十二時間のフライトはつつがなく終了した。
おれは窓際の座席に着いたまま、他人を突き飛ばしながら我先に降りていくあわてんぼうたちを見送った。だらだらぞろぞろと、くたびれた顔の人々がそれに続く。
ギリギリおねえさんと呼べなくもないキャビンアテンダントのおばさんが、窓際から動かないおれに、じろりと横目を向けた。
何でガキが一人でこの便に乗ってるんだ、って? エコノミークラスとはいえ、いちばんお高い航空会社のフライトだもんね。
ずっと帽子かぶってアイマスクして食事も全部無視してたから、おばさんはおれが未成年ってことに気付かなかったんだろう。まあ、フランス人の感覚からすれば、日本人なんてみんな未成年みたいな顔してるもんらしいけど。
おれは正真正銘の未成年だ。十七歳。まだ学籍も死んでないみたいだから、襄陽《じょうよう》学園高校の三年生に進学したばっかりってことになる。
じろじろ見てくるおばさんに、おれはニッコリ笑ってみせた。
【もうちょっと愛想よくサービスしてくれたら嬉しいんだけど~】
そのとたん、おばさんはおれに微笑み返した。
ちょろすぎる。おれがちょっと本気出して「号令《コマンド》」のチカラを使ったら、何でもやってくれんじゃないの? AV張りのサービスとか。
くだらねー。
言いなりになる女なんか、もう飽きてんだよね。元気な盛りの十七歳ったって、相手が誰でもいいわけじゃねーんだよ。
おれはおばさんから顔を背けて、足下に押し込んだ荷物をつかんで席を立った。おばさんがおれに何か声をかけようとした。
「邪魔」
日本語で声に出して言って、おばさんの肩を突きのける。
あ、全然違う。と思った。
姉貴の肩はもっと低い位置にあった。ちょっと骨がとんがってる感じだった。壊れそうだから壊したくなるような、不思議な感触だった。
自然と足が止まってしまった。おれは自分の手を見る。顔が歪むのがわかる。
「お客さま《Monsieur》……」
おばさんがまた何か言いかけた。
【黙ってろ。どっか行けよ】
おれはおばさんの目をのぞき込んで命じた。くすんだ緑色の目は、左の瞳が胞珠《ほうじゅ》だ。おばさんは抵抗の術もなく、口をつぐんで後ずさる。
頭痛がこめかみを突き抜けた。額の胞珠が痛みの発生源で、割れそうなくらいガンガンする。反射的に顔をしかめた。おれは帽子のつばを深く下ろした。
ちょっとチカラを使うだけで凄まじく消耗するのは、ろくに眠れないせいだ。
姉貴が血まみれになって死んでからずっと、この疲労感や頭痛や吐き気やめまいにやられている。
うとうとするたび、姉貴の死に顔が脳裏に浮かんでくる。
おれと同じ朱《あか》みの強い色の両眼は見開かれて、どこでもない場所を映していた。抱きしめた体は、あんなに柔らかかったのに、どんどん硬くなっていった。
勝手に脳内リフレインするのは、死んだ場面ばっかりだ。
姉貴の笑顔は、一生懸命に努力してようやく思い出せる。「あんたの隣ならヒールも遠慮なく履けるわ」って、いつの間にか身長が百八十センチ超えてたおれを見上げて、笑ってて。襟ぐりから胸の谷間が見えてて。
ずっと、おれの隣、座ってるはずだったのにな。今、何でおれひとりだけここにいるんだろうね。
愛する人を守るために男は戦うとか、そんなの、ただのおとぎ話だ。
おれは、狭苦しい通路のゴミを蹴飛ばしながら歩いた。飛行機からブリッジへ。
空気の匂いが変わる。空調が効いているはずなのに、生臭い湿気がまとわりついてくる。日本だな、と感じた。フランスの空港はいがらっぽく乾燥して、うっすらと硝煙の匂いがしていた。
いい加減な態度の入国審査があって、預け荷物が流れてくるクレーンを素通りして、紙一枚を書けば誰でもパスする税関を抜ける。
空港のゲート、どこもほんとにいい加減だった。帽子を取れとも言われなかった。パスポートの写真もろくに見られてない。
あのさ、おれの顔、すげー目立つんだよ? 額にデッカい真っ赤な胞珠があるから。
いや、見て見ぬふりかな。ことなかれ主義ってやつ。デカい胞珠なんてトラブルの元凶にしかならないんだし、さっさと空港から離れろって思われてんじゃない?
到着ゲートを通過する。
そして、おれは立ち止まった。
「待っていたよ、理仁《りひと》」
傍から見てりゃ一発で、それがどんな場面なのか推測できただろう。
仕立てのいいスーツを身に付けた五十歳くらいのイケメン紳士が、目尻に上品そうな笑いじわを刻んで、気さくな様子で軽く手を挙げる。
対する相手は、帽子を目深にかぶった未成年。肩幅広めで背が高いところとか、目尻が垂れて唇が厚めなイケてる顔とか、明らかにイケメン紳士と似てるわけ。
裕福な父親が、遠くフランスの地に留学してた息子を迎えに来たシーンだ。感動の再会。世界じゅうどこに行ったって治安が悪いこのご時世、お互い五体満足で「おかえり、ただいま」ができたなんて、素晴らしく幸運な出来事で。
神さまに感謝?
