「一問だけ、どうしても思い出せない問題があったの」

 並榎はそう言って、俺に語り始めた。

 社会のテストのことだったという。

「その問題ができてもできなくても、多分合格には影響なかった。でも……思い出せないことが悔しくて、私は必死で考えて答えを探した。そうしたら」

 不意に、顔を上げた時。

 前の席に座る生徒のテスト用紙から、その回答がチラッと見えてしまった。

 あるいはそれは、カンニングというにはあまりにも偶発的なもののように思う。

 しかし並榎はそれによって答えを思い出した。

 そして、

「書い、たんだよね。空白を、埋めるために」

 罪悪感はあった。

 許されないと思った。

 それでも並榎はたった一つの空欄のために、自らの掟を破った。

 紛れもない罪の意識の中、試験という緊張感が並榎に心の隙を作ったのだ。

 その時の並榎の行為は誰にも見つからず、一日を終えた。

 しかし次の日、皮肉なことに並榎にはカンニングの嫌疑がかかる。

 英語のテストの時、身に覚えのないカンニング疑惑が彼女に立ち、別室まで呼び出された。

 通常であれば、否定をすれば済む話だったかもしれない。

 だが並榎の中には明確な記憶があった。

 昨日、自分が他の人の回答を見てしまったという罪の記憶が。

「英語の時は、カンニングなんてしてない。でも、それでも社会の方は、いつかバレるかもしれない。疑われてしまったのだから、きっと私には、そういう部分があるんだろうって思ったの」

 自分にかかった疑いを、並榎は否定しなかった。

 いや、できなかった。

 一つの偶然を偶然と片付けることができず、そのまま一連を自らの過ちとして飲み込んでしまった。

「全部、私が弱いから……。完璧にテストを解くことも、見えた答えを無視することもできなくて……書いちゃったから。カンニング、しちゃったから」

 たった一問、たった一回。

 しかしそれが並榎を今まで縛り続け、消えない傷として今も残り続けている。

 一を0にすることに並榎が言及したのも、そのことがあったからだろう。

「……なんだよ、それ」

 思わず、舌打ちをする。

 紛れもなく、俺自身に対して。

 並榎は俺が何かを切り出す度、決まって「新山君は強い」と言った。

 二回やるというポリシーを得意げに話していた時も、教室に行くことを並榎に進めた時も。

「何が、二回やってみろ、だ」

 並榎にとって、その言葉はどんな風に聞こえたのだろうか。

 たった一度の行動の重さを、俺はきっと理解できていなかった。

 軽い一回を積み上げて生きてきた俺には響いた「二回やる」という言葉は、きっと並榎にとっては何の価値も持たない。

 相手の事情を何も知らないくせに、分かったような顔で立ち入って。

 人にもらった価値観を、自分のもののように得意げに振る舞って。

 要するに俺は、保健室登校のか弱い女の子を救える気になって陶酔していたんだ。

 危うくなった教室での立場から目を反らしつつ、同じように教室に行きづらい女子に声をかけて、上から偉そうに語っていただけだったのだと、今更ながら思い知った。

「ごめん……並榎」

「え、どうして新山君が謝るの?」

「いや……それは。何も知らないのに、知ったような口を叩いて」

 俺の言葉に、並榎は首を振った。

「ううん、嬉しかったよ。失敗しても、明るく笑ってる新山君を見て、まだやり直せるのかな、って。ちょっと勇気をもらったから。でも、」

 一呼吸の間を置いて、並榎が俺の方を見る。

 そして、すぐに目を反らし、

「それでも……新山君には知ってほしくなったかなぁ。そんなの、絶対無理だけど」

 話は終わり、俺たちは食事を始めた。

 味気のない、時間を潰すためだけの時間が流れる。

 チャイムが鳴るとすぐ、俺は保健室を出た。

 まだ弁当は半分も食べていなかったが、それでも俺は教室に向かった。

 残った分は、教室で食べればいい。

 そう思えるくらいには、俺にとって教室は気まずい場所ではなくなっていた。

 ならば、俺が保健室に行く意味は。

 並榎に会いに行く意味は。

 そこまで考えて、一つの疑問に辿り着いた。

 そしてそれは考えるまでもなく、一つの結論が導き出される。
 
 本当に弱いのは、誰だ。