「ご飯のお礼にこれをあげます!」
彼が差し出したのは、白狐のキーホルダー。
しかし手作りなのか顔がつぶれていて、なんともブサイクだ。
「ありがとう」
けれど、彼の心遣いがうれしくて受け取った。
「絶対にいつも持っていてください」
「う、うん」
とはいえ、カバンにつけて歩くには手作り感が満載で恥ずかしいような……。
だから私は、カバンの内ポケットのファスナーの金具に取り付けた。
私たちのやり取りを、十文字くんも笑顔で見ている。
「本当にお世話になりました。そろそろ帰るね。お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べさせてあげてよ」
「篠崎さんが作ってくれれば……」
「甘えないの」
いつも一緒にいられるわけじゃないんだから。
でも、ご両親もおらず男ふたりで奮闘しているのだから、また手伝ってあげてもいいかも。
そう思ってしまうところがお母さん気質なんだろうな。
「それじゃあ」
玄関まで見送りに出てくれたふたりに、もう一度頭を下げる。
「駅まで行きます。銀、留守番してて」
「うん」
玄関で十分と言ったのに、十文字くんは駅まで送ってくれると言いだした。
留守番の銀くんには申し訳ないけれど、やっぱり心強い。
肩を並べて住宅街を歩きだすと、彼が口を開いた。
「なにが起こっても、篠崎さんは余計な責任を感じなくてもいいと思います」
「えっ?」
「全部もののけが悪いんです。優しすぎると、付け込まれますよ?」
もののけという信じてもらえなくてもおかしくない話をしたのに、彼は受け止めてくれている。
それだけで心が軽くなる。
「そうだね。昔、ウザイ!ってすごんだら逃げていったこともあるし」
「さすがです」
そこを褒められても、うれしくないような。
しかし、彼の言う通り気持ちは強く持たなくては。
あの銀髪の人の話では、深沢さんも離婚のダメージに付け込まれたようだし。
でも、深沢さんの離婚をどうして知っていたのだろう。
十分ほどで駅に到着すると、改札の前で立ち止まる。
「十文字くん。歓迎会のとき、私の家から遠いのに送ってくれたんだね」
「篠崎さんは僕の大切な人ですから」
照れもせずこういうことをサラッと言えるのが彼のいいところだ。
「ありがとう。また月曜ね」
彼に背を向けて歩き出した瞬間、腕をつかまれて驚く。
「篠崎さん。僕、なにもできませんが、いつでも泊まりに来てください。銀がご飯をおねだりするかもしれないですけど」
「うん、そうする。今度はスーパーに買い出しに行かなくちゃ」
と言いながら泣きそうになり、必死にこらえる。
ひとりになるのが怖くてたまらない。
けれども、これ以上彼を振り回すわけにはいかない。
彼も私も、どう考えてもあのもののけたちに勝てる要素はないが、頼れる人がいるのがこんなに心強いとは。
「それじゃあ」
今度こそ改札をくぐると涙が一粒だけ頬を伝った。
身構えていたのに、土曜も日曜もあっけないほどなにも起こらなかった。
それどころか、ずっと感じていたもののけの気配もまるでなくて、今までより快適なくらいだ。
銀髪の彼が蜘蛛を倒してくれたからだろうか。
しかし私を餌だと言った彼は、『お前は狙われている。気をつけろ』と警告していたので気を抜くわけにはいかない。
それに姿を消したあの蜘蛛が、完全に消失したのかどうか不明だ。
もしかしたら逃げただけという可能性もある。
月曜に出社したが、深沢さんの姿はない。
彼はあれからどうなったのだろう。
「あやめ、おはよ」
「おはよ」
廊下で出くわした真由子がすがすがしい笑顔であいさつをしたあと、私を手招きしている。
首を傾げながらついていくと、あまり使われない階段の踊り場に到着した。
「どうしたの?」
「今、噂を聞いちゃって」
「噂?」
彼女は周囲に人がいないことを確認してから話しだした。
「深沢さん、どうも退職するみたい」
「え!」
驚きすぎて大きな声が出てしまい、彼女に口を押さえられた。
「しーっ。まだ正式発表じゃないから。深沢さんの元奥さん、商品開発部の後輩だったって知ってる?」
「そうだったの?」
色恋沙汰にはあまり興味がなくて、初耳だ。
「うん。それで浮気されたらしいんだけど、その相手も商品開発の後輩――」
「えーっ!」
不倫相手も同じ部署の社員だったの?