するもんかよ。
おれは薄笑いをこしらえて、親父と向かい合った。
「連絡した覚え、ないんだけど?」
「無事に帰ってきてくれて安心したよ。車に乗りなさい。ひとまず家に帰ろう」
「帰んないよ。てか、あんたの家はおれんちじゃないから」
「理仁」
「とりあえず気が向いたときに学校には顔出すからさ~、積もる話があるってんなら、そんときでよくない? あんたも平日は学校にいるでしょ、理事長先生」
イケメン紳士の名前は、長江孝興《ながえ・たかおき》。多様なコースを持つ割にリーズナブルな学費で有名なマンモス私立校、襄陽学園を経営している。裏でもたぶん何かやってる。胡散くさいこと、いろいろ。
その息子であるおれ、長江理仁は、親父にとって便利な道具だった。だから逃げた。一年前、姉貴と一緒に、国外に。
なのにどうして帰ってきちゃったんだろうなって、親父の顔を見た瞬間、おれは後悔した。直感に従って行動しただけだったんだけど、今回のこれはやっぱ失敗だったんじゃないか。
親父は欧米人よろしく肩をすくめた。ひらひらと雄弁なジェスチャーをする右手の親指には、下品なマニキュアで塗りたくったようなショッキングピンクの胞珠がある。
「仕方ないな。必ず学校に来るんだぞ」
「わかってるって。じゃあね~」
言い捨てて、おれは駅のほうへ向かう。
あー、具合悪い。頭痛がひどい。歩くたびにズキズキ響く。しかも、空っぽの胃袋が七時間の時差に反発して、吐き気がする。
どうして帰ってきちゃったんだろうな。繰り返す疑問。答えはわかってる。
胞珠が示した道だから。
逃れられないルートの上にいるんだって、何となく感じる。終わりの瞬間までを数えるカウントダウンが聞こえることがある。おれの人生の終わりだか、この世界の終わりだか、わかんないけど。
カウントダウンの存在、気のせいなんかじゃねーんだ。チカラの副産物かな、おれ、勘が鋭すぎるとこがあって。
姉貴のカウントダウンも聞こえてた。だから、銃声が聞こえたときにはもう「あー、やっぱりね」って感じだった。
わかってたんだよな。なのにさ、死なせた。未然に防ぐ方法、なかったのかな。
あの一件での衝撃はもう一つあった。おれが第一発見者じゃなかったってこと。
血まみれの姉貴の死体は、男に抱きかかえられていた。男っつっても、おれと同じくらいの年頃で、おれと同じように帽子を深くかぶってて、おれと同じで猛烈なチカラを体の内側に押し込めていた。
あいつもおれと同じだ、と直感した。額にデカい胞珠を持ってる。その厄介な体質の代償として、異能も持ってる。
男の顔は見えなかった。言葉も交わさなかった。男は姉貴の死体を投げ出すようにして、あっという間に逃げていった。
でも、次に会ったら、おれにはすぐわかる。異様にしなやかで素早い身のこなしも、細い体から放たれるチカラの色や圧も、おれは全部覚えてる。
近いうちにまた会えるって、確信がある。
そんときにはさ、どうしたらいいかな?
「ねえ、姉貴を殺したの、あいつ?」
おれは唇の内側でつぶやいた。
もしも姉貴が「うん」と答えるなら、さて、おれはあいつにどんなお返しをしてやろう?
答える声は、もちろん、ない。まぶたの裏側に思い描く姉貴は、目を見開いたまま、ずっと死んでいる。
襄陽学園の「塔」から見晴らす眼下には、いびつな街並みが広がっている。
昔は複雑な道筋が迷路みたいで、それがまたおもしろくて風情があるってんで、全国的にも有名だったらしい。キレイな港町だったんだって。清潔で、公園も街路樹もあって、川の水も澄んでいて。
今では、道路にせり出して建つ自己主張の激しいビルもあり、吹っ飛んで崩れたビルの跡地が平らに均されて道路に変わっちゃったところもあり。緑はないし、隣町との間を流れる川はほとんどドブだ。
スズメバチの巣にそっくりな、俗に言う「ダンジョン」が、そこかしこにある。折れたビルが茶色く膨れ上がっている。瓦礫の山を呑み込んだダンジョンが道路をふさいでいる。
「きったねー町」
おれは吐き捨てた。
あっちこっちにボコボコ発生したダンジョンを見ればわかるとおり、治安もどんどん悪くなってるそうだ。何せダンジョンってやつは、何人もいっぺんに死なないと形作られることのないモノだから。
こうして眺めてる間にも、薄汚れた背の低いビルからポンッと煙の塊が噴き出して、人らしきものが落ちていく。車の流れが緩慢にルートを変更する。厄介事のあったエリアに小さな空白ができて、それだけ。騒ぎすら起こらない。
今の中高生は、終末世代と呼ばれる。おれたちが生まれたころから急速に世界が壊れ始めて、人口が激減してるんだとか。そんな世界で育つおれたちは、大人から見て、とんでもなく壊れてるんだとか。
知ったことかよ。
今、おれの目に映る世界が壊れているのかどうか、これじゃない世界を知らないおれには、判断がつかない。
いや、まだ壊れてやしねーだろ、ってのがおれの正直なところ。壊れるとか死ぬとか滅びるとかってのはもっと絶望的なモノだと思うから。
世界はまだ、こうして広がってるじゃねーか。町が町の形をしてて、車が走ってて、終末世代だって学校に通ってて、社会的な影響力さえあればキレイな建物の中で過ごすことができて。十分だろう。
ビルの高さがそのオーナーの社会的なランクをそのまま表している。
ここ、襄陽学園の塔にはどういう実質的な機能があるんだか、おれは知らない。でもまあ、社会的に「襄陽学園はランクが高いんです」って示すには十分だ。
似たような塔は隣町にもある。KHAN《カァン》って企業の本社ビル。
KHANは医療機器メーカーだ。胞珠が本来持つ「生体エネルギーの増幅」という効果を活用したデバイスで、バカ当たりした。新手の電動義肢とか、異色の人工臓器とか、そんな感じの商品ラインナップだ。
社会貢献の一方で、KHANには黒い噂が絶えない。その技術を使って、違う用途のデバイスも作っているらしい。ドーピング検査に引っ掛からない筋肉増強システム、とか。法律的には武器に分類されない武器、とか。
くすんだ四月の日差しを受けて建つ、黒鉄の釘みたいなKHANビルを見る。
「ラスボスの風格だ。胞珠を商品にしてんでしょ? おれとおたくさんと、縁がないわけないよね~」
埃に汚れたガラスに目を凝らせば、おれの顔がうっすらと映っている。
生まれつき朱みがかった髪と、額のほとんどを占める朱い胞珠。
こんだけデカい胞珠はめったにない。少なくとも、おれは今までの人生で一度しか、おれと同レベルの胞珠の持ち主に出会ったことがない。姉貴の死体のそばにいた、あいつだ。
