻っていった。
そうして俺は埠頭に立ち、出航していく船を見送った。

「本日最終便、まもなく搭乗開始いたしまーす!」

懸人が声を張り、まもなく最終の船が出る。
凪いだ川面、乗船する人々にも別段変わった様子はない。常と変わりなく、一日が終わる。
……ふむ、取り越し苦労だったか。
これ以上ここにいても、何があろう筈もない。踵を返そうとした。
ん?
そんな時、一人の女がこちらに向かって歩いてきた。このように出航の直前になってやってくるのは稀な事だった。
「おい女、まもなく出航だ。急げよ」
俺は親切心から女に一声掛けてやった。
俯いていた女が、俺を見上げた。女と、俺の視線が絡む。

瞬間、俺は衝撃に息を呑んだ。
人、だよな!? 一瞬戸惑ったのは、女の奥に煌く何かを見たからだった。
女の煌きはどこか神性に通じるような気もしたが、女の生前の徳の高さと思えば納得も出来た。
そもそも三途の川に来るのだから、死した魂以外にあり得ない。
……とはいえ何故、女の目は現の光を残したままここにある!?
これも奇異な事だった。
「あの、私は死んでしまったのでしょうか?」
女は不安げに、俺に問いかけた。
ここは死者の魂が最初に集う場所。
けれど対岸に渡らねば、本当の意味で死を迎えてはいない。とはいえ、ここにある時点で既に現世に肉体はない。
「夢でも見ていると思うのか?」
だから対岸に渡らずとも、ここにある時点で既に死と同義だと、俺は思っている。
「いいえ……、これは夢じゃない。だって私は、病院のベッドで悟志さんを待ちながら死んだ」
女は緩く、首を振って答えた。
やはり女は、明確な記憶を持ったままここに来ていた。こんな事態はこれまでなかった。
一瞬、神威様の顔が過ぎる。
だからと言って、これは決して俺の手に負えぬほどの事態ではない。
「そうか。ならば、船に乗れ。あれが今日、最後の船だ」
ひとまず女を船に乗せさえすれば、記憶があろうがなかろうが、そんなのは大きな問題ではないからだ。
向う岸に行けば、すぐに魂は選別にかけられて、また新たな生を得て生まれ変わる。
「いいえ。私は船には乗りません」
ところが女は、俺が指し示す船を一瞥すると、首を横に振りきっぱりと言い切った。
「おい、そんな我儘は通らんぞ。いいから船に乗れ」
出航が迫り、僅かに焦り出した俺は女の腕を取った。
「来い」
「嫌です。私はここで悟志さんを待ちます」
しかし女は脚をその場に踏ん張って、テコでも動こうとしない。
「おいっ、いい加減にしないか?」
「私、絶対に川を渡りません」
俺の目をしっかりと見据えた女の主張はブレなかった。
「本日最終便、出航いたします」

なんと女と押し問答を繰り広げている内に、最終の船が出航してしまった。
「……おい女、船が行ってしまったではないか」
女は遠ざかる船を見つめ、ホッと小さく息を吐いた。
しかし、行ってしまったものは仕方ない。
とは言え、いつまでもここに留まらせる訳にもいかん。なんとか説得し、明日の船に乗せなければ……。
一人、明日の船に女を乗せる算段をしていると、そっと袖を引かれた。
見れば、涙を溜めた女が真摯な目で俺を見上げていた。
「私、川は渡りません。ここで悟志さんを待ちます。最期に一目、会わずには逝けません」
女の目に、何物にも揺るがぬ芯を感じる。目に光る物を溜めながら、凛と言い募る女。
ぞくりと心が波立った。
女は、俺の心の奥底、深いところを揺さぶった。
俺は波立つ心を落ち着かせるように、ひとつ大きく息を吐く。
行き詰った状況を打開するべく、本来は不出の閻魔帳を呼び寄せた。
「ここで待ってたってその男が来るのは、あと三十年も先だぞ?」
女の待つ、悟志という男の寿命を確認して告げた。
三十年という時は、長い。これで、考えを改めてくれまいか。
「ならここで三十年、悟志さんを待ちます」
俺の微かな期待は、容易く打ち砕かれた。
「あのな、本来閻魔帳の内容を言うのはルール違反だが――」
俺は、悟志という男が妻と子供らに見送られて天寿を全うする未来を告げた。
すると女の目が大きく見開かれ、その目に溜まる透明な雫がキラキラと光を弾く。

あまりの美しさに、息を呑んだ。
同時に、深く後悔した。気付けば俺は管理者の任を大きく逸脱し、言う必要のない事実までを告げていた。
しかし一度口にした言葉は戻らない。
俺が言わなければ、知らずに済んだ事実。女を余計に傷つける残酷な現実。
俺はきっと、女が想いを寄せる悟志という男に嫉妬した。
女に深く想われる男に、醜い嫉妬の炎を燃やしたんだ。
「……私の思いは変わりません。この目に再び悟志さんを見るまで、私はここから動きません」
けれど女は、震える声ではっきりと言い切った。
女は、目に溜まる美しい煌きを零さない。
「ああそうかよ。勝手にしろ。どうせ三十年、もつとは思えん。乗りたくなったらいつでも船に乗れ」
凛として、美しい女。醜態を晒した俺は、これ以上女の前にいる事が憚られた。
無様な俺は捨て台詞を残し、女の前から逃げた。
「……俺は、何をやっているんだよ」
けれど途中で、思い直して足を止めた。
「クソッ!」
俺は女の元に、踵を返した。
こうして、俺と幸子の同居生活は幕を開けた。