視界にあるのは夜空だった。満月に少し足りない、明るい月。ほどほどに都会の夜景にかすむ星々。
「鈴蘭?」
呼ばれて、ハッとする。
亜美先輩がわたしの肩をそっと抱いた。振り返ると、赤い特攻服の男が二人、伸びている。
ライヴの後の光景。嫦娥《じょうが》公園の裏だ。亜美先輩が緋炎《ひえん》の二人を倒して、わたしは亜美先輩を刺さなかった。
時間が巻き戻った。ポーチの中で、ツルギの柄の形をした青獣珠が不機嫌そうな鼓動を刻んでいる。逆流して再開した時間のあり方を気持ち悪がっている。
長江先輩と海牙さんは違反者じゃなかった。
北口広場へと歩き出して、すぐに文徳《ふみのり》先輩と煥《あきら》先輩も合流する。煥先輩はまっすぐわたしに近付いてきた。
「鈴蘭、無事か?」
口調はぶっきらぼうで、ニコリともしていない。でも、心配してくれている? わたしはドギマギしてしまった。
「わ、わたしは何ともありません。青獣珠はちょっと、嫌がっている感じがしますけど」
煥先輩は顔を背けた。
「だったら別にいい。最初のとき、白獣珠は光って暴れて手が付けられなくて、オレも兄貴も驚かされたんだ」
「そんなに? 四獣珠って、それぞれ性格が違うんでしょうか?」
煥先輩はイヤそうに顔をしかめた。
「預かり手の性格に似るらしい。ふざけんなってんだ。オレはあんなにパニクらねぇよ」
「似てると思います」
「は?」
「あのっ、パニックになったっていうか、白獣珠は本気で怒ったんだと思います。殺されてはならない人が刺されて、それが許せなくて。煥先輩もそうですよね。潔白で正しい感情だと、わたし、思います」
勢い込んで言い始めたものの、最後のほうは声がしぼんでしまった。煥先輩はわたしに向き直って、微笑むのとは違う形に目を細めた。
文徳先輩が首をかしげた。
「また何かあったのか? 時間が巻き戻った?」
煥先輩はうなずいた。
「明日の昼休みから戻って来た」
「後でまた詳しく話せよ。履歴を記録しておく」
亜美先輩が苦笑いで提案した。
「今回はちょっと油断してたよ。次からは煥にも声かける。鈴蘭の護衛は、煥に任せるね」
「わかってる」
北口広場に戻ったら、長江先輩がわたしたちに手を挙げて、与えられた台本をこなすように駆け寄ってきた。
「文徳~! やっぱいいねぇ、瑪都流《バァトル》のロックは!」
にこやかに応じる文徳先輩。長江先輩のテレパシーがこっそりと告げる。
【っていう感じだったよね? しっかし、びっくりしたよ~。いっぺん完璧に死んだのがわかったからね、おれ。でも、ま、身の潔白の証明にはなったでしょ?】
かがみ込んでいた海牙さんがスッと立って、髪を掻き上げた。顔には、計算された微笑みがある。
「さて。改めて自己紹介が必要、というわけですか?」
煥先輩が何か言いかけた。文徳先輩が肩をすくめて口を挟んだ。
「おれも亜美も能力者じゃない。この場面は初めて経験するんだ。大都高校の彼の名前は知らない。どこかで見かけた気はするけど」
「予備校主催の模試の会場で会ったかもね。ぼくは阿里海牙、大都の三年です」
「ああ、なるほど。全国ランキング上位の常連だよな?」
「一応ね。伊呂波《いろは》文徳くんのことも聞いてますよ。ライヴ、お疲れさまでした」
長江先輩が海牙さんの肩を叩いた。
「この人、意外と強引だよ~。冷静そうに見えて、すっげぇ無茶すんの。どっちかが黒だったら、どうするつもりだった? 片方、あっさりあの世行きよ?」
「まあ、確かに。我ながら、感情的なことをしてしまいました。だけど、確信があったんですよ。ぼくは願っていない。リヒちゃんが願うはずもない。お互い、十七年の人生を懸けて誓えるでしょう?」
長江先輩が腕を広げてみせる。
「誓っていいけどね。それはともかくとして、明日の昼休みも屋上に集合ね。別の話、したいし。あ、何なら、平井のおっちゃんも来ます?」
水を向けられた平井さんが微笑んで、かぶりを振った。
「私は、自分では動いてはならないからね。必要だと感じたときに、きみたちが私のところへ来なさい。それが私の役割だ」
深みのある声だった。耳から聞こえる音だけじゃない「波長」も同時に孕《はら》む声だと、わたしは気が付いた。
わたしは平井さんに向き合った。
「ご存じかもしれませんが、安豊寺鈴蘭といいます。平井さんも能力者なんですか?」
【お察しのとおりだよ。私もチカラを使う。巻き戻しも感知している。数年後の未来で起こされた最初の巻き戻しはね、夢ではないのだよ】
声でない声が頭の中に響く。長江先輩の号令《コマンド》と似た声だけれど、チカラの声量が圧倒的に違う。平井さんの声には、凄まじい力感がある。ひれ伏してしまいそうになる。
【ああ、声が大きくて、すまないね。そう硬くならないでほしい】
思っていることを読まれた?