胞珠は、左右どっちかの目の中にあるか、手の指の爪のどれか一枚の代わりか、ってパターンが多い。姉貴は、淡いピンク色の直径二センチくらいの胞珠が左胸にあったから、ちょっと珍しい部類だった。
エレベータが動く音がする。塔のエレベータを使えるのは限られた人間だけだ。
親父だろうな、と思った。おれのこういう勘は、恐ろしくよく当たる。
エレベータのドアが開いた。ほらね。親父が大げさな様子で両腕を開いて、百点満点の笑顔を作っている。
「ここにいたんだな、理仁《りひと》。授業中に抜け出すとは、感心しないぞ。でも、理仁が約束どおり学校に出てきてくれて、ホッとしたよ」
右手の親指のショッキングピンク。親父は、あの胞珠のある手でいつだって大げさにジェスチャーしながらしゃべるけど、おれは、あの手が高くひるがえるたびに背筋や胃の底に冷たい震えが走る。叩かれた記憶と撫でられた記憶。うずくまって吐きたくなる。
「何か用?」
「今夜は家に帰ってくるだろう? 久しぶりに一緒に食事をしよう。いいレストランがあるんだ。おまえの好物を作らせよう。できれば、姉弟ふたりとも無事に帰ってきてほしかったがね。覆水盆に返らずだ。あの子のことは仕方がないとして、今後について考えよう」
うざい、と思った。
【失せろよ。姉貴のこと、二度と口にすんな】
額の胞珠が、カッと発熱する。
音を伴わない声を、まっすぐ親父へと飛ばした。思念を太い槍に変えて、その槍で腹の真ん中をぶち抜いてやるくらいのつもりで、おれは言葉を投げ付けた。
普通なら。相手が親父でないのなら。
おれが命じた言葉は、対象者の行動を縛る。何でもさせることができる。対象者の抵抗の意思が強いときには、くたびれるほど集中してチカラを使わなきゃいけないけど。
号令《コマンド》、と名付けた能力だ。
世界には、まれにおれみたいな異能者がいるらしい。そいつらは軒並み全員、巨大な胞珠を持っている。昔からそういうものなんだそうだ。古文書が残ってた。
でも、おれのチカラはちょっとした欠陥品だ。
「その声のチカラを、また貸してくれないか? 理仁、父を助けると思って、協力してほしい」
親父は笑顔を崩さない。太い槍でぶち抜かれたダメージは一切ない様子で。
おれは舌打ちする。やっぱり、古文書にも載ってたとおりだ。チカラは血で使うものだ、と。チカラある血を色濃く引く者にマインドコントロールは効かない、と。
親父におれの号令《コマンド》は届かない。姉貴にも効かなかった。
どんな金持ちの資本家でも、おれが一言命じるだけで札束でもクレカでも出してくれるってのに、おれは親父を屈服させることができない。むしろ、おれのほうが親父の言いなりだった。ガキのころはそんなんだった。
自由をくれたのは、姉貴。
一緒に行こうって、遠くへ連れていってくれて、おれと姉貴と二人だけで生きた。アパルトマンの薄暗い部屋に閉じこもって、息のできない場所に溺れていくような、盲目的な幸せだった。それでいいと思った。
なのに、たった一年だ。自由で孤独な逃亡生活は、いきなり終わりを告げた。硬い地面の上に、おれだけ引き上げられてしまった。
何でおれはここにいるんだ。
どうせくだらない人生しかこの先に残ってないんなら、感情なんか捨て去って、親父の道具に成り下がるほうが気楽なのかな。
親父がおれの名前を呼ぶ。
「なあ、理仁」
おれは応えず、エレベータに向かう。エレベータの扉は鏡みたいにツヤツヤに磨かれていて、親父の顔が見えた。視線が合った。
「理仁、気を付けるんだぞ。胞珠を集める闇業者の動きが活発化している。おまえは守られなければならない」
ご忠告、どうも。
どこ行ったって聞かされるよ。闇業者だの人さらいだの、呼び方はいろいろだけど。人の臓器の中でも、胞珠って、いちばん高く売れるらしいね。
それでさ、胞珠の買い取りをやってる金持ちが誰なのか、って話。世間がどんな噂を流してるか、親父も知ってる?
知ってるよね、そりゃ。エゴサーチとか、するでしょ? 親父さ~、真っ黒な噂だらけだよね。隣町のKHANといい勝負。
だって、この学校の生徒、よく変なことになってるらしいね。特に、おれがいなくなってから。ちっこい胞珠でも、集めて効率よくエネルギーを加えてやれば、おれの胞珠の代用品になるかもしれないし?
エレベータのドアが開く。おれは箱に乗り込む。ドアが閉まる。箱が静かに降下する。
「おれの中にも、あいつ由来の腐った血が流れてる」
その血を流し切ってやろうと、ナイフで自分の腕を刺してみたことくらい、笑えてくるほど何度もある。結論としてはね、自分で自分を刺して死ねるほど、おれは度胸がよくないってこと。
塔を出て、ひとけのない廊下の角を一つ曲がると、途端にそこは学校になった。
ブレザーの制服。案外楽しそうな同世代の人たち。ちょうど休み時間で、男子も女子もそれぞれにしゃべったり笑ったりしている。
何となく、気まぐれなことを思い付いた。教室、行ってみよっかな。友達って呼べるやつくらい、いるし。
歩き出して、すぐのことだ。
女の子がおれにぶつかった。それがけっこうな勢いだったから、女の子はふらついた挙句に転んだ。
「きゃんっ! ご、ごめんなさい!」
黒髪ショートボブの、色白な子だ。華奢な体つきで、めくれたスカートから、ほっそりした太ももがのぞいている。
目を惹かれた。
かなりの美少女。しかも、おれを見上げる両眼が不思議な色をしている。金とも銀ともつかない色合いで、光を反射する。両眼とも胞珠だ。まるで、見事なカットがほどこされた大粒のダイヤモンド。
「だいじょぶ? どっかケガしてない?」
おれは女の子の前に膝を突いて、ニッコリしてみせた。
神秘的な色の目に反して、女の子の表情がクルッと変わる様子は、ごくありふれていた。
「すみません、わたし全然大丈夫ですけど、むしろケガなかったですかっ? というか、ケガなくても痛くなかったですか、すみません!」
「おれも全然大丈夫。急いでた? 前見てなきゃ危ないよ~」
女の子の頬が真っ赤に染まっている。キレイな形のピンク色の唇に、繊細そうに長いまつげ。校章の色を見るに、一年生だ。入学したてで、まだ化粧すらしてない。
姉貴とは違うタイプだけど、この学校で出会った中では最高の上玉だ。本能的に、さわりたい、と思った。
【ねえ、きみさ、おれとデートしない?】
しようよ、デート。
学校なんか抜け出してさ、どっか行こう。いや、校内でもいいよ。誰も近寄らせないように号令《コマンド》かけるから、二人っきりで遊ぼう。怖くないよ?
