入試課の人から解散の指示を貰った時、時刻は既に午後六時を回っていた。
 しかし建物を出てみれば、刺すような陽光が衰える気配は無い。上空からの殺人光線に加えて、コンクリートの地面からは照り返しが追い打ちをかけてくる。真夏特有の、あのサウナに入ったような熱気が僕に襲いかかってきた。数歩、足を進めただけで、早くも身体から汗が滲み出た。
「あっつ……」
 ニュースによれば、今年は記録的な猛暑であるらしい。まあ、いつものことだ。観測史上最大、等という言葉は、きっと来年の今ごろも耳にしているだろう。
 耐えきれず、僕はリュックから日傘を取り出す。
ネット通販で買った男性用だ。女々しいと嗤われそうだが、実際、直射日光を防ぐだけでも暑さは相当和らいでくれる。
 日傘を開き、その影へと我が身を踊らせる。よし、少しはマシになった。
 オープンキャンパスの帰りであろう、制服姿の少年少女と一緒になって、僕は大学からアパートまで歩いて十五分程度の道のりを下っていく。
どこかで蝉が鳴いていた。夏らしく、カナカナ、カナカナ、と。これはヒグラシだろうか。
 道が平坦になってしばらく行くと、三橋神社の鳥居が見えてきた。僕は何気なくその前を通過しかけ……慌てて日傘を傾けて、神社側から自分の顔を隠す。
 危ないところだった。もしも彼女に見つかれば、僕が生きているとバレてしまう。それだけは何としてでも避けたい。
 家に帰る前、ふと思い立った僕は近所の惣菜屋さんへ立ち寄ることにした。
 日傘を閉じ。ガラス戸を引いて中に入れば、カランコロン、と軽やかなベルの音が鳴る。
 熱された身体に冷房が心地良い。店の奥から美味しそうな香りが漂ってきて、腹の虫が盛大に自己主張を始めた。
 カウンターにいる女性が、僕を見つけて手を振ってくる。
「やあ青年。そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ」
 滑らかな黒髪は頭の後ろで束ねられ、肩甲骨のあたりまでサラリとかかっている。
 艶やかな睫に縁取られた瞳は横に長めで、笑うと一筋の線のように細くなることを僕は知ってる。黄色いエプロンの下、白のシャツの胸元が、呼吸に合わせて微かに揺れ動いていた。
 このお姉さんの名前を、僕は知らない。本人曰くアルバイトらしい。相手も僕の名前を知らない。
 便利だからという理由でしょっちゅう店を訪れていたら、自然とお互いの顔を覚えていた。
「こんにちは」
「はいこんにちは。ついさっきコロッケが揚がったとこだけど、試食してく?」
「折角なので貰っとく。いただきます」
 お姉さんから爪楊枝に刺さったコロッケの欠片を受け取り、そのまま一口で食べてしまう。ホクホクとしたジャガイモが口の中で崩れて、何とも言えない絶妙な旨味が全身を突き抜けていった気がした。
「……美味しい」
「あたしが丹精込めて作りましたから」
 そう、腕を組んでどや顔。僕はそれに苦笑を返しながら、今宵の夕食を見繕い始める。
「立派な理由だね。……どれにしようかな」
「青年よ。そこは、お姉さん素敵! って褒めておくものだぞ? ……個人的にはメンチカツがオススメ」
「お姉さんすてき―。……じゃあそれと、さっきのコロッケと……」
 僕がズラリと並ぶおかずの数々を吟味する最中も、お姉さんはガラス棚の上から身を乗り出して、僕に話しかけてきた。すごくフレンドリーな人である。
「結構買うね。また自炊がめんどくさくなったかな?」
「この時間から料理する気力なんて、無いもの。食べ終わったら皿も洗わないといけないし。でも美味しいものは食べたい」
「分かるよー。食後に仕事が残ってるあの感じ、マジ絶望するもんね」
 大袈裟な表現に思わず口の端が上がる。ふと上を向けば、お姉さんは胸元に手を当てて、いたずらっ子じみた笑みを浮かべていた。
「あたし、これでも料理得意だよ。お姉さんが養ってあげようか」
「……っと、他にはこれと、これを一個ずつ」
「スルースキル高いね、キミ」
「冗談って分かってるからね」
 残念、とお姉さんはわざとらしく肩を竦めてみせた。
 冗談にしては趣味が良くない気もするけど。心の中でそんなことを考える。
 そもそも僕は、社交的という言葉からは程遠く、基本的に時間をかけないと仲良くなれないタイプの人間なのだ。交友関係にしてもそうだ。おかげで友人はあまり多くない。だけど、親しくなれば末永いタイプでもある。
 僕が注文した品を、お姉さんは手早くトングで掴み取ってプラケースに詰めていく。数秒後にはそれが袋の中に入っていた。すさまじく慣れた手つきだ。
