「み、見ないでください」
「ごめん」
得意じゃないと言われたばかりなのに、しまった。
「ちょーっと、取ってみない?」
道路で立ち止まってなにをしているんだか。
でも、外した姿が気になって仕方ない。
「み、見ないでくださいよ?」
「わかった」と言いつつ、もちろん見るけど。
十文字くんはフレームに手をかけて、メガネを取り去った。
嘘……。
ゴクンとつばを飲み込む。
今までフレームばかりに気を取られていたからか、彼が黒目がちでどことなく色っぽい目を持っているとは知らなかった。
毎日一緒にいるのに、私としたことが……。
スーツは脱いでしまったが、これであのスーツを身に着けたら、世の女性は放っておかないだろう。
ただ、弱気な発言は好感度が下がるので、口は閉じておくのが絶対条件だけど。
「あー、やっぱりメガネはそのままにしよう」
「ないと変ですよね……」
正直言えば、ないほうが数倍いい。
でも、完璧男子なんて十文字くんじゃないのよ。
「なくても素敵。だけど、緊張するのはよくないし。ほら、もっと話せなくなると困るでしょ?」
「そうですよね!」
素直に信じる彼を前に、罪悪感でいっぱいになる。
「十文字くんの変身ぶりに、皆びっくりするよ」
「そうでしょうか。でも、僕……この髪形を自分で維持できる自信がありません」
たしかにプロの仕上げた髪形にはならないだろう。
それは私も経験済みだ。
「大丈夫。おかしかったら、朝、シュッとしてあげるから」
見た目からでもいいから自信をつけてほしい。
想像のはるか上をいくなかなかの変身ぶりなのだから、胸を張っていいと思う。
そのうちおのずと、おどおど感がなくなるはずだ。……と信じてる。
そのためにデートを企てたんだし。
「そうですよね。篠崎さんがいれば大丈夫ですよね、僕」
やっぱりお母さんからは脱出できそうにない。
しかし、彼には一日でも早く営業としてひとり立ちしてもらわなければならない。
そのためにお母さんが必要ならいつでもやる。
「あはっ。ねぇ、お腹空かない? この近くにおいしい洋食屋さんがあるんだけど」
不穏な空気も感じずあの男の子は近くにいないと判断した私は、十文字くんをランチに誘った。
「行きます!」
彼は食べ物の話をするといつもいい返事が返ってくる。
仕事で同行しているときは、昼食を外でとることがほとんどだけど、たっぷり食べてデザートでしめるのがいつものパターン。
彼はかなりの甘党だ。
一方、アルコールを主に扱う会社だというのにすぐに酔ってしまうらしく、中でもビールは苦くて苦手と言う。
それなのにどうしてエクラに入社したのか、まずそこからして不思議ちゃんなのだ。
「この時季は桃パフェがあるんだけど」
「それは食べなければ!」
仕事のときもそのハキハキさでお願い。
ひと言物申したかったが、彼があまりに弾けた笑顔を見せるので黙っておいた。
月曜は殺伐とした雰囲気から始まった。
「ちょっと、あやめ」
出社早々、真由子に手招きされて彼女の席まで行く。
「なに?」
「串さとのこと、知ってるの?」
「なにを?」
興奮気味の彼女がなにを言いたいのかわからない。
「マルサが入ったって」
「マルサって、あの?」
「そ、国税局」
私は顎が外れそうだった。
取引をもくろんでいた店の店長に襲われ、挙げ句の果てに国税局?
脱税していたってこと?
「ほんと?」
「うん。ガイアビールも捜査協力しないといけないだろうね」
この話が本当ならば、取引に至らなくてよかったくらいだ。
なにが二号店よ。
もう再建は難しいだろう。
「おはようございます」
そのとき、ぼそぼそした元気のないあいさつが耳に届いた。
十文字くんだ。
今日はまだ始業十分前。珍しく早い。
「十文字くん」
私は慌てて彼を呼んだが、マイペースにゆったり歩いてくる。
「ね、串さとが脱税だって」
「はい」
あれっ、反応が薄い。
「もしかして……知ってた?」
店長の女癖が悪いことを調査済みだった彼もまさかそこまではと思ったが、念のために尋ねる。
「はい。店長に愛想をつかしていた従業員たちが、売り上げをごまかしていると話していましたので、国税局に連絡しました」
「はぁっ? 十文字くんが通報したの?」
「いけませんでしたか?」
私は鼻息を荒くしているのに、どうしてそんなに冷静なの?