女の子が、ひゃっ、と喉の奥で小さな声を出した。
「や、えっとその、デ、デートって、そんなっ! わたしではセンパイに釣り合わないですし、まだ授業ありますし、放課後ちょっと行く場所ありまして、すみませんっ!」
「え……」
「おおおお誘いいただくのはすごくとっても光栄なんですけれどもっ、わたし、すっ、好きな人がほかにいまして、その人のことしか今は考えられなくて! 生意気を言ってごめんなさいですけど、そういうわけなのでごめんなさいっ!」
折れちゃいそうに細い、かわいらしい声が、おれに驚愕を与える。
ふられたから、っていうんじゃなくて。
何でおれの号令《コマンド》が効かないんだ、って。
慌てふためいた様子で自分の顔や髪をさわる女の子の手に、流行りのブレスレットがはめられている。天体モチーフのお守りとかいうやつ。持ち主の胞珠と同じ色の石を埋め込んで、持ち主の生年月日から割り出した守護天体の形を模してあるんだ。
それ、自分のやつ持ち続けてるってことは、彼氏はいないって意味だよね。いや、いても別にかまわないんだけどさ。まあ、気になるじゃん、一応。
「あ、行っちゃうんだ? そんな怖がんないでよ」
「いえあの怖がってるとかじゃないので、ほんとに! でもえっと、約束あるので、すみませんっ」
女の子はペコリと頭を下げてから立ち上がって、もう一回ペコリと頭を下げた。元気よくひるがえったサラサラの黒髪から、ふわりと甘い匂いがした。彼女は真っ赤な顔を上げもせずに、走っていってしまった。
「チカラある血を引く者、か?」
あの子自身からは何も感じなかったけど。
調べてみよう。あの子の素性。おもしれーじゃん。号令《コマンド》で言いなりにすることができない女って、姉貴しかいなかったのにさ。
チカラが効かない上に、ほかに好きな人がいる。あんな子を落とせたら、おれって本物じゃん?
おれは、そっと笑った。
たまたま、おれと同じ三年の女子と目が合った。左目に、黄色っぽい半月型の胞珠。確か、けっこうよかったよね、この子。尽くすのが大好きでさ。
宙ぶらりんになった欲求を思い出して、おれは笑顔を作り直した。甘くとろけるナンパ師の笑顔だ。
【ねえ、おいでよ。楽しいコトしよう?】
ぼうっと、彼女の表情がにじむ。おれが言葉に込めた思念のままに、みだらな笑みが口元に浮かぶ。真っ赤に塗られた唇から、ぬらりと濡れて男を誘う舌がのぞいた。
ああ、くだらねー。
簡単すぎるゲームはつまらない。
遊びでも狩りでもないこれは、ただの時間つぶしだ。
夕暮れの駅前の雑踏の中で音楽が始まった。真っ当なロックンロールだ。質のいい、ストレートな響きの、音楽らしい音楽。
「腕、上げたじゃん。もともと文徳《ふみのり》のギター、すげーうまかったけどさ~」
バンドマスターはおれの友達。伊呂波《いろは》文徳。生まれて初めて、友達って呼んでやっていいなって思えた相手だ。
何をするときよりも楽しそうな顔で、文徳はギターを弾いてる。心地よいエイトビート。吹っ切れたような疾走感。ときどきギュンッと激しくひずませるのがアクセントになって、オーディエンスを油断させない。
文徳は、両手の人差し指の爪がペールブルーの胞珠だ。外灯の下でギターを弾いてると、爪に光がキラキラ反射して、何か妙にアーティスティックでカッコいい。
いや、まあ、爪の胞珠みたいにピンポイントなキラキラがなくったって、文徳は際立ってんだけどね。おれから見ても、やっぱカッコいいもん。特に、演奏してるときは。
長身でイケメンの文徳は、リーダーシップが全身からにじみ出るタイプで、だから人目を惹く。最前列に座り込んだ常連のファンだけじゃなく、たまたま居合わせるだけの通行人まで集まってくる。
文徳がしきりにアイコンタクトを取る相手がまた、とんでもなく人目を惹く。いや、目だけじゃねーな。耳もだ。
ヴォーカリストは文徳の弟で、煥《あきら》っていう。銀色の髪、金色の目。そして、額にデカデカときらめいてるのは、真っ白な胞珠。
文徳から話だけは聞いてた。自分の弟もデカい胞珠と異能を持ってるんだ、って。
だから、そんな血筋の文徳にはおれの号令《コマンド》が効かない。うぜえ、って最初は思ったけど、そのうち気が変わった。支配関係に持ち込めない相手ってのは案外、気楽だ。
一曲終わって、拍手が起こって、文徳がコーラスマイクでMCを入れる。
煥は声がいいくせに、しゃべらないらしい。水を飲みながら、警戒の目でおれを見ている。胞珠の気配が気になるんだろう。
「銀髪の悪魔、って呼ばれてんでしょ? なるほどね~。その強烈な目つきは、確かに怖いゎ」
文徳のMCにいちいち反応してバカ笑いする連中は、総じてガラが悪い格好をしている。いわゆる不良ってやつ。
未成年のくせにライヴハウスで演奏したり、普段は不良のたまり場になる駅前でストリートライヴしたりと、文徳たちのバンドはそんなふうだ。「あいつら、イケてんじゃん」って寄ってくる連中は、不良だのヤンキーだのばっかりだった。
文徳が単なるひ弱な音楽少年だったら、不良どもは食い付かなかったんだろうけど。幸か不幸か、文徳はケンカが強いし頭は回るしバイクも乗れるし。その弟の煥に至っては、ガチのヤクザさえ撃退するほど、腕っぷしが強いらしいし。
そこまで強いようには見えないんだけどね、煥って。
身長は百七十センチそこそこで、細い。全体として色素が薄い感じの容姿は、一言でいえば、美少年だ。歌ってるときは、その世界に入っちゃうんだろう、切なそうで一生懸命で表情豊かで、悪魔なんて肩書はまったく似合わない。
惜しいよな、と思う。文徳たちのバンドは見てくれもいいし、音楽としての完成度だって、昔の音源と比べても遜色ない。まともなご時世なら、メジャーデビューして売れっ子になってたんじゃねーの?