【聞こえてしまうのだよ。重ね重ね、すまないね。小さなチカラは、かえって制御しづらい】
小さなチカラ? テレパシーや読心術って、小さいの?
【宝珠にもさまざまなものがある。四獣珠クラスのサイズだけではない、ということだよ。いずれ話そう。場所は、そうだな、嫦娥公園はどうだろう? 白いツツジが美しく咲いている。夜の散歩には、もってこいだね】
きっと、それは予言だ。わたしは近いうちに嫦娥公園を訪れる。夜、そこで平井さんと話をする。
ひざが屈するのをこらえきれなくて、わたしは、ひざを折ってスカートをつまむお辞儀をした。
煥先輩が一歩、踏み出した。
「四獣珠よりもデカい宝珠がある。あんたはそれを預かってる。だから、オレたちよりデカいチカラを使える。そう言いたいのか?」
【負けん気を剥《む》き出しにされても困るよ。伊呂波煥くんは、やんちゃだね。若いなぁ】
「ナメんな」
【銀髪の悪魔、か。悪魔と呼ばれるには優しすぎるようだが】
長江先輩がパンパンと手を打った。
「はーい、そろそろ内緒話終了~。平井のおっちゃんのチカラ、反則っすよぉ? おれのと、かぶってんじゃん。小さいとか言われると、地味にへこむんだよね」
平井さんが穏やかに笑って、お口にチャックの仕草をした。ふっと重圧が緩んだ。
煥先輩が長江先輩をにらんだ。
「昼休み、屋上に行けばいいんだな?」
「何なら迎えに行こうか~?」
「いらん」
「つれないな~。男が迎えに来ても嬉しくない? かわいい女の子じゃなきゃダメ?」
「またそういうくだらねぇ話を……」
「あっきーの好みって、髪が長くて色白でもちもち系で、小柄でお目めキラキラな美少女って感じで合ってたっけ?」
「黙れ」
煥先輩は長江先輩の胸倉をつかんだ。長江先輩はニヤニヤしている。
「おっ、新事実に気付いた! 鈴蘭ちゃんって完璧じゃん。あっきーの好みのタイプ、ど真ん中!」
「ええっ?」
大声をあげてしまったのはわたしだ。慌てて口元を覆う。
煥先輩は横を向いて、乱暴な仕草で長江先輩から手を離した。長江先輩はニヤニヤ顔のまま、襟元を直しながら、煥先輩の顔をのぞき込む。
「おっや~? なんか新鮮なリアクションだね。心当たりあるわけ、あっきー?」
「どうでもいいだろ」
「よくないよくない! すっごい気になる!」
「くだらねえ。オレは誰も好きにならねぇよ。相手が迷惑するだけだろうからな」
煥先輩は吐き捨てて、北口広場の隅のベンチへ行ってしまった。
「ありゃ~。あんないじけ方するとは思わなかった」
長江先輩はポリポリと頭を掻いた。
迷惑なんてことないのに。煥先輩は知らないだけだ。小夜子は煥先輩のファンなんだよ。明日、やっぱり紹介してあげなきゃ。
文徳先輩が肩をすくめた。
「しょうがないだろ、あいつ。すぐにいじけるんだ。ちなみに、鈴蘭さんとしてはどう?」
「は、はい?」
「煥の好みのタイプって言われて、迷惑?」
「え、えっと」
「鈴蘭さんは、おれにも煥にも媚びない。しっかりしてるし、だから煥にいい影響を与えてくれるかなって、勝手にそんなことを思ってるんだけど」
「もしかして、それで煥先輩にわたしの護衛を?」
亜美先輩が文徳先輩を軽く叩いた。
「相変わらずお節介だね。ごめんね、鈴蘭。文徳が勝手なこと言って」
「い、いえ」
頭がぐるぐるする。文徳先輩は残酷だ。わたしの想いに気付ずに、わたしと煥先輩をくっつけようとしていて、でも、そこにまったく悪意はなくて。
悲しい。泣きたい。けれど、わたしは笑う。
「煥先輩は頼りになります。煥先輩がボディガードだなんて、ぜいたくです」
愛想笑いのお世辞。嘘じゃないけど、お世辞。
本当は文徳先輩に守ってもらいたい。文徳先輩の好みのタイプって言ってほしい。わたしが好きなのは文徳先輩だ。
