カラカラカラ。
戸を引く音で、見ずとも来訪者は十夜だと知れる。
「幸子、今日はタツ江婆がすまなかったな。タツ江婆は人は悪くないのだが、如何せん手癖が悪くていけないんだ」
閉店後の『ほほえみ茶屋』の暖簾を潜り、十夜が開口一番に告げた。
「いいえ、お団子もちゃんと足りましたし、結果としてお土産に差し上げて良かったです。タツ江さん、面白い方ですね」
「面白い、ふむ。確かにそうか」
最初はそんな、たわいのない会話をしていた。
「……幸子、何かあったか? ずっと心ここにあらずだ」
けれどついに、十夜が核心に切り込んだ。
私を覗き込む十夜の瞳には、心配の色がありありと浮かんでいた。そこにはただ、私への労わりだけが見て取れた。
あまりに情けなくて、十夜の顔をまともに見る事は出来なかった。
「……私、十夜に謝らないといけません」
俯きがちに紡いだ私の声は、ひどく掠れていた。
「そうか。まぁ、掛けて話すか」
十夜は手近な椅子を引くと、私をそっと掛けさせた。十夜ももう一脚椅子を引き寄せて、私の隣に腰を下ろした。
閉店後の店内で、私は十夜と二人、静かに肩を並べていた。
十夜は急かさずに、静かに私の言葉を待っていた。
「どうやって謝ろうかって、ずっとそればかりを考えていました……」
ひと呼吸おいて、隣の十夜を見上げた。穏やかに凪いだ十夜の瞳に励まされ、私はついに口を開いた。
「十夜、一昨日、ここに呉服問屋さんが来ました。その人から、十夜の依頼でタツ江さんという女性のところに着物を誂えに行くと、聞いたんです」
十夜は静かに頷いて聞いていた。
十夜は私の愚かな勘違いに、まるで思い至っていない。
当たり前だ。こんな短慮、十夜には想像も出来ないだろう。
「私は、十夜が懇意にしている女性に着物を贈るんだと、そう早とちりをしたんです」
告げた瞬間、十夜の瞳の奥が紫色に煌く。
色眼鏡に濁った私の瞳とは対照的に、十夜の瞳はどこまでも澄み切って綺麗だった。
「私は醜い嫉妬で、あんな態度を取っしまったんです」
なんて愚かな勘違いを、したんだろう。
なんて馬鹿な八つ当たりを、したんだろう。
どうして冷静になって、十夜に尋ねる事が出来なかったんだろう。
「十夜、あんな態度を取ってしまって、本当にごめんなさい」
十夜から視線を逸らさずに告げた。せめて包み隠さずに、正直な心を伝えた。
十夜は呆気にとられたような表情で、私を見つめていた。
「幸子……」
裁きを待つような緊張感で、私は身を縮めて続く十夜の言葉を待った。
「幸子!」
「っ、十夜!?」
けれど言葉よりも先、息詰まる強さで、十夜の腕が私をきつく抱き締めた。
間近に私を覗き込む十夜の瞳に、激情の焔を見た気がした。
「今の嫉妬というのは、少なからず俺という男に情を持っているのだと、そう思っていいのか!?」
心を伝える事に、迷いはなかった。
「十夜を想うから、嫉妬をしました」
十夜は目を瞠り、固唾を呑んで私の言葉を聞いていた。
想いは言葉にしなければ、伝わらない。
言葉を呑み込んだ事で、私は愚かな勘違いを正せぬまま、十夜を深く傷つけた。
「十夜が想いを通わせる女性がいるかもしれないと思えば、とても平常心ではいられませんでした。それで思わず、あんな態度をっ……」
「幸子、ならば俺は嬉しい! 幸子が俺に嫉妬してくれて、嬉しいぞ!」
!!
私の手を、十夜が両手で握り込む。
「十夜……? こんな短慮をして、十夜に触るなだなんて……ほんとに私、後悔して、本気で消えてしまいたいって思いました」
どれだけ寛容に、どこまで寛大に十夜は私を受け入れるのか。
「俺が構わんのだから、後悔など不要だ。その代わり、消えるなんて許さない。幸子はここに、いればいい! 俺の隣に、いればいい!」
!!
