たとえ、僕が永遠に君を忘れても

 私は誠くんのことを知っているのだと打ち明けたい。
 全部思い出してほしいと縋りつきたい。

 頭痛の頻度から考えて、私が白猫とのルールを破って未来のことを告げれば誠くんは私のことを思い出してくれるだろう。

 そうしたら私はすぐに未来に帰される。
 だけどその前に、全てを思い出した誠くんがもう一度「千歳」と私を呼んでくれるかもしれない。もう一度頭を撫でてくれるかもしれない。

 ……もう、疲れちゃった。

 希望のない未来に戻されるのだとしても、それでいいとさえ思えてきた。

『――きっと後悔するよ』

 この時になって初めて、私は白猫がしてくれた忠告の意味を真に理解した。
 やめておけばよかった。

 白猫の言葉になど耳を貸さず、あのまま屋上から身を投げていればこんなことにはならなかったんだ。私を知らない誠くんに苦しむことも、罪悪感に胸をえぐられることも、死ぬとわかっているのに変えられない運命に焦ることもなかった。
 そうだ、全部やめにしよう。
 夏休みが終わったらすぐに、私は未来から来たんだよと打ち明けよう。

 最後にたったひと言、名前を呼んでくれればそれだけでいい。誠くんを救えなかったことに後悔や心残りはあるけれど、未来に戻ったらすぐに私も同じところに行けばいいだけのこと。

 完全に、心が折れてしまった。

「……やっぱりここにいたか」

 誠くんが目の前に現れたのはちょうどその時だった。
 ため息と一緒に、大好きな人の愛おしい声が私にかけられた。

「……私みたいな嫌な奴を、どうして追ってきたの?」

 もう誠くんに向けられる顔なんてどこにもない。
 少し話をしたら全部打ち明けて、それで終わりにしよう。

 あと二か月も経たないうちに誠くんは死んでしまう。そうなる前にこの寂しさを吐き出す必要がある。

 疲れ切っていた私の頭の中にはもう、いつ打ち明けるか、いつ終わりにするか、それだけしか残っていなかった。

 だから、私は忘れていたんだと思う。
 私はとても大切なことを、たったひとつ、絶対に忘れてはいけないことを忘れてしまっていた。

 時をさかのぼる前、誠くんが交わしてくれた、私にとって人生で一番大事な約束。

 忘れていたその言葉を、その瞬間、図らずも誠くんの方から口にしてくれた。
「俺は、冬木と友達になりたい」

 たったひと言、誠くんがそう告げる。

 それだけで充分だった。私が正気に戻るには。

 ……ああ、そうだ、そうだった。
 私は間抜けだなあ。

 何秒かして、それまで弱気になっていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
 そうだ、私は一番大事なことを見失っていた。

 私はまだ、誠くんと友達になっていない。
 テニスのしがらみから解放されて心の底から笑う彼の顔を見ていない。
 カラオケに行く約束ももう一度写真を撮ることもまだ果たされていない。

 心の中に、小さな火が灯る。

「――お前が俺の邪魔をしてようがなんだろうが、俺はお前のことを良い奴だと思っているし、友達になりたいとも思っている。だから自分を責める必要はない」

 諦めかけていた私に誠くんは多くの言葉をくれた。

 誠くんは私が意図的に邪魔をしていることなんてとっくの昔に気が付いていた。知っていたうえで、それでもなおまっすぐに私のことを認めてくれていたのだ。

 だというのに、当の私がこんなところで挫けていてどうする。
 心に灯った小さな火が、少しずつ大きくなっていくのがわかる。
 私の精神はもうボロボロだ。自分を責めるなと言われても罪悪感は消えない。焦りも不安もずっと胸の内にある。そこは変わらない。

 だけど、それでもやっぱり、私は誠くんを諦めることはできない。
 だって私は、誠くんと友達になるのだから。

「邪魔するのは、今日でおしまい!」

 精一杯の声を振り絞って私は立ち上がった。

 勝つんだ。
 私は運命に、そして誠くんはこれから果たすべき約束に。

 だからもう邪魔はしない。そして、それは決して彼の運命を諦めたということではない。事故を回避して大会も優勝する。
 それが、私が決めたふたりの運命だ。

 それから私はできる限り誠くんの手助けをした。大会まであと一ヵ月、残された時間はあまりにも短い。

 依然として心はボロボロで、もう明るい冬木千歳を演じる余力もない。かろうじて手足を動かしているような状態だ。

 それでも、私は足掻こうと思う。

「……どう? 運命は変わった?」
「……さて、どうだろうね」

 ――そして、ついに私たちはその日を迎えることになった。
 ――県大会当日。

「はぐらかさなくていい。死ぬんだろ、俺はこれから」

 彼がそう口にした瞬間、作り上げた笑顔が瓦解した。やがて言葉の意味を咀嚼し、飲み込んだ頃にはもはや表情を繕う必要もないのだと小さく安堵する。

 誠くんは思い出したんだ、これから待ち受ける自分の未来を。

「そっか……思い出したんだね」
「部分的にだけどな。それよりも今は話がしたい。入ってくれ」
「うん」

 安心感が全身を包み込んだ。

 時をさかのぼる前、白猫は記憶を取り戻した私たちが強い意志を持って回避行動をとれば事故を防ぐことができると言っていた。ならば私が誠くんに話すことはひとつ。

「県大会には、行かないでほしい」

 誠くんの部屋に通されるや否やの提案。今まで通りであれば嫌だと突っぱねられたのだろうけれど、テーブル越しに私の言葉を受けた誠くんは喉を唸らせていた。

「そのことについてなんだが、俺は確かに一度死んだ、それは覚えている。だけど事故を避けるのならあの道を通らなければいいだけの話じゃないのか?」
「それは――」

言ってもいいのだろうか。会場に向かえば運命の強制力によって事故に巻き込まれることを。記憶を取り戻したとはいえ白猫とのルールは健在のはずだ。

「それについてはボクから説明させてもらうよ」

 数瞬の間迷っているともはや聞き慣れた中性的な声が割り込んできた。いつの間に現れたのか、白猫が目の前のテーブルのど真ん中に佇んでいる。
「げっ、お前は……ていうか、猫が喋った……」
「まぁそうなるよねー。うんうん、ボクを見た人は大体同じような反応をするよ」