でも、文徳先輩の心には亜美先輩しかいない。
帰り道、煥先輩はやっぱり無言だった。
夜更かしして勉強した。あれこれ考えてしまって集中できなかった。明け方近くにようやくベッドに入って、三時間くらいで目覚まし時計が鳴った。
四月十七日。巻き戻しが始まって三日目。もっと長い時間を過ごしているのに、まだ三日目だ。
朝食のとき、母がわたしの様子に眉をひそめた。
「眠れなかったの?」
「いろいろあって」
「失恋でもしたのかしら?」
「何でもないよ」
母は機転が利いて、ウィットに富んでいて、話が上手で、そしてプライドが高くて容赦がない。普段は母のこと好きだけれど、会話するのがきついときもある。
「何でもないという顔じゃないわ。恋の悩みじゃないの? それとも、青獣珠のこと?」
母は先代の預かり手だ。わたしが生まれる前はチカラを使えた。生まれ落ちたわたしが母のチカラを引き継いだから、今の母はチカラを持たない。
隠し事をよしとしない母に、すべて話してしまおうか。恋の悩みも預かり手の事情も。
口を開いたところで、声がのどの奥で凍った。わたしが果たすべき役割の重みが、寝不足の頭をガンと殴った。
己が預かる宝珠に願いを掛けることは禁忌で、ツルギは、禁忌を犯した預かり手を排除するための武器だ。
違反者はわたしじゃないと言いたい。でも、わからない。もしも違反者がわたしなら、わたしはもうすぐ殺される。そんなこと、母には言えない。
わたしはフォークとナイフを置いた。
「失恋したみたいなの」
ありふれた高校生の悩みを口にする。そう、こっちの問題だって、胸が痛い。
「失恋したではなく、したみたいと表現するのは、どういうこと?」
「その人が彼女持ちだって知らずに好きになって、それで、わたしが勝手に自爆した感じ」
「ああ、なるほど」
母は優雅に紅茶を口に含んだ。年齢より若々しい美貌を誇る母は、貿易会社の会長秘書の仕事をしている。会長というのは、わたしのおじいちゃん。母にとっては実の父親だ。
おじいちゃんは安豊寺家の入り婿だ。安豊寺家は昔から財力があるけれど、おじいちゃんはそれに頼らず、自力で自分の会社を大きくした。そういうたくましさがあればこそ、おばあちゃんはおじいちゃんに惚れたんだそうだ。
母はニッコリした。
「早く次の恋に進むことね。略奪しようなんて思っちゃダメよ。略奪愛になびく程度の男なら、惚れてやる価値もないんだから」
母は強くて美人でブレない。
大学教授の父もやっぱり入り婿だけれど、おばあちゃんは最初、結婚を許さなかったらしい。父が、おじいちゃんの会社を継がないと断言したから。
強引に結婚を押し通したのは母だった。既成事実をつくってしまった。つまり、それがわたし。
今では家族の中にトラブルなんてない。おじいちゃんと父は同じ立場だから仲がいいし、おばあちゃんは父の著書をよく読んでいる。
わたしは母に笑ってみせた。
「いろいろ、前向きに善処してみます」
メイドさんや門衛さんに見送られて家を出た。煥先輩が待ってくれていた。
「おはようございます、煥先輩」
煥先輩はうなずいて、わたしのカバンを持った。
歩き出して少し経ったころ、煥先輩はささやくように言った。
「一つ、訊いておく」
「何ですか?」
「あんたは、兄貴をどうしたいんだ?」
「どうしたい、って?」
煥先輩は黙っている。「兄貴とどうなりたい?」じゃなくて、「兄貴をどうしたい?」という訊き方が冷たい。
宝珠に願いを掛けて、相応の代償を差し出せば、どんなことでも現実になる。
「わたしなんでしょうか?」
失恋だと、もう理解している。わたしはこれからこの恋を枯らすことになる。
それとも、わたし、やっぱりどうしてもあきらめきれないの? 血まみれの結婚式の未来を引き起こすのはわたしなの?