まあ、もしもの話なんかしてもしょうがないけどね。おれらが生きてるのは、ディストピア一歩手前みたいな、ほどよくとっ散らかった殺伐たる犯罪社会だ
バンドメンバー、一年前までは五人っつってたよな。ベーシストが紅一点だったはずなの。
でも今、ステージに向かって左側には不自然な空白があって、そこに花束が一つ置いてある。よく見る風景だ。
胞珠の売買がビジネスになるって風潮が、凄まじい勢いで日本にも広がってる。たぶんだけど、おれらの世代、じいさんばあさんにはなれない。まさに終末世代。寝て起きたら死後の世界なんじゃないかって、いつも感じる。
おれがこの町から離れてたのは、たった一年だ。たいした時間が流れたとは思わない。気付いたら過ぎ去ってた。変だよなー。中学くらいまでは、一年一年、もっと長かったのに。
この一年で駅前の風景は変わった。レトロなヨーロッパ風で有名だった駅舎は、半分以上がぶっ壊れてる。進入禁止のバリケードが巡らされた向こう側は、ぼこりと膨れ上がった暗色の巨大な塊。ダンジョン、って呼ばれるモノ。
ダンジョンの正式名称って、何だったっけな。やたら長ったらしくて、常用外漢字だらけのやつ。覚える気もしねーから、もうダンジョンでいいや。
スズメバチの巣と、ダンジョンの見た目は本当によく似てる。スズメバチは、噛み砕いた木と唾液を材料にして、混ぜて固めて壁にして、巣を作るらしい。
ダンジョンの材料は、そのへんにある土だのコンクリートだのアスファルトだの大気中のなんちゃらだのと、唾液の代わりの人間の肉体。そういうのが砕けてつぶれて揉みくちゃになって固まって、はい完成。ダンジョンに近付くと、腐臭に似た独特の匂いがする。
墓ん中は空っぽってケース、最近では死者の半数を超えてるらしい。行方不明者は、たいていダンジョンの材料になってる。
胞珠が壊れることを「破砕《はさい》」と呼ぶ。ごく一般的な、直径五ミリくらいの胞珠が破砕する程度では、たいした衝撃波も起こらないんだけど。ポン、って。メガネが飛ぶとか、そんなもん。
ただし、破砕が連鎖すると、指数関数的に衝撃波が大きくなる。あるいは、ちょっとでもデカい胞珠が破砕すると、爆弾でも食らったかのようなえげつない死体が出来上がる。
そして、一定以上にデカい破砕が起こると、まわりにあるモノ全部を呑み込んで、ダンジョンが造られる。
何でそうなるんだか、二十一世紀になっても未解明。胞珠なんてモノを持つ生物は人間だけだから、霊長類や類人猿ってくくりは疑問符がつけられている。世間一般ではオカルトのほうが根強いかもしれない。人類こそ異星人である、って説。
胞珠を持たない人類が平和に暮らしてる、なんていう世界線のストーリーがひと昔前に流行った。今でも、掃いて捨てるほどある。おれもそういう夢、見たりするけどね。
くだらねーよ。おれの額には朱くてデカい胞珠があって、街並みを見晴らせばダンジョンがゴロゴロしてて、それが現実なんだってば。
ダンジョンの中の構造は、蜂の巣っぽいとも蟻の巣っぽいとも聞く。度胸試し的にダンジョンに乗り込んでいったきり帰ってこないやつが、長期休みのたびに出る。
今のこの駅前広場みたいに人が集まってる場所にいると、想像しちゃうんだよね。
文徳たちの音楽に同調した連中。シンクロしたエネルギーを胞珠で増幅して、この空間全体で一つの大きな生き物になってるようなコンディション。
「ここに爆弾が一個、投げ込まれたら、どうなるでしょー?」
未曾有の大破砕、だよね。おれと煥っていう、化け物級の胞珠の持ち主までいるんだからさ。町ごと吹っ飛んで、めちゃくちゃ巨大なダンジョンに生まれ変わるんじゃない?
死体が残らない死に方って悪くないように思うんだけど、どうだろ?
