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 授業が終わって昼休みになった。

 俺は三限目が終わったときに早弁をしていたので、朝コンビニで買ってきておいたあんパンを食べることにした。

 高校生になった途端、急に腹が減るようになった。

 買い食いをするのでやたらと小遣いも減る。

 でも、こういう余計な物を食べるのも高校生らしい日々の楽しみだからなかなかやめられない。

 左衛門のお嬢様は金の蒔絵が施された重箱弁当を召し上がっている。

 今日はうな重らしい。

 冷めてもうまいんだろうかという心配はご無用だ。

 たった今、市内の老舗専門店『川瀬屋』から届けられたばかりのものだからだ。

 さすがに入学したときはみんなに驚かれていたが、もはや誰も気にも留めなくなっている。

 きのうは行列のできる話題のお店からローストビーフ丼のお取り寄せだった。

 いくらこの高校の教頭が左衛門一族の伯父だからとはいえ、あまりにも自由すぎて文句を言う気にもならない。

 これに比べたら俺の早弁なんかかわいいものだ。

 しかしまあ、うな重の香りが教室中に漂って、クラスのみんなが鼻をクンクンさせながら弁当を食べている。

 俺のあんパンですらうなぎ味がしてきた気がする。

 ンガッ!?

 楽しみにしていたおやつを食べ終わったとき、俺は思わずあんこを吹き出しそうになった。

 突然視界が真っ暗になったのだ。

 どうやら頭に黒い布袋をかぶせられたらしい。

 右耳のすぐ近くで「ダァレダ」という声がした。

 しかも、それは普通の声ではなかった。

 ボイスチェンジャーで変換された気味の悪い声なのだ。

 なんだよ、これ。

 めっちゃこわい。

 おもわず頬が桃の皮のように粟立つ。

「サア、アテテゴラン」

 今度は左からだ。

 やめてくれ。

 めっちゃ気味悪い。

「だ、誰でもいい! 誰でもいいから助けてくれ!」

 後頭部のあたりでアハハと明るい笑い声がする。

 これは普通の声だ。

 しかも女子だ。

 黒い布が外される。

 見慣れた教室の光景に安心する。

 なんだよ、誰だよ。

 振り向こうとすると、今度は手で目隠しをされた。

 やや小さめの柔らかな手で少しひんやりする。

「今度は当ててみなさいよ」

 聞き覚えのある声だった。

「萌乃だろ」

 正解、と手がどけられて、ペロッと舌を出した女子生徒が前に回り込んできた。

 こいつは高橋萌乃といって、俺と名字は同じだが親戚でも何でもなく、左衛門のお嬢様と同じく、中学からの知り合いだ。

 ただし、高校ではクラスが隣なので、こうして昼休みや放課後だけ顔を出しにくるのだ。

 中学一年生の時から背が変わらないちびっこい女子だから、いつもいつの間にか忍び寄ってきていて、いたずらをしていく。

 隣の名探偵殿とは違う意味で困ったやつだ。

「いったい何のつもりだよ」

「名探偵の助手に挑戦状。だってほら、あたし神出鬼没の美少女怪盗だから」

 俺は助手になったつもりはないし、おまえは美少女でも怪盗でもないだろうが。

 神出鬼没なところだけは認めてやる。

 だいたい、挑戦だったら、助手じゃなくて探偵本人にしろよ。

 でもまあ、左衛門の姫君に袋なんかかぶせたら、その瞬間、どこからか狙撃されかねないがな。

「今の声、なんだったんだよ。めちゃくちゃホラーだったぞ」

「これよ」と萌乃がスマホを突き出した。「ボイスチェンジャーアプリよ。あらかじめ録音しておくと、いろんな音声に変換してくれるのよ」

 画面をいじりながら萌乃が俺たちにいろんな声色を聞かせた。

 ヘリウムのアヒル声とか、赤ちゃんみたいな声もある。

 左衛門のお嬢様はうな重を召し上がりながら興味深そうに聞いている。

「本当に拉致されたのかと思ったぞ」

「教室でのんきにあんパン食べてるときに? そんなわけないじゃん」

 自分でやっておいてそれかよ。

 左衛門のお嬢様がお重の蓋を静かにはめた。

「名探偵の助手ともあろう者が狼狽するとは情けない。その程度のトリックなど、このわたくしなら、すぐに見破れましたわ」

 いや、あんた、ただ見てただけだろうよ。

「だよねえ。さすがマコっちゃんは名探偵だわ」

 左衛門のお嬢様を『マコっちゃん』呼ばわりできるのは萌乃だけだが、調子に乗りすぎじゃないのか。