煥先輩が足を止めた。わたしも立ち止まる。朝の風が、そっと吹いて過ぎた。煥先輩の銀色の髪が柔らかそうになびいて、金色の瞳がのぞいた。
「青獣珠に願ったのか? 何かを代償に差し出すと言った記憶があるか?」
「そんなことをした記憶はありません。過去の記憶は、ないです」
でも、記憶が消えた可能性もある。未来でそれを願う可能性もある。わたしの記憶なんて、曖昧なものでしかない。海牙さんがやってみせたみたいな、誰の目にも明らかな検証は、わたしにはできそうにない。
だけど。
「その言葉を信じる」
「煥先輩、どうして?」
「直感」
煥先輩は歩き出した。立ち尽くすわたしを振り返って、あごをしゃくって、行くぞと告げる。
でも煥先輩はわたしを嫌っているんでしょう? そう訊いてしまいたい衝動に駆られた。煥先輩にとって、わたしを信じたり護衛したりすることは、きっと苦しいに違いない。
わたしは、訊けなかった。あんたなんか嫌いだとハッキリ突き放されてしまったら、自分がどれだけ傷付くか、想像するのも怖かった。わたしはずるくて臆病だ。
登校してしばらくすると、ホームルームのチャイムが鳴って、担任の先生が小夜子を紹介した。
前の席の友達がわたしを振り返った。
「玉宮さんって、ちょっと鈴蘭と似てるね」
「似てる? そう?」
「髪がキレイなとことか、色白なとことか」
「玉宮さんのほうがよっぽど美人だよ」
「こら、美少女鈴蘭がそんなこと言うな。小柄で巨乳は最強よ、鈴蘭。さわり心地バツグンのマシュマロ乳でしょ」
昨日の夜、煥先輩の好みのタイプって言われたことを思い出す。本当かどうかわからないけど。
でも、もし本当だったら? この胸、かなりコンプレックスなんだけど、煥先輩ってこういうの好きなの? さわってみたいとか思うのかな? あんなクールな人が?