だってさ、おれはさ、姉貴の死体、どうしようもなかったからさ。
ストリートライヴの時間は心地よく流れていく。音楽がほどよく頭ん中を掻き混ぜて、難しくない程度に考え事をさせてくれる。つらつらと、思い出したり思い付いたり、唐突に寂しくなったりむなしくなったり。
気付いたら、終わりの時間が訪れていた。
文徳が終演の挨拶をして、あっさりと楽器を片付け始めた。解散して立ち去るオーディエンスと、文徳たちに声をかけるオーディエンスと、人の流れができる。
帰ろっかなって思ったら、文徳が人の頭越しにおれに手を挙げて、「こっち来いよ」とジェスチャーした。人差し指の爪がキラキラする。
おれは肩をすくめて、人垣のほうへ歩き出した。
【は~い、ちょっとそこどいて~】
人垣が割れる。おれから文徳のところまで、まっすぐ。
「よぉ、文徳。久々に聴けてよかったよ。いい気分転換になった」
「そう言ってもらえると嬉しい。でも理仁、げっそりしてるぞ。時差ボケか?」
「寝てないし食ってないし、こんなんで絶好調だったら、むしろおかしいってね。姉貴が死んでからこっち、ボロボロだゎ。文徳も、人のこと言える顔じゃねーぞ?」
「まあ、似たようなもんだな」
「ベーシストちゃんがいなくなったんだっけ?」
「ああ。たぶん死んだ」
鏡を見てるような気分になった。不健康な色の外灯の下で、力なく笑った文徳は、目の下も頬も肉が落ち切っている。
文徳の隣で、煥が金色の目をきらめかせておれをにらんでいた。額の胞珠が淡く発光しているように見える。おれの胞珠も、他人から見りゃ、あんな感じなんだろうか。
号令《コマンド》のチカラで【どいて】っつったけど、当然ながら煥はそこに仁王立ちしたまま動かなかった。
そして、動かなかったのは煥だけじゃなかった。煥のいちばん近くまで寄っていってた女の子が二人。
小柄なほうは、おれと同じように帽子を深くかぶっている。背丈の割に胸の発育がいい。長い黒髪、色白、青い目、驚いた表情、帽子のつばの下にチラつく青い胞珠。
【もしかして、お仲間?】
音を伴わない声に指向性を持たせて、帽子の女の子だけにぶつける。おれの唇は動いてないけど、それが確かにおれの声だってことは、彼女にもわかったらしい。
青い目に浮かぶ警戒の色。もしくは、敵対の色。でも、そんな色を満面に出して不用意なことを言うほど、彼女は無防備でも愚かでもなかった。
ニッコリと、彼女は微笑んだ。
「不思議ですね。チカラある血を持つ者同士が引き合うなんてこと、百年に一度あるかないかって聞いてたんですけど」
【集まっちゃってるよね~、不思議なことに。妙なことが起こんなきゃいいけど?】
彼女は肉声、おれはテレパシー。アンバランスな会話を、おれはここで止めた。
もう一人の女の子がおれを見つめていた。長いまつげの下の巨大なダイヤモンドみたいな両眼で、じっと。
おれは笑ってみせた。
「また会ったね~」
「あっ、ど、どうもこんにちは! じゃなくて、こんばんは! ライヴ聴きに来られてたんですかっ?」
「そーいうこと。おれ、文徳と友達でさ。きみは? ヴォーカリストの銀髪くん狙い?」
「ねねね狙うだなんてそんな滅相もないっていうか恐れ多いっていうか! わたしはただのファンですから!」
ギャップあるなー、この子。ほっそりした黒髪美少女で、珍しい目の色してて、じっとしてりゃ神秘的な雰囲気なのに、しゃべったら案外にぎやかで、きゃーきゃーしてる。流行りもののブレスレットなんか付けてさ。
何か笑っちゃうよな。ふっ、と噴き出したら、両眼胞珠の女の子はパチパチとまばたきをした。
「おれさ、嫌いじゃないよ~、きみみたいな子。おもしれーもん。マジで一回、デートしない? 名前、何ていうの?」
「えっ、あ、えっと、平井さよ子っていいますけど、あのっ、デートっていきなりそーいうのは……」
「さよ子ちゃんね。で、もう一人の彼女は?」
おれは帽子の女の子に視線を向けた。彼女はひかえめなえくぼを作った。
「安豊寺鈴蘭《あんぽうじ・すずらん》といいます。さよ子と同じで、襄陽学園高校の一年生。あなたは、先輩、ですよね?」
「あー、自己紹介が遅れたね。ごめんごめん。おれは三年の長江理仁。去年は一年間、外国にバックレてたから、今の二年はおれのこと知らないと思うよ~。ね、そうでしょ、文徳の弟くん? きみ、名前は、あっきーだっけ?」
水を向けると、煥は眉を逆立てた。
「ふざけた呼び方するんじゃねえ。あんたのことは兄貴から聞いてる。会ったのは初めてだけどな」
「フツーにしゃべってても、声、すっげーキレイなんだね~。顔もかなりキレイだけどさ。モテるっしょ?」
「知らねぇよ」
「おっ、否定しないわけだ。モテモテなのをいいことに遊ぶタイプじゃないにせよ、美少女に囲まれるのは悪い気分じゃないよね?」
煥は眉間にしわを寄せて舌打ちした。サラサラの銀髪。バカデカい真珠みたいな、額の胞珠。
おれは、煥にだけ聞かせるテレパシーでささやいた。
【額の胞珠、隠しもせずにさ、身の危険を感じたりしねーの? 体積だけで言って、一般人の胞珠の数十倍。でも、エネルギー増幅器としての機能は、体積に比例すんじゃなくて、もっと凄まじい増加率っていうじゃん? あんまり無防備だと、狩られるよ】
煥が表情を変えた。薄い唇が弧を描いて、見下すような微笑。
「オレを狩ろうなんて身の程知らず、一瞬で返り討ちにしてやるよ」
男のおれでさえゾッとするほど、煥の危険な笑みは色気があった。血に飢えているみたいだ。銀髪の悪魔という二つ名が、すとんと理解できた。
ふと。
ひどく騒々しいエンジン音が鼓膜に引っ掛かった。こっちに向かってくる、排気量の大きな車の音。指向性があるように感じる。こういうときのおれの勘は、だいたい当たる。
「何か来るよ」
おれがつぶやくのと、煥が首を巡らせるのと、ほぼ同時。
ひと呼吸ぶんの間が空いて、そして、駅前広場にヘッドライトが躍り込んでくる。黒い車だ。特殊なガラスで、車内が見えない。ナンバープレートはなかった。鼻の長いフォルムから推測するに、スピード自慢の高級外車だ。
さよ子が体をこわばらせた。
人影が三つ、車から降りる。そのうちの一つに、おれの視線は吸い寄せられた。
細身の長身。異様にしなやかで素早い身のこなし。フードをかぶっていても駄々洩れの、圧倒的なチカラの気配。
【久しぶりじゃん? あんた、おれの姉貴のこと知ってるよね?】
肉声よりもずっと簡単に、おれの思念の声は相手に突き刺さる。
そいつがまっすぐにおれを見た。やれやれ、イケメンに縁のある日だ。トルコ系の血が入ってるって言われても納得できちゃうような、鼻筋の通った美形。
この顔がどんな表情を浮かべて姉貴の死体を見下ろしたんだろう?
