「あれっ、十文字(じゅうもんじ)くんは?」


飲料メーカー『エクラ』の営業部二課に勤める私・篠崎(しのざき)あやめは、始業時間が迫っていることに気づいて思わず漏らした。

すると、向かいの席の友人・岸田(きしだ)真由子(まゆこ)が「またギリギリ?」とあきれ顔をしている。

真由子が『また』と言うのも無理はない。
二十五歳の私よりふたつ年下の後輩・十文字志季(しき)くんは、遅刻すれすれの常習犯だからだ。

なんでも、もともと生活リズムが完全な夜型で、朝は苦手だとか。
でも、「社会人なんだからしっかりしなさい!」と先日お説教したばかりなのに。


「ヤバい。私が課長に叱られる……」


私は十文字くんの教育係なのだ。
そのため彼がなにかをしでかすと、連帯責任、いや指導不足だと苦言が待っている。


「ご愁傷様」


真由子は完全に他人事で、鼻で笑っていた。


「あと三分……」


私はとりあえずスマホをカバンから取り出して、十文字くんの電話番号を表示しボタンを操作した。
しかし、発信音が続くだけで留守番電話にも切りかわらない。


そういえば、留守番電話になったためしがないけれど、もしかして契約してない?

最近の若い子――といっても二歳しか違わないけど――にしては、スマホをいじっている姿も見ないし、珍しいタイプなのかも。


「出なさいよね……」


イライラして無意識にデスクを指でトントン叩いていると、「おはようございます」とまったく覇気のない彼の声が飛び込んできた。


「やっと来た!」
「おはようございます、篠崎さん」
「おはようじゃないわよ。何時だと思ってるの?」


こちらはヤキモキしていたというのに、悪びれる様子もなく平然とあいさつをしてくる十文字くんにキレそうになる。


「何時って……八時五十九分?」


彼は課長の席近くの壁にかかる時計をチラリと視界に入れて、〝なにを怒っているの?〟と言いたげだ。

九時始業なのだから、たしかに遅刻はしていない。

でもね、あなたは目をつけられているんだから、一分前に出社なんてギャンブルするのはやめて!


思いきり心の中で叫んではいたが、口に出して叱責すれば遅刻しそうだった十文字くんに気づいていない課長にわざわざ知らせることになる。


「はぁー」


大きなため息に怒りを込めて、お小言はなんとか呑み込んだ。


「電話には出てよ」
「あーっ、忘れてきました」


彼はカバンの外ポケットに手を突っ込んで顔をしかめる。
しかしそれも一瞬だった。


「使わないからいいや」
「よくないわよ、私が!」


大きな声が出そうになったがなんとか耐えて小声で反論すると、真由子が「仲良しね」なんて茶化してくる。


「はい。篠崎さんとは仲良しですよ」


その小学生みたいな返事はなんなの? 
それに、私はあなたの教育係なの。お友達じゃないの!

言いたいことは山ほどあったが、その前にやるべきことがある。


「はい、服装チェック」


九月中旬の今日はまだまだ暑く、彼の額には汗がにじんでいる。


「まずは汗を拭く!」

私はデスクの上に置いてあるティッシュの箱を丸ごと差し出す。
すると彼は二枚とって額と首筋を拭った。

次はいびつに結ばれたネクタイに手を伸ばして、きちんと締め直して整える。
それから……。


「十文字くん、うしろ向いて」
「はい」


あーぁ。
今日もほんのり茶色がかったきれいな髪に、ばっちり寝癖がついてる。

こんな姿でよく電車に乗れるなと感心するが、この姿のままクライアントのところには行けない。

私は自分のデスクの引き出しから寝癖直しスプレーを取り出して、彼の髪にシュッとひと吹きしたあと、くしで梳かした。

まるでお母さんだ。


「ねぇ。この髪、どこでカットしてるの?」
「駅地下の千円のところです。あっ、この前値上がりして千二百円になりました」


二百円の値上げがどうとかなんて、興味はない。


「で、いつ切った?」
「うーん。いつかなぁ」


覚えてないくらい前よね。

彼が私の下についてからはや四カ月近くになるが、私も髪形が変わった記憶がないもの。

営業なのだから、もう少し身だしなみに気を使ってもらいたいところだ。

身長は百八十センチくらいあるし、細身だし……我が二課の中でも一、二を争うスタイルのよさ。

しかし、そうは見えないのが十文字くんの残念なところ。

ちょーっとサイズが大きすぎるスーツに、どう見ても磨かれていない革靴。
ネクタイのセンスもいまいちだし、フレームの大きな黒縁メガネもまったく似合っていない。


「この髪形が、まずダメなんじゃない?」


別に汚れているわけではないけれど、はっきり言って清潔感はない。
いつもはねているし、ボサボサという言葉がぴったりなのだ。

ちゃんと整えればいいのに……。

つい本音をこぼしてしまったが、これってモラハラかしら?


「すみません。よくわからなくて」
「謝らなくてもいいけど……。とりあえず仕事」
「はい」


もう九時五分。
特に始業のチャイムが鳴るわけではないので、皆仕事を始めている。

「今日はフォローアップのあとに新規開拓に行くよ。前にリストを渡してあるよね?」


私たち二課は、いわゆるリテール営業。

ビールやジュースなどをスーパーやリカーショップ、そして居酒屋などに営業をかけて採用してもらうのが主な仕事。
もちろん、採用後のフォローアップも行う。

今日は、新規の居酒屋にアタックするつもりだ。


エクラは業界第四位のシェアを誇るが上位三社が抜きんでていて、私と十文字くんが担当しているエリアも、一位の『ガイアビール』の商品の採用率が非常に高い。

ビールの種類も豊富に持っているし、営業の人数が多いのだ。

マンパワーではどうしても敵わないが、商品の品質で負けるつもりはない。

それにエクラの強みはアルコール以外の飲料が強いということ。

上位三社はアルコール部門が独立していてその他飲料は関連会社の仕事だが、エクラはそこまで規模が大きくないため、私たちがアルコールもジュースもお茶も担当する。