ホームルームが終わって、わたしは後ろからツンツンつつかれた。振り返ると、小夜子が微笑んでいる。
「やっぱり、髪、キレイね!」
「あ、ありがと」
「わたしのことは小夜子でいいから。鈴蘭でいいよね?」
「うん、よろしく」
記憶をたどる。小夜子と何を話したっけ? 髪の話をして、瑪都流のライヴの話をした。
「ねえ、昨日、瑪都流のライヴ聴いてた?」
「うん、大好きなの! 昨日、鈴蘭もいたよね!」
「聴いてたよ。ファン歴はまだ浅いんだけどね」
「わたしも同じ。本当にここ数日のことなの。でも、煥さんに一目惚れしちゃった。歌声も、たった一回で大好きになった」
小夜子の目が輝いている。
「煥先輩のこと、紹介しようか?」
提案した後、自分で驚いた。わたし、何を勝手なこと言っているの? わたしは瑪都流の中で何の権限もないのに。
小夜子が、ぱっちりした目を見張った。
「煥さんと知り合いなの? 紹介してくれるって、ほんと?」
「う、うん……大丈夫だと思う」
「じゃあ、お願い! 迷惑はかけないから! ちょっとだけ、煥さんと直接お話したいの!」
小夜子は、拝むみたいに両手を合わせた。くるくる変わる表情がかわいい。煥先輩も、小夜子のことをかわいいって思うよね。
胸がチクッとする。無理やり笑顔をつくる。
「放課後、瑪都流は軽音部の部室で練習してるの。部外者は近寄っちゃダメなんだけど、小夜子のこと、頼んでみるね」
「ありがと!」
わたしは三日月のアミュレットに触れた。放課後まで時間がちゃんと流れますように、と願った。
昼休みになって、わたしは屋上に向かった。
長江先輩の屋上プチハーレムは、今回もそこで開催されていた。広げられたレジャーシートの端のほうには「襄陽学園理事」と書かれている。理事長室の備品だ。
教室嫌いの人たちが屋上から立ち去るのを見送りながら、わたしは長江先輩に尋ねた。
「こういうこと、いつもやってるんですか?」
「まあね。いつも同じメンバーってわけじゃないけど。鈴蘭ちゃん、おれのこと気になる?」
「違います。でも、長江先輩がやっているのはカウンセリングみたいで、そういう意味では気になります」
「鈴蘭ちゃんの将来の目標だもんね~、スクールカウンセラーって。大学教授やってるおとうさんの影響?」
大学で教育心理学の教鞭を執る父は、著書もたくさんある。世間でもわりと有名なほうだ。でも、入り婿の父は、仕事の上では旧姓を使い続けているから、彼がわたしの父だと知る人は少ない。
「長江先輩、どこまで調べたんですか? どうして? 何のために?」
「気持ち悪~いって顔してるね」
「当たり前です」
「ま、気持ち悪いよね。申し訳ないな~とは思ってるよ。でもまあ、鈴蘭ちゃん自身じゃなくて、青龍の安豊寺のことを調べただけだから、勘弁してよ」
「四獣珠の預かり手は交流しないものでしょう?」
「基本的にはね。でも、こういう事態には仕方なくない?」
煥先輩が口を開いた。
「白虎の伊呂波のことも調べたのか?」
「ん、当然」
「じゃあ、話せ。オレのこのチカラは何なんだ? チカラがあるだけじゃない。時間の巻き戻しなんてものを感知できる。これはどういう状況なんだ?」
予想外の方向か、声がした。
「運命というものが、どういう姿をしているか、どういう比喩を以て語られるか、煥くんは聞いたことがありますか?」
海牙さんが貯水タンクの上から飛び降りてきた。足音がたたない。
煥先輩が眉をひそめた。
「いつからそこにいた?」
「今日は早めに到着していましたよ。一時間くらい仮眠していました」
早めに到着って。
「授業サボったってことですか?」
「ええ、サボりましたよ。受ける価値のない低質な授業ってあるでしょう?」
この人、敵が多そう。敵に回したくない不気味さもあるけれど。
煥先輩がスッと動いて、わたしをかばうように、わたしと海牙さんの間に立った。制服の背中に、小さなほころびがある。煥先輩は改めて海牙さんに問うた。
「運命の姿って、何だ?」
長江先輩と海牙さんが目配せした。海牙さんが話し手になる。
「運命はまるで多数の枝を持つ大樹だ、と『秘録』には書かれています。つまり、運命には枝分かれの可能性がある。この一枝とよく似た別の枝がほかに存在する。別の枝というのは、現代的に言えばパラレルワールドですね」
「運命の大樹、ですか」
「ええ。そこまでが『四獣聖珠秘録』に書かれた内容で、ここからは平井さんの受け売りです。枝という例えを使って語れば、今ぼくたちが存在するこの一枝は正常に生長していません」
「何が起こってるんですか?」
「この一枝は一度、今より数年後の未来まで伸びた。けれど、あることが原因で、成長が巻き戻った。巻き戻しは、病です。この一枝は病んでいるんですよ。原因が取り除かれない限り、病み続けるでしょう」
原因とは、預かり手が禁忌を犯したことだ。禁忌は、預かり守るべき宝珠に願いを掛けたこと。
海牙さんの視線は、わたしをとらえていた。煥先輩の肩越しに、じっとわたしだけを。海牙さんはやっぱり、わたしが違反者だと思っているの?