おれの額の胞珠が熱を持つ。
【何しに来たの? ちょーっと話を聞きたいんだけど、どう? 話す気、ある? てか、話せよ。あんたがおれの姉貴を殺したんじゃねぇの?】
そいつの答えは、無言の突進だった。
まっすぐこっちに攻撃を仕掛けてきやがったんだ。
そいつはあまりにも速かった。あっ、と思った次の瞬間にはもう目の前にいた。
殺られる。
躊躇《ちゅうちょ》のない腕がおれの喉を狙っている。素手でも人間ひとり殺すくらい簡単なんだって、確信的な殺意が無言のうちにそう言っている。
ガクンと、おれはのけぞった。引っ張られたせいだ。
風圧が頬を叩いた。空振りした腕が、ビュッと音を立てた。
「弱いんなら下がってろ!」
おれの腕を引っ張った煥《あきら》が怒鳴った。かばったついでに振り回すようにして、おれを襲撃者から遠ざける。おれは踏ん張りが利かなくて、吹っ飛ばされて尻もちをついた。
襲撃者が飛びすさる。人間離れした身軽さだ。チラリと視線を動かして、一つの名前を呼ぶ。
「さよ子さん」
見た目どおりの細い声だ。男の声じゃあるけど、圧を感じさせない性質。
でも、呼ばれたさよ子はビクッと震えた。そりゃそっか。ひどく機械的っていうか、人間味に乏しい声音だ。不気味だった。
煥が半歩、前に出る。いつでも飛び出せるように身構えている。
襲撃者の視線が煥をまっすぐとらえる。機械的な口調がまた、言う。
「邪魔ですよ。あなたには用がない。どいてください」
「じゃあ、誰に用がある?」
「さよ子さんと、長江理仁《ながえ・りひと》」
背筋がゾワッとした。やっぱりこいつ、おれのこと知ってやがる。
おれは立ち上がって埃を払った。口を開くより先に、顔がニヤリと仮面みたいに笑う。癖になった笑顔が、こんなときでも剥がれない。
「話があるって言う割に、いきなり殴り掛かってくるのはおかしいんじゃないの?」
答えが返ってきた。
「防衛手段としての攻撃です。先にちょっかいを出してきたのはそっちでしょう」
「はい? 何のこと? 誤解してない?」
「とぼけているのか本当に知らないのか、判断する材料に欠けますが、ぼくにとってはどちらでもいい。命じられたことを遂行するだけですから。さよ子さん、こちらへ」
最後の一言はもちろん、さよ子に向けて放たれた。
さよ子はかぶりを振った。鈴蘭がさよ子の前に進み出て、通せんぼするように両腕を広げた。
「嫌がってる女の子を連れ去ろうなんて、顔見知りだとしても失礼すぎるでしょ、あなた! さよ子に何の用なんですか!」
「命じられたんですよ。日が暮れた後、こんな場所にいては危険ですから」
ピリピリと空気が帯電するように、敵意が、戦意が、殺意が、あたり一帯に放射される。ひんやりした春の夜気が瞬時にカッと燃え立った。そう感じた。
襲撃者とその連れの二人、おびえるようでいて怒りのほうが強いさよ子と鈴蘭、牙を剥くようにニヤリとした煥と文徳《ふみのり》。チカラある血の持ち主がこんだけ集まって、にらみ合いの興奮を胞珠で増幅させてんだ。まわりはみんな、あっさり呑まれちまう。
熱狂が始まる。ケンカだ。
襲撃者の連れの一人が、襲撃者の細い肩に手を置いて何かを告げる。撤退、とでも言ったんだろう。襲撃者は仲間の手を払って、先に行けとジェスチャーで示す。
煥が一歩、踏み込んだ。
「よそ見してんじゃねぇよ」
悪魔の顔で笑っている。
バンドの取り巻きの不良どもが一足先に暴れ出している。特に親しい仲間でない相手は、全部が敵。恨みや害のない相手だろうが、おかまいなし。野蛮な声を上げながら、乱闘が始まる。
バカバカしいけど、これがこの世界の日常だ。戦闘的な熱狂ほど簡単に増幅されて伝播する感情は、ほかにない。人が集まって興奮の度がちょっと過ぎるだけで、止めようもない暴動に発展する。
自分の身を守れるのは、自分だけ。
【こっち来んなよ。おれには手ぇ出すな】
おれは号令《コマンド》を発動して、乱闘を遠ざける。
鈴蘭がさよ子の手を引いて、おれのそばに寄った。ここにいれば安全だと直感的に理解したんだろう。
おれは女の子ふたりに笑ってみせる。
「今の号令《コマンド》、雑魚にしか効かないよ?」
鈴蘭がちゃっかりと微笑む。
「厄介な人たちからは、煥先輩が守ってくれますから」
ほら、と鈴蘭が指差す先で異次元の戦闘が始まっている。
戦闘服を着込んだ敵の一人が、光の壁に突っ込んで弾き飛ばされた。煥が突き出した手のひらの正面に、六角形の真っ白な光の壁が生じている。
ほくそ笑む煥が額の胞珠をきらめかせて、引っ繰り返った敵との距離を詰める。敵は、逃れようとして転がる。その動きも、煥は先読みしている。
軽い跳躍。容赦なく踏み付けながら着地。何かが折れて砕ける音。くぐもった悲鳴。
煥は手のひらの先に光の板を創り出して、敵の体に押し当てた。たちまち、焼け焦げる音と匂い。煥の白い光はずいぶんな高温らしい。
敵の絶叫。それを断ち切ったのは、あの素早すぎる襲撃者だ。
猛烈な速攻を、煥は難なく防ぐ。
「邪魔すんなよ」
「するに決まってるでしょう」
妙に静かに会話して、二人とも、ニタリと笑った。
戦闘狂だ。こいつらにとってケンカってものは、手段じゃなくて享楽なんだ。