あなたはすごいことをしたのよ?
おそらくマルサは、たったひとりから寄せられたあいまいな情報だけでは踏み込まない。なにか証拠をつかんだはずだ。
単なる噂ではなく、本当に脱税していたということだろう。
「いけなくないよ。すごいってびっくりしてるの。ね、真由子」
ふと真由子に視線を送ると、彼女は十文字くんを穴が開くほどの勢いで見つめてカチカチに固まっていた。
あぁっ、そうか。
変身した彼に会うのは初めてなのか。
マルサの話が衝撃的で、すっかり頭から飛んでいた。
「十文字くん、だよね」
「はい。すみません……」
注目されていることに気づいた彼は、なぜか謝り顔を手で覆う。
やはり性格までは変えられないか。
「デート、したのね?」
「真由子、声が大きい」
私は慌てて彼女の口を押さえた。
「ち、違うから。十文字くんのイメチェンを手伝っただけだから」
周囲の人たちの注目を浴びてしまい、必死に言い訳をする。
しかしざわつきは収まらない。
そりゃあそうだ。
あのイケてない十文字くんが、イケメンに変身しているのだから。
こんなにざわつくのだから、メガネはしておいて正解だった。
なければ、女子社員からもっと大きな黄色い悲鳴が上がっているはずだ。
そうしたら、恥ずかしがり屋の彼は逃げ出すかもしれない。
「想像をかなり上回ってきた。いいよ、いい!」
真由子も大興奮。
「ちょっと、そのメガネも外してみない?」
「む、無理です」
彼はフレームを手でがっしりと押さえた。
「あー、見えなくなっちゃうからね。あはは」
だてメガネなのに、私はどうして嘘をついたのだろう。
彼の透き通るような瞳の美しさをひとり占めしたかった?
「ほら、ネクタイ曲がってる」
私はいつものように彼のネクタイを直す。
「ずっとおかんにしか見えなかったけど、今日は彼女に見えるわ」
「変なこと言わないでよ、真由子。はい、仕事しよ」
私は十文字くんを促して自分の席に戻った。
「うしろ向いて」
「はい」
そしていつもの儀式。
さっぱり切ってもらった髪は清潔感が漂うようにはなったものの、やはり寝癖がついている。
寝癖直しスプレーを吹きかけてくしで梳かす作業はこれからも続くらしい。
うれしいような悲しいような複雑な心境だった。
その日は十文字くんの変身ぶりにざわついただけでは済まなかった。
九時を少し回った頃に部屋に入ってきた部長が、背の高いダンディな男性を伴っていたのだ。
ゆるくパーマがかかった髪は整えられていて、私の大好きなスリーピースを着こなしている。
「皆、聞いてくれ。深沢(ふかざわ)清彦(きよひこ)くんだ。商品開発部から異動になり、二課の課長補佐として勤務してもらう」
そういえば、そんな辞令がメールで来ていた。
ここ二課は、総勢十六名。
得意先の数が増えてきたため、新たに人が配属される予定もある。
私たちをまとめている課長の手が回らなくなったので、もうひとり投入されると聞いた。
「深沢です。二課はとても活気のある部署だと聞いています。頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
深沢さんの言葉が終わると拍手が沸き起こる。
真由子の目がくぎ付けなのは、彼女のタイプだからだろう。
彼女は大人の雰囲気が漂う男性が好みなのだ。
あいさつが終わったあと、私は自分のパソコンの辞令のメールをクリックしてみた。
「深沢清彦 三十五歳……」
年齢より落ち着いて見えるのは、いつも一緒にいる十文字くんが幼く感じるからなのかもしれない。
そんなことを考えて隣に視線を移すと、なぜか十文字くんは険しい表情をしている。
誰だって新しい上司が来るときは多少なりとも緊張するものだ。
困った顔をしなくても、ヘマをしなければ叱られないから大丈夫よ?
って、ヘマをするのが十文字くんか……。
彼は人見知りが激しいし、深沢さんに慣れるのに時間がかかるかもしれない。
「いい男、来た」
真由子が小声で話しかけてくる。
「そう言うと思った。でも、既婚者かもよ?」
いい男ほど独身で残っている確率は低い。
もし未婚でも彼女がいる可能性は高い。
「なんで、夢を打ち砕くかな」
「現実を見なさい、現実を」
なんて、男性関係がことごとくうまくいかない私が言うことではないけど。