煥先輩が問いを重ねた。
「例え話はわかった。でも、前に聞いた話の繰り返しだ。表現を変えただけだろ。それとも、病んだ枝って例え方に意味があるのか?」
海牙さんが楽しそうに微笑んで、チラッと煥先輩を見やった。
「頭の回転、速いですね。的確な指摘です。一般的に考えてください。大きな樹の一枝が病気にかかったら、その樹はどうなるでしょうか?」
植物の病気? 詳しくはわからないけれど。
中学校の正面玄関にクスノキがあった。あるとき、一枝の葉っぱに黒い斑点ができると、やがてその一枝を発端に、斑点は木の全体に広がった。葉っぱが落ちて枝が枯れて、仕方なくなって木を切り倒したとき、幹の中身がスカスカの空洞になっていた。
「一枝が病んでいたら、大樹が枯れる原因になる?」
「正解です、鈴蘭さん」
海牙さんが一歩、足を踏み出した。右手がひらめいた。黒々と輝くツルギの柄が、いつの間にか海牙さんの手に握られている。
煥先輩が腕を広げた。
「待て。説明が足りてねぇだろ」
「十分じゃありませんか? この一枝の病因を取り除くのが、ぼくたちの役割。それも、できるだけ早いうちに。そうじゃなきゃ、すべてが崩壊するそうです。困りますよ。ぼくにだって、将来やりたいことがある。運命を枯らしたくはないんです」
海牙さんがツルギの刃を発生させた。ドクン、と強く青獣珠が鼓動した。玄獣珠がチカラを発するのに呼応したんだ。
煥先輩はわたしの前をどかない。
「腑に落ちねえ。わからねぇことだらけだ。違反者が掛けた願いって何だ? 禁忌と巻き戻しと、何の関係がある? ツルギで殺すと時が巻き戻るのはなぜだ?」
「ぼくにもわかりませんよ。だからこそ、仮説と検証のために積極的に動いてみるしかないでしょう?」
「仮説だの検証だの、オレにはわからねえ。でも、一つわかる。あんた、あせってるだろ。時が巻き戻ったときの白獣珠みてぇだ。何をそんなに嫌がってんだ?」
海牙さんが声をたてて笑った。乾いた笑い声は少しも楽しそうじゃなかった。
「煥くんは、白獣珠を好きですか? 自分にチカラがあること、受け入れてます?」
「何だよ、それ?」
答えは返ってこなかった。
がっ、と鈍い音が聞こえた。煥先輩が海牙さんの飛び蹴りを受け流したところだった。海牙さんの突進は速すぎて、わたしには見えなかった。
わたしは思わず後ずさる。
煥先輩と海牙さんが戦っている。二人の息遣いが聞こえるくらい近いのに、動きを目で追えない。
海牙さんの動きは、しなやかすぎて速すぎる。力学《フィジックス》のチカラによって計算し尽くされた動きだ。応戦する煥先輩も、当然ながら凄まじく速い。
「そこをどいてもらえませんか?」
「断る」
「先にきみを刺しますよ」
「やれるもんなら、やれよ」
わたしはへたり込んだ。
「どうして……」
海牙さんがツルギを振るう理由はわかる。わたしを刺せば役割を果たせると考えているからだ。そうじゃないとしても、さっさと仮説を検証するには、疑わしい人を殺してみるのが手っ取り早い。わたしもそれは理解している。
煥先輩がわたしをかばう理由こそ、わからない。海牙さんは十分に説明してくれたと思う。海牙さんがわたしを疑うのも、ちゃんと筋が通っている。それに、煥先輩、わたしのこと嫌いでしょう?