 白猫はもう飽きたと言わんばかりの退屈そうな物言いだったものの、どこか真面目な雰囲気をまとっていた。

「さて、時間がないから手短に話を進めさせてもらうよ。まずボクが現れたことについてだけど、これは簡単、君の記憶が戻ったからだね。記憶がある君に今更ボクの存在を隠す必要はないからね」

 ただし、と白猫は私に念を押した。

「それでも千歳ちゃんが未来のことを語ってはならないというルールは健在だよ。これはボクが決めたものではなく、この世界そのもののルールなんだ。君がうっかり余計なことを喋っちゃうとその瞬間未来に帰ることになっちゃう。だから代わりにボクが説明する」

「え、この世界のルールなら猫ちゃんが喋るのもダメなんじゃ……」

「あははは、まあね! 後でまた神様にこっぴどく怒られると思うよ、干渉のし過ぎだーって。でもせっかくここまで来たんだから、手助けのひとつくらいさせてよ」

 口ぶりからしてどうやら白猫は怒られ慣れているらしい。過去にも私と似た境遇の人に同じようなことをしたことがあるんだろうか。どちらにせよ今の私たちにとってこの上なく頼りになることは間違いない。
「さて、本題に入ろうか財前誠くん。君の運命についてなんだけど」

 ごくん、と誠くんは唾を飲んだ。

「今のところグレーなんだ。助かるかもしれないし、助からないかもしれない。ちなみにさっき言ってた道を変えるっていうのは無意味だよ。この世界には運命の強制力というものがあってね、まあ詳しくは割愛するけどとにかく君が大会に行けば事故は起きる」

「じゃあ俺はどうすればいいんだ?」

 誠くんの問いに答えることなく、白猫は横目で私を見やった。代わりに答えろということらしい。

「……一番いいのはここから離れないことだと思う」
 
 未来のことに触れないよう注意しつつ答える。

 外に出れば些細なことが原因であの場所に向かわされる可能性がある。だから今日は何があってもこの家から離れないのが最善。

 私と誠くんが強い意志を持ってそうすれば結末は変えられるはずだ。
 白猫もそれが最善と言わんばかりに頷いていた。

「誠くんにとって大会がどれだけ重要なことなのかは今の私にならわかるよ。だけど、チャンスは今回だけじゃない。お願い、私は誠くんに生きていてほしいの」

「……そう、だな。ああわかった。冬木の言うとおりにするよ」

「ふたりとも方針は決まったようだね。それじゃあふたりとも心の中で強く、何よりも強く決意するんだ、どんなことがあってもここから離れないと。その決意の強さが現状どっちつかずの運命を変える鍵になるかもしれない」

「うん……!」
 事故の時間までおそらく残り三十分から一時間程度。
 大丈夫、私たちがここから離れなければ全て解決だ。

 私は今日、この日のために過去へ戻ってきた。
 つらいことも、苦しいことも多くあった。そのたびに心が折れそうになって、そのたびに誠くんに救われてきた。

 そして今、目の前には私を思い出した誠くんがいる。
 届かなかった一歩に、ついに到達したんだ。

 後は私たちがここを離れないだけ。ここに居続けるだけ。それでいい。
 決意なんてとっくにできている。それは誠くんも同じなはずだ。こんなところでお母さんとの約束を無駄にするわけがない。

「……どう? 私たちの運命は変わった?」

 幾ばくかの間を置いて訊ねる。
 これで運命は変わったはず。そう信じたい。私も誠くんも、固唾を飲んで白猫の返答を待っている。

 しかし、白猫は無言だった。
 部屋中がしんと静まりかえり、私にはその静寂がとてつもなく不穏なものに感じられた。

「……そんな、おかしい」

 やがて、無言だった白猫が動揺を見せた。
 普段飄々としている白猫の動揺は私たちにとって決していいものではないのだと直感的に理解する。おかしいとはどういうことなのか、それを聞くのがたまらなく恐ろしかった。

「千歳ちゃんは知っていると思うけど、ボクは人の心や過去の記憶が読めるんだ。だから君たちがどれだけ強い意志を持っているかボクにはわかる。君たちの決意は並大抵ではない、なのに、なのに――」

 白猫はひと呼吸置いた。そして、

「――なのに、運命は変わっていない」

 信じたくないもないことを告げて、白猫は黙り込んでしまった。

 その場にいる誰もが口を閉ざした。何も言葉が出てこなかったのだ。

 私は誠くんを救うためならなんだってする覚悟がある。誠くんもお母さんとの約束を果たすためにこんなところで命を投げ捨てるようなことはしないはず。心を読めない私でさえ私たちの決意が固いことはわかる。

 一体、何が運命を不確定にさせているのだろう。

 再び沈黙が訪れるも、その直後、誠くんの携帯が場違いに賑やかな音を奏で始めた。

「……公衆電話からの着信?」

 画面を見た誠くんが訝しげに呟き、おそるおそる応答ボタンを押す。

『もしもーし、誠? 私だけど』

 スピーカー越しに聞こえてきた声はみなみちゃんのものだった。