 だいたい何しに来たんだよ。

「ねえねえ、もうすぐ夏休みじゃん」と萌乃が前屈みになって俺たちを交互に見る。

 こいつは背が伸びなかったかわりに体の凹凸はメリハリがある。

 俺はあくびをするふりをしながら、はち切れそうなブラウスから視線をそらした。

「夏休みがどうかしたのか」

「なんか予定とかないのかなって」

 七月に入ってすぐにうちの高校は文化祭がある。

 その後、期末試験があって、それが終われば夏休みだ。

 高校最初の夏休みだが、俺は特に予定なんかない。

 部活もやってないから、バイトでもしようかと思ってはいるけど、具体的に計画しているわけではない。

「みんなでどこかに行かない?」

 なんで俺まで巻き込もうとする。

 右隣の名探偵殿が「いいですね」と左手の人差し指を立てた。

「探偵はモバイルワークですから、どこでも仕事ができます」

 犬の散歩みたいに、こんな浮世離れしたお嬢様にあちこち連れ回されるのはごめんだ。

 女子たちだけで勝手に盛り上がってくれ。

「でしょう。合宿なんてどうかな」と萌乃がパチンと手を鳴らす。「湯けむり温泉旅情モノなんていいんじゃない。サスペンスの定番だよね」

 おまえがお色気担当かよ。

 それだと始まって十五分で殺される役だぞ。

 俺は即座に否定した。

「この街には温泉がないだろ」

 スーパー銭湯だってないぞ。

 いや待て。

 左衛門一族の力で掘るなんて言い始めるんじゃないのか。

 しかしお嬢様はさすがにそこまでは言わなかった。

「それは残念ですね。湯けむり刑事シリーズの勉強会を開けたら良かったのですが」

「なんだ、『湯けむり刑事』って」

 俺が素朴な疑問を口にすると二人の眉間にしわが寄った。

「優一郎殿は湯けむり刑事を知らないのですか」

「あんた、助手失格だよ」

 いや、だから、助手になったつもりもないし、なんならクビにしてくださいよ。

 萌乃が俺のおでこをつつく。

「直木藤人の代表作で、これまで第七シーズンまで放送されてる超人気ドラマじゃん」

 その俳優も、そのドラマも知らないんだが。

「あんたね、直木藤人といえば、うちの高校の卒業生だよ。文化祭の人気投票で優勝したのが芸能界デビューのきっかけなんだってよ」

 へえ、そうなのか。

 だけど、興味のないものは知らなくてもしょうがないだろ。

「まあ、あんたはイケメンとは正反対の世界にいるからしょうがないか」

 そんな俺たちのやりとりを眺めていたお嬢様がおもむろに語り出す。

「有給消化で日本各地の温泉を巡り、行く先々で遭遇した難事件を解決する警部補。それが湯けむり刑事宇神田金剛です。手錠の代わりに手ぬぐいを使い、ふやけた殺意を解きほぐす。『温泉は血に染めるんじゃない。心を癒やすんだ』が決めゼリフです」

 なんだか微妙な感じだが、イケメンが言えば何でもサマになるんだろうな。

 萌乃が興奮気味に重ねてくる。

「クライマックスの容疑者を追いつめるシーンでは、手ぬぐい一本、丸腰で犯人に立ち向かうのよ」

 それは丸腰というより、丸出しなんじゃないのか。

「ちょうど湯けむりがいい具合に流れ出すんだよね」

 名探偵殿も静かにうなずく。

「手ぬぐいを巻かれた容疑者と共に湯けむりに消えていく演出が哀愁を誘うのです」

 なるほど、うまくできてるものだな。

「ま、しかし、温泉がないんじゃ、合宿は無理だろ。残念だったな」

 巻き込まれるのはごめんだというささやかな意思表示のつもりだったが、そんなことは二人ともくみ取ってくれないようだった。

 萌乃が口をとがらせる。

「いいじゃんいいじゃん。夏休みにみんなで遊びに行こうよ。どこだっていいよ。温泉じゃなくても吊り橋でも洞窟でも廃村でも。名探偵の行くところ事件ありだもんね、マコっちゃん」

「さすがは萌乃さん。いいことを言いますね」

 残念ながらこの平凡な地方の小都市には吊り橋も洞窟も廃村もありませんよ。

 姫君がお重を持って立ち上がった。

「この件については、いずれ検討会を開きましょう。では、わたくしはこれを下げて参りますわね」

「行ってらっしゃい」と萌乃が手を振る。「じゃ、あたしもドロンしますか」

『ハーッ、ハッハッハッ、ハァーッ』とスマホのアプリでエコーのかかった怪盗の笑い声を流しながら高橋萌乃も去っていく。

 あーあ、昼休みくらい、ゆっくりさせてくださいよ。