「待てって言ってんだよ!」
煥先輩が海牙さんを蹴り飛ばした。海牙さんは、くるりと宙返りして降り立つ。煥先輩との間に距離ができる。
「さすが、悪魔と恐れられるだけありますね」
煥先輩は両腕を前に突き出した。手のひらの正面の空間が、まばゆい白に光る。光は巨大な正六角形に広がった。
「突っ込んでくるなよ。焼け焦げるぜ」
「これが噂に聞く障壁《ガード》ですか。なぜそこまでして彼女をかばうんです?」
「話の運びに納得がいかねぇからだ」
白く透ける光の壁の向こうで、海牙さんが、ふぅっと大きく息をついた。右手のツルギから刃が掻き消える。
「銀髪の悪魔は、意外と平和主義者なんですね」
「普通だろ。いきなり斬り掛かるあんたのほうが変わってる」
「変わり者なのは自覚していますよ。仕方ないな。出直します。きみに出された三つの宿題、調べておきますよ」
「宿題?」
「違反者の願いの内容、禁忌と巻き戻しの関係、ツルギが巻き戻しの要因になる理由。その疑問が解ければ、きみも納得するんでしょう?」
煥先輩はうなずいて、質問を一つ付け加えた。
「兄貴の結婚式の未来、どの程度覚えてる?」
「おおよその印象、といった程度です」
「理仁は?」
「右に同じ」
みんな同じくらいの覚え方なんだ。わたしもそう。血の赤さだけはハッキリ覚えている。倒れていた新郎新婦の正体には、後になって気付いた。
煥先輩が低い声で訊いた。
「自分が殺された場面も覚えてるか?」
「おそらく」
「おれも、たぶん」
「鈴蘭は?」
わたしは息を呑む。
「自分が殺された場面?」
わたしは、殺戮《さつりく》の場面を外から見ていた気がする。でも、あの願いを内側から聞いていた気もする。あのとき、わたしはどこにいたの?
海牙さんが目を細めた。
「ツルギを振るう人物の姿、見てないんですか?」
「えっと……」
「ぼくは黒髪の女性だと思いましたよ。皆さんも見たでしょう?」
沈黙。
チャイムが鳴った。
海牙さんは、帰ります、と言ってきびすを返した。ヒラリとフェンスを越えて、飛び降りていく。
長江先輩が大げさに腕を広げた。
【あ~ぁ、そんな目立つことやっちゃって。校庭の皆さ~ん! 海ちゃんの姿を見ても、見なかったことにして! 全部、忘れてね!】
煥先輩が障壁《ガード》を消した。長江先輩がレジャーシートを畳む。わたしは呆然と座り込んだまま、頭が働かない。
長江先輩がレジャーシートを抱えて、屋上の出入口のドアを開けた。
「お二人さん、まだここにいる? 好きに使ってくれていいよ。屋上に近寄るなって、全校に号令《コマンド》してあるから。んじゃね」
手を振って、長江先輩は校舎に入っていった。
煥先輩は、ぶっきらぼうにわたしに言った。
「授業、遅れるぞ。さっさと教室に帰れ」
わたしはのろのろと立ち上がった。視界の高さが変わると、赤い色が見えた。
「煥先輩、ケガしてます。左の頬」
一文字の切り傷だ。煥先輩は傷に触れた。長い指の先に付いた血をじっと見て、ぺろりとなめる。
わたしはドキッとした。
煥先輩の舌も唇も柔らかそうだった。少し節っぽい指の形がキレイだ。えぐみがあって塩辛い血の味は知っているのに、煥先輩の血は、なんだか甘いもののように見えた。
色気という言葉の意味がわかった気がする。
ドギマギするわたしには目をくれずに、煥先輩はつぶやいた。
「あいつ、なんか必死だったな。本気で斬り掛かってきやがった」
海牙さんを心配しているみたいだ、と思った。煥先輩って、全然笑わないけれど、本当はとても優しい人なのかもしれない。
「煥先輩、どうしてわたしをかばったんですか?」
「そうすると決めたから」
「でも」
「刺されてみたいなら、オレが刺してやる。その覚悟が決まらねぇなら、無理強いしねえ。それだけだ」
わたしが違反者だと思っているのか、いないのか。仮にわたしが違反者だとしても、関係ないのか。
煥先輩の言葉はシンプルすぎて、何を考えているのかわからない。