「そう言えば、ここのメンチカツ食べるの初めてかも。何が入ってるの?」
 野菜たっぷり、って札には付いてるけど。財布を出しながらそう訊けば、お姉さんは手を止めて天井を仰ぐ。
「えっと――牛豚の合い挽きでしょ。あとはキャベツとピーマン、ニンジン、ゴボウ……それとタマネギ。みーんな微塵切りにしてごちゃ混ぜよ」
「身体に良さそう」
「味だって悪くないからね? まあ食べたこと無いけど。あたし、体質的にタマネギが駄目だからさ」
 お姉さんは大きなため息を吐いた。アレルギーがある、そういう意味だろう。
 僕は幸運にもアレルギー持ちではないので、彼女の気持ちは想像するしかないのだが、食べたいものを食べられないのは単純に不幸なことだと思う。好きなものなら尚更。
「よし。それじゃ全部合わせて、お会計は七百と五十三円になります」
「ん。これで丁度だと思う」
「……確かに。それじゃこれ、レシートと。キミいつも来てくれるから、唐揚げを一つオマケしといてあげよう。お姉さんからのささやかなプレゼントだ。感謝したまえ」
「ははーっ」
 などと、コントじみたやり取りをしながら袋を受け取り、僕は店を後にする。軽やかな鈴の音色に耳を癒やされ。直後、前方から熱気が波のように押し寄せてきて、僕は思わず眉をひそめた。
 だが昼間よりは暑くない。手で日影を作って西の方角を見れば、丁度、忌々しき殺人鬼太陽さんが山の向こう側へ沈んでいく途中だった。まもなく夜になる。
 ただし、涼しくなるとは言ってない。



 オススメされたメンチカツは、お姉さんの言葉通り普通に美味しかった。
 程良い量のケチャップをかけ、箸でサクリと半分に分かてば、中に満ちていた肉汁がたちまち皿の上へと溢れ出してくる。この段階で既に食欲がそそられるが、実際に食したときの感覚といったらこれの比ではなかった。
 一口、噛み砕く度に、肉汁という名の幸福感で口の中が一杯になる。ケチャップがこれまた絶妙な立ち回りをして、カツの旨味を奥底から引き立てていた。他の品々も同じくらい美味しい。
 ただ……少々、真夏の胃袋に優しくない布陣ではあったが。
 明日はあっさりとしたものを食べよう。心の中でそう誓いながら、お風呂を済ませ。冷房を効かせた部屋の中でベッドに身体を預け、僕はおもむろに読書を始めた。
 シェイクスピアの『ソネット』。何を思ったか数日前、大学の図書館で借りてきたものだ。
 “君を夏の一日と比べてみようか”。そんな一節から始まる詩も、たしか収録されていたっけ。格別シェイクスピアが好きなわけではないし、そもそも彼の作品を読むのも今回が初だが、この一文については素直に綺麗だと思う。
 二十分くらい文字を目で追ったところで、眠気がやってきた。
「……そろそろかな」
 栞を挟んで本を枕元に置き、僕は部屋の明かりを消す。
 もちろん眠るわけではない。幽体離脱のための下準備だ。
 調べたところ、幽体離脱とは一般的に、怪我や病気などで昏睡状態に陥った人が体験するものであるらしい。
 しかし一方で僕のように、何の脈絡もないタイミングで発生した事例も少なからず存在する。そしてその大半が、夜、すなわち就寝直前の意識が朦朧とする時間に集中しているのだ。
 ネットの情報だから信憑性は低いものの、信じてみる価値はある。
 僕は瞼を降ろした。ウェブページの記載を思い出す。こう、手足はゆったりと伸ばして。呼吸は大きく、ゆっくりと。全身の力を抜いていく。あとは……そうだ、身体が宙に浮くイメージだ。
 複雑なことを考える必要はない。ただ、微睡みの中で想像力を働かせればいい。
 自分は今、空にいる。不意にベッドが無くなって、代わりに下からの風圧で身体を支えているのだ。大丈夫、落ちることはない。誰かが僕の背中に手を当てて押し上げているからだ。何て優しい人だろう。実に心地良い。そうしてそのまま、ゆっくりと、僕は星々の煌めく空の彼方へ上って――――。
 その瞬間。
 ふわり、と。ハッキリした浮遊感の後で、僕は全ての重みを感じなくなった。
「……っ」
 身体を起こす。
 意識が再び明瞭になる。
 おそるおそる視線を下げていけば、そこには魂と肉体とが重なって二重に見える、僕の下半身があった。
 手を目の前に持ち上げ、僕は頷いた。間違いない、透けている。喜びよりも驚きの方が強かった。
 風呂場に行き、慣れない半透明の身体を鏡に映して眺める。そうしてようやく、僕の心に成功の実感が湧き上がってきた。
「……出来た」
 出来ちゃったのである。
 それも、思っていたより簡単に。