十夜への愛しさが、迸る。
十夜のくれる一言一句、その全てが私への慈愛に満ちている。
「十夜! 私を十夜の隣に、いさせて下さい!」
「幸子!」
想いは堰切って、奔流みたいに溢れ出る。
苦しいくらいの抱擁に、全身に熱が巡る。
私と十夜は微笑み合い、愛しさを分け合うように固く抱き合った。
十夜と心を通わせて、この日の帰路はいつもより、並ぶ二人の距離が近かった。
「なぁ幸子、お茶屋のメニューは、どうして団子なんだ?」
十夜はいつも通り残り物の団子を頬張りながら、隣で肩を並べて歩く私に問いかけた。
「いきなりどうしたんですか?」
「ん? ふと思っただけだ。まぁ、団子で良かったんだがな」
醤油ダレの団子を完食した十夜は、揚々と二本目のきな粉の団子に噛り付いた。
「ふふふっ、どうしてお団子かは……内緒です」
「?」
十夜は口をもぐもぐさせながら、首を傾げていた。
お茶屋を始めると決めた時、まず提供するメニューに迷った。
思考錯誤しながら、最終的に候補は三つまで絞った。最終的には十夜の鶴の一声で、私が団子に決めたのだ。
……十夜の好物だから。だからお茶屋は、迷わず団子屋になった。
メニューの候補が三つまで絞れた後、私は試作品をそれと知れぬように十夜に出した。
お茶屋は私の独断で開業を決めたから、十夜にメニューの相談を持ち掛けるのは憚られた。
けれどどうせお店を出すのなら、十夜が少しでも好ましと思えるメニューを提供したいと思った。
同時に、十夜の好物なら廃棄も多少なり減らせるだろうと、そんな打算もあった。
そうしてまず、初日はお饅頭を出した。
十夜は試作のお饅頭をペロリと完食した。
「十夜はお饅頭、好きですか?」
「いや、好きなのはあんこだ。皮は別段好まん」
「……そうですか」
感触は悪くない。けれど、いっぱい提供して皮だけ残されてしまっては、うまくない。
翌日は、羊羹を出した。
十夜はちびちびと食べ進めてはいるものの、なかなか皿は空かない。
「……十夜は羊羹、嫌いですか? 」
「嫌いではない。俺は出された物は残さん」
……要するに、好きではないのだ。
スッ。
「おいっ!?」
私は十夜がお茶を飲んでいる隙に、ヒョイッとフォークを伸ばし、十夜の食べかけの羊羹を一刺しした。
十夜から奪った羊羹を一口で頬張った私に、十夜は目を丸くしていた。
「残ってるみたいだったので、貰っちゃいました」
「……そうか」
十夜はちょっとだけ、安堵の表情を浮かべていた。食べ難い物は残してくれて全然構わないのに、十夜は物凄く義理堅い。
私はこれ以降、十夜に羊羹は一度も出していない。
ついでに普段の食事でも、十夜の箸の進みが極端に鈍い物に気が付けば、二度目は出さないようにしている。
そうして三日目に、団子を出した。
目に見えて、十夜の食いつきがいい。あんこ、きな粉、醤油ダレ、十夜はあっという間に団子を完食した。
「十夜は、お団子好きなんですか?」
「あぁ、団子なら毎日でも食えるぞ」
「そうですか。でもそんなふうに聞かされると、これから毎日出しちゃうかもしれません」
「団子なら構わんぞ?」
!!
私にはもう、団子以外の選択肢などなかった。
こうして『ほほえみ茶屋』は団子屋になったのだ。
そうして開業から二十年、十夜の言葉に二言は無かった。
おかげで私は団子の廃棄に業者を手配した事が一度もない。団子の残りは、こんなふうに全て、十夜が胃袋に収めてくれる。
だから私はこれまで、自分の団子を口にする機会があまりなかった。
「十夜、きな粉のお団子、私にも下さい?」
タツ江さんにお土産を包んだ事もあって、今日の残りは醤油ダレ、きな粉、あんこ、それぞれ一本ずつ。
だからきな粉のお団子は、十夜が齧る一本のみだ。
「ん? ほら」
十夜が一玉目の団子を咀嚼しながら、三玉残る串を私に差し出した。
私は躊躇なく、十夜の手から二玉目の団子を食べた。
こんなふうに強請り、ひとつ串の団子を十夜と分け合って食べるのは初めての事だった。
「美味しいですね」
「あ、あんこも食うか?」
少し弾んだ声をして、十夜は包みからあんこの団子を取り出した。
「いただきます」
そうして一玉目を私が齧る。そのまま十夜が二玉目を齧った。
同じ時間を共有して、同じ物を口にする。
それはなんて親密な行為だろう。
抱き合うに勝るとも劣らない温かさが胸を満たした。
「とはいえ十夜はずっとお団子で、飽きちゃいませんか?」
「……言ったろう? 俺は団子なら、毎日でも食える」
もしかして十夜は、覚えている!?
バッと仰ぎ見た十夜は、最後の一玉を幸せそうに噛みしめていた。けれど十夜の表情から、それ以上を読み解く事は出来なかった。
「さ、今度は帰って晩飯だな。今晩は何だ?」
そうして食べ終えて手が空いた十夜は、当たり前のように私の手を握り締めた。
伝わる温もりに、一層愛おしさが募った。
「煮魚を用意してます」
「……煮魚か」
十夜の反応に、苦笑が漏れる。
煮魚を前に、いや、魚全般を前にして十夜の箸は進みが鈍い。だけどそれは、嫌いだからじゃないのを、私はちゃんと知っている。
「ふふふっ。十夜の分、私が骨と皮を取って身をよけてあげますから」
「そうか! 煮魚は美味いから嫌いじゃないぞ」
そう、十夜は骨と皮で、ちょっと食べるのに難儀しているだけなのだ。
「幸子、ご飯は大盛りだぞ」
……そうか。そこまで好きだったとは、ちょっと意外だ。
「分かりました。煮魚も、多めに用意してありますからね」
「そうか!」
十夜と私の日常は、これを境に少しその密度と温度を高く変えた。
けれど不思議と私達の関係には、なんの約束も展開もなかった。
劇的な変化とならなかった事に私は首を傾げつつも、十夜と過ごす一日一日が、かけがえなく愛おしかった。