「声が大きいって」
真由子は険しい表情で私を叱る。
「ごめん。びっくりして」
「知らなかったか。奥さんは結婚を機に退職してるけど、浮気相手は何食わぬ顔して一緒に働いてたの。不倫が発覚したあとさすがに退職したんだけど、深沢さんの元奥さんとまだ続いてるみたい。それであっちが本命だったんだねなんて騒がれて」
「そんなのあんまりじゃない」
夫婦にしかわからないいざこざがあったかもしれないが、それならそれで離婚してから付き合うべきだ。
「だよね。それで深沢さんも商品開発部にいづらくなって、異動願を出したんだって。深沢さん、二課に来てからはなんでもない顔して仕事してたけど、実は結構こたえてたらしくて」
「そりゃそうだよ」
同意の相槌を打つ。
私は知らなかったけれど、事情を知っている人たちからは好奇の眼差しを向けられていたのだろう。
特に女子社員は、そうした類の話に食いつく人が多い。
「なにも悪くないのにお気の毒。それで、ついに耐えきれなくなったのか、突然退職させてほしいと連絡が来たんだって」
ふたりで仕事をしているときは、そこまでのダメージは感じなかったのに。
でも、あの蜘蛛に操られていたからだったのかな。
銀髪の人も深沢さんの弱っているところに付け込んだというような言い方をしていた。
「そっか。なにもできなかったな、私……」
「あやめが気を揉むことはないよ。知らなかったんだし、偶然サポート役に抜擢されただけだもん」
「……うん」
とりあえず深沢さんが無事でいることだけは確認できたが、実に後味の悪い終わり方だ。
彼自身の意思ではなかったプロポーズも、覚えてはいないだろう。
「あっ、真由子。深沢さんのこと気になってたんじゃないの?」
すっかり頭から飛んでいた。
「恋じゃないわよ。観賞対象? いい男って見てるだけで元気になれるじゃない」
やはり恋までは行ってなかったか。
予想は的中していた。
「そう……」
「私、最近年下が気になるのよね。あやめと十文字くん見てるからかな」
思いかげないことを口にされて、目が点になる。
彼女は年上ハンターだったのに。
「どうして私たちを見ているとそうなるの?」
「母性本能くすぐられちゃってるじゃない。私も、少し前までは守ってもらいたい願望でいっぱいだったけど、守ってあげるほうもいいかなって」
そうは言うが、彼女はタイプがコロコロ変わるので一時的なものだろう。
真由子には自覚がないようだけど、好きになった人がタイプなのだ。
ただ、今までは年上が絶対条件だったので、ストライクゾーンが広がったことには違いない。
「なるほどね。狙ってる年下くんがいるんだ」
「鋭いわね」
ビンゴか。
「あとで事情聴取するから。そろそろ始業時間だよって、そういえば十文字くん!」
ちゃんと来てる?
私たちは慌てて二課に戻った。
十文字くんは相変わらずギリギリに滑り込み、寝癖直しスプレーをひと吹きする。
それからすぐに課長が入ってきて、深沢さんの退職が発表された。
「篠崎、ちょっと」
「はい」
私が呼ばれたのは、彼と一緒に仕事をしていたからだ。
「深沢くんが、中途半端で放り出して申し訳ないと言っていたよ。本来ならきちんと引継ぎしてもらうんだが……」
課長は複雑な事情を知っていて、急な退職を受け入れたのだろう。
もしかしたら私たちが知らなかっただけで、深沢さんはかなり病んでいた可能性もある。
「驚きましたが大丈夫です。深沢さん、資料はほとんど仕上げられましたよ。もう二、三日いただければ完成します。それに、新人さんの指導は別の方にお願いすることになっていますし」
「あぁ、それは聞いている。すでに打診してあって快諾されていると。その資料ができたら、今までの業務に戻っていいから。十文字を頼むぞ」
「わかりました」
深沢さんの退職は、残念ではあるがホッとした気持ちもある。
彼が悪いわけではないとわかっているものの、あんな体験をしたあとなので一緒に仕事ができるか不安だったからだ。
もののけさえいなければ……。
私が特殊な存在だから、深沢さんが犠牲になってしまった。
やっぱり、私が悪い?
「篠崎さん」
自分のデスクに戻って呆然としていると、十文字くんに声をかけられた。
「篠崎さんは悪くないです」
心の中を読まれたかのようなことを小声で伝えられて目を瞠る。