「本日最終便、まもなく搭乗開始いたしまーす!」
船頭が声を張る。
その声を合図に、店内で船を待つお客さんが一斉に席を立った。
ここは川のほとり、船乗り場の程近くに建つお茶屋。
手作りの団子と煎茶で、寄る人に一時の休息を提供している。
川の対岸と、こちら側とを繋ぐ手段は船だけだ。
その最終便の出航を見送って、ここ『ほほえみ茶屋』も今日の営業を終える。
「お嬢さん、お会計を頼むよ」
お客様の最後の一人、白髪の老爺が席を立つ。
老爺は懐から財布を取り出そうとした。
「お、おや? おかしいな」
けれど老爺は財布が見つからなかったようで、代わりにポケットから小銭を探し出す。
「おお、なんとか小銭があった」
老爺は五円硬貨を六枚、しわがれた手のひらに載せて差し出した。
「お爺さん、それは船賃に必要ですから、ここのお代は結構です。それより、乗り遅れてしまいますからどうかお早く」
それは半分本当で、半分嘘。
船もまた、規定料金は定めておらず、必ずしも料金が必要ではない。
けれど思いの詰まった老爺の硬貨は、貰うのが憚れた。
「おお、そうか。船賃があったか。では、すまないがお嬢さん、ここはお言葉に甘えてご馳走になります。とても美味しかった、どうもありがとう」
老爺は私に向かい、丁寧に頭を下げると、船乗り場に向かった。
「いいえ。よい、船旅を」
私もまた、深く頭を下げて老爺を見送る。
宗派や地域によって風習が異なるが、十円硬貨や五円硬貨を差し出そうとする人が多い。他にも多くのお札を握った人や、無一文の人もいる。
若い人、年配の人。錦を纏う人、襤褸を纏う人。穏やかな顔をした人、険しい顔をした人。
私がこの地に『ほほえみ茶屋』を開店して二十年。
ありとあらゆる人が、ここには集う。そしてありとあらゆる人を、私は見送って来た。
けれどその誰もが、生前の記憶を持たない。
……それは私以外の誰もに、共通して言える事。
「なんだ幸子、今日も乗らなかったのか?」
既に二十年繰り返された、聞き慣れた言葉。
暖簾を割り、顔を覗かせたのは三途の川の管理者で『ほほえみ茶屋』のパトロンでもある十夜だ。
「ふふふっ、何度も言ってるじゃないですか。私は船に乗る気はありませんよ」
十夜は答えずに、ただ、肩を竦めてみせた。
かつて十夜は、テコでも船に乗ろうとしない私を、何とか船に乗せようと画策していた。
けれどいつの頃からか、十夜は私を船に乗せようとはしなくなった。
いや、「乗らなかったのか?」と聞きはする。けれど乗せようと、直接的な行動を取らなくなった。
「さ、今日は大繁盛でしたからね。明日のお団子の仕込みは少し多めにしよっかな」
「……何が大繁盛だ。いくら利用客が多かろうと、ろくすっぽ代金も取らずに大赤字だろうが」
呆れたように、十夜が溜息を吐く。
「いいんです。幸運にもこの店には十夜っていう頼もしい支援者がいますからね。利益は二の次で構わないんです」
だってここは、『ほほえみ茶屋』。
どんな死に方をした人も、ほほえんで船に乗り込んでくれたらいい。
「変わった女だ」
十夜は目を細め、私を見つめた。
「ふふふっ」
私も長身の十夜を見上げ、吸い込まれそうな十夜の瞳に微笑んだ。十夜の瞳は一見すれば私と同じ黒。
けれど間近に見れば、瞳の奥に深く美しい紫の煌きがある。
二十年前はただ、恐ろしかった十夜の瞳。
それが今では、温かく優しく感じるのは何故なのか……。
私はこれ以上の感情に蓋をして、明日の分の団子粉を練り始めた。
私は、京堂幸子。
亡くなったのは二十年前、三十歳の時。
結婚なんて、もうとうに諦めていた。ところがそんなある日、私にも遅い、とても遅い春が訪れた。
切欠は伯母の紹介。親戚の紹介なんて纏まらなければ気まずいし、纏まっても後々煩わしい。とても気が重いまま、初めての顔合わせに向かった。