接近戦。繰り出される技を目で追い切れない。相手の意図は何となく読める。煥に光の壁を出す隙を与えないこと。単純な格闘なら互角にやれるから。
あっちでもこっちでも殴ったり蹴ったりの大騒ぎで、熱気と怒号が台風みたいな勢いで立ち上って渦巻いている。呑まれそうになる。ついつい、おれも暴れてみたいなんて思ってしまう。
やめてよね。ガラじゃないでしょ。おれはさ、のんべんだらりと生きていられりゃそれでいいっていう、ことなかれ主義の平和主義を信奉してんだよ。
乱戦のど真ん中のエアポケットで、おれのすぐそばに立つさよ子が「ああぁぁ」と大きなため息をついた。そして声を張り上げた。
「もうやめて! カイガさん、やめて。帰って! お願い!」
カイガと呼ばれたそいつが一瞬、動きを止めた。一瞬の隙を、煥は見逃さなかった。シュッと鳴った拳がカイガの顔を狙う。
「おっと」
カイガはバランスを崩しつつ煥の拳を避けて、地面に手を突いて鮮やかに後転した。何かの弾みで、フードが外れる。肩に掛かる長さのウェーブした黒髪が広がった。
額いっぱいに、つやめく漆黒がある。おれや煥、鈴蘭と同じだ。巨大な胞珠。それを持つからこその、あの身のこなしなんだろう。
さよ子はカイガと煥を交互に見つめて言った。
「いつもいつも、そんなやり方ばっかり。思いどおりに事を運ぶために、みんなそうやって戦うんですよね。何でそうなっちゃうんです?」
煥は、鼻で笑う表情を浮かべて、そっぽを向いた。カイガもまた嘲笑う表情で、さよ子に答えた。
「話してわかる相手なら、いちいち暴れる必要もないんでしょうが、あいにくと、ぼくは対等に話せる相手をなかなか見出せないんですよ。うかうかしていたら、自分の身が危うくなってしまう。さよ子さんも、経験からそれを理解しているはずですよ」
「でも、わたしはイヤなんです! そんなやり方じゃあ、きっと、めちゃくちゃになる日が来ます!」
「笑わせないでください。とっくにめちゃくちゃでしょう?」
理想だの正義だの、通用する世の中じゃあない。やっぱそうだよね。
カイガがさよ子のほうへ手を伸ばして、「こっちに来なさい」の合図をした。さよ子が唇を噛む。
鈴蘭がさよ子の腕にギュッと抱き付いた。
「さよ子、行っちゃダメ。わたしと一緒にいたら、絶対に安全だから。ね?」
カイガが鼻白んだ顔をした。
「絶対、ですか。何を根拠にそんなことを言うのか。絶対なんて言葉は、原理的にあり得ないものですよ」
ポンッ、と横合いから音がした。胞珠が破損する音だ。
おれは一瞬だけゾッとして、音の発生源を探す。
左目から血を流して、うつろな顔で立ち尽くす男がいる。よかった、文徳じゃなかった。それだけ確認したら、あとはもう関心が消えうせる。
カイガと二人の仲間は撤退を決めたようだった。カイガ以外の二人はなかなかの重傷だ。このまま粘っても得られるものはない、と判断したんだろう。
「また近いうちに皆さんとお会いすることになるでしょうが、今日のところはこれで」
三人とも、じっとさよ子を見ていた。さよ子は気丈に、にらみ返した。
さーっと波が引くように、乱闘は収束していった。カイガたちが立ち去ると、煥はようやく拳を下ろした。
鈴蘭は甲斐甲斐しく、煥のほうへ飛んでいった。
「煥先輩、ケガしてます。右のほっぺた、あざになって、ちょっと血も出てますよ。わたし、治しますね」
言うが早いか、鈴蘭は腕を伸ばして、煥の頬を手のひらで包んだ。鈴蘭の手のひらから、じわりと青い光が染み出す。鈴蘭の額の胞珠が明るく輝く。
「あれがあの子のチカラってわけ?」
鈴蘭は少し眉をしかめている。痛みをこらえるかのように。
さよ子が肩を落として、おれに言った。
「見てのとおり、鈴蘭は傷を治すことができるんです。治すべき傷の痛みを引き受けて我慢して、跡形もなくしてしまう。三日前なんて、煥先輩の骨折を治しちゃったんですよ。痛みでボロボロ泣きながら」
「へ~、けなげなもんだね」
「ですよね。だから、煥先輩、鈴蘭のこと気に入ってる。わたし、完璧に出遅れちゃいました」
「さよ子ちゃんは、あっきーのこと好きなの?」
「鈴蘭は、煥先輩を手に入れたいって言ってました。わたしにもその気持ちはわかるから、たぶん、わたしも同じです。煥先輩、カッコよくてキレイだから、ほしいです」
ほしいってのが、好きって気持ちとイコールなら。
おれは一世一代の大事なモノを失ったんだよな。
姉貴のこと、あいつに聞きそびれた。先にちょっかい出したのはこっちって、どういう意味だよ?
「場合によっちゃ、殺すよ」
うっかりして、声に出してつぶやいてしまった。
「え? 何か言いました?」
おれを見上げるさよ子に、笑顔の仮面で応じる。
【なーんにも。それより、腹減ってない? どっか飯食いに行こうよ。おごるからさ、デートとか。どう? 行こうよ。ね?】
「えええええっ、ま、またそんなデートだなんてっ! わ、わたし、鈴蘭とごはん行くことにしていましてですねっ」
ダイヤモンドみたいな両眼は、困った様子でキョロキョロする。おもしれー子。からかい甲斐があるし、落とし甲斐もあるってもんだよね。