ところが、一目見て確信した。運命と言うものを私はこの時、初めて信じた。悟志さんに会う為の三十年であったのだと、そう思えた。
私と悟志さんの恋は、瞬く間に燃え上がった。
とんとん拍子に話は進み、半年後の秋に挙式が決まった。けれど初夏の便りが届く頃、私の体に異変が出始めた。
仕事と挙式の準備に追われ、疲れが出たのだと、騙し騙しに日々を過ごした。
けれど病魔は容赦なく私の体を侵す。梅雨の終わり、ついに重い腰を上げ、向かった地元のクリニック。医師のただならぬ表情に動悸が収まらないまま、私は紹介状を持たされて、その足で大学病院を受診した。
そこからはまるで坂道を転がるように、体調は悪化の一途を辿った。
既に病巣は全身に巡り手術不可能、化学療法を始めたが進行の速さに追い付かない。
副作用に苦しみながら、私はいつも病室の窓から茂るクスノキを眺めていた。クスノキには多くの蝉が付き、煩いほどの大合唱を披露していた。
その大合唱も落ち着き始めた夏の終わり。クスノキの枝から、空蝉がぽろりと落ちるのを見た。それが私の最期の記憶。
私は秋を待たずに、人生を終えた。
悟志さんは最期の瞬間に、間に合わなかった。
三途の川に来て、私は何故か正気だった。
私は死する直前までの全ての記憶を持っていた。
「私、川は渡りません。ここで悟志さんを待ちます。最期に一目、会わずには逝けません」
もう何度目にもなる押し問答。
「だーかーら、ここで待ってたってその男が来るのは、えーっと……」
十夜は困惑しきりの様子で、いつの間にか湧き出た帳面を捲り出した。
「……あと三十年も先だぞ?」
十夜は帳面のあるページで目を留めると、そう告げた。
「ならここで三十年、悟志さんを待ちます」
悟志さんは四十歳だった。それは悟志さんが七十歳まで生きるという事だ。
「あのな、本来閻魔帳の内容を言うのはルール違反だが、そもそもお前が前世の記憶を持ってるのがあり得ない話だから例外で言うぞ? その悟志って男は嫁と子供らに見送られて、天寿を全うしての大往生だ。分るか? 三十年後、お前の事は男の中でとっくに過去になってるんだ。お前の事など覚えていない上に、男は他の女の夫であり、父親だ」
!
……そう、そうか。だけどそんな事は、分かっている。
私と死別した後、悟志さんがどう生きようが、それは悟志さんの自由だ。
分かっているのに、握り締めた拳には爪が食い込んで痛みが走る。
目には熱い物が滲み、目の前の十夜の美貌が霞んだ。
「私の思いは変わりません。この目に再び悟志さんを見るまで、私はここから動きません」
意地で震えを止め、なんとか涙を呑み込んで答えた。
「……ああそうかよ。勝手にしろ」
十夜は一瞬目を瞠り、スッと視線を逸らした。
「どうせ三十年、もつとは思えん。乗りたくなったらいつでも船に乗れ」
そう言い残し、十夜は消えた。
啖呵を切ったくせに、十夜が消えると一気に心細さに襲われた。一人取り残され、押しつぶされそうな恐怖に怯えた。
三十年と言う月日を、私は甘く見たのだろうか……。
「……おい、うちに来いよ」
!!
頭上から掛かる声に、驚いて顔を上げた。
すると、消えたはずの十夜が私を覗き込んでいた。
「よくよく考えたら、お前に風邪でも引かれちゃ俺が管理責任問われちまう。仕方ないからお前が船に乗るまで、俺の屋敷に居候させてやるよ。ほら」
ほら、といって差し出された手を注視して、首を捻った。
……一度死んだ私も、風邪を引くんだろうか?
「お、お願いします!」
けれど疑問は口に出さず、私は差し出された十夜の手を力強く掴んだ。
「……ん」
十夜はぶっきらぼうに頷いた。
温かく大きな十夜の手が、私の手をギュッと握り返した。心細さはもう、なかった。