「傷、治します」
「いらねえ。このくらい、すぐ治る」
「治させてください。ライヴのとき、お客さんに心配されますよ」
煥先輩はうんざりした表情で、わたしのほうに左頬を向けた。
わたしは煥先輩の左頬に手をかざした。吐き切った息を、ゆっくりと吸う。淡い青色の光が手のひらから染み出して、傷の痛みを絡めて吸い取っていく。
チリッと、わたしの左頬に熱が走った。ケガをしたことのない場所に、感じたことのない痛みがある。
一度、息を吐く。再び息を吸う。
スーッと、痛みが引いた。煥先輩の頬に、もう傷はない。わたしは手を下ろした。
「痛みを吸い出すイメージって言ってたか?」
「あ、はい」
「今、なんとなくわかった。呼吸が同期する感じだった」
煥先輩の切れ長な目を覆うまつげは長くて色が薄くて、キラキラしている。横顔がとてもキレイだ。額から鼻筋にかけての線はシャープで、薄い唇と細めのあごがどこか幼い印象で。
どうしよう。胸がドキドキして痛い。
わたしは煥先輩に見惚れてしまった。胸をときめかせてしまった。文徳先輩に失恋した傷をごまかすみたいに。
「わたし、教室に戻ります」
つぶやいて、逃げ出す。
「鈴蘭」
呼び止められて振り返ると、煥先輩はこっちを見ていなかった。
「何ですか?」
「……ありがとう」
お礼なんて、不意打ちすぎる。わたしはあせって、話をそらした。
「ほ、放課後、かわいい子を紹介しますね。煥先輩のこと好きなんだって」
煥先輩がリアクションする前に、わたしはドアに飛び込んだ。
授業開始ギリギリに教室に戻った。小夜子が後ろからわたしをつついた。
「鈴蘭、顔色悪いよ。昼休み、どうしてたの?」
「ちょっとね」
「保健室、行ってきたら?」
「んー、ただの寝不足だから大丈夫」
嘘だって、ばれたのかもしれない。小夜子は大げさに目を丸くしてみせて、冗談っぽく言った。
「寝不足って? もしかして彼氏?」
「彼氏だったらいいけど。予習と課題が終わらなくて」
「丁寧にやってるみたいだもんね。午前中の授業で、チラッと見えたんだけど」
「要領が悪いだけだよ」
先生が教室に入ってきて、会話を中断する。
小夜子との何でもない話のおかげで、少し気分がまぎれた。小夜子は美人だし、いい子だ。煥先輩に紹介しなきゃ。
授業が進んでいく。わたしは集中しようとしてみたけれど、うまくいかなかった。
=======================
From : princess-blue-moon@**.**
To : 自分_Akira_Iroha
Sub : 新曲ステキです!
20XX/4/16 22:07
=======================
瑪都流の煥さま
ライヴ、お疲れさまでした!
新曲の「ビターナイトメッセージ」、
聴けるのを楽しみにしていました。
サビのところ、ちょっと覚えました。
歌詞が仕上がったばかりなんですよね?
今まで思い付かなかった歌詞が、
ふっと湧いてきた感じですか?
そういうとき、
何かきっかけがあるんですか?
いつもメロディが先にあって、
後で歌詞を書いているそうですね。
メロディを作るのは、おにいさんで。
兄弟仲がいいんだな、と
ライヴを聴きながら感じます。
わたしは一人だから、うらやましいです。
それでは、また。
ブルームーンより、願いを込めて。
歌うあなたに、幸運な未来を。
○.:*゚Blue Moon*゚:.○
=======================
座標
A(鈴蘭自宅,4月15日6:40,夢中流血)
B(下校途中,4月15日19:14,緋炎狂犬)
C(嫦娥公園裏,4月16日21:21,鹿山亜美)
D(学園屋上,4月17日13:14,阿里海牙・長江理仁)
零幕:学園皇子
[4月15日朝→4月15日放課後]
一幕:時流異変
[4月15日放課後→座標A→4月15日放課後]
二幕:路上奏歌
[4月16日朝→座標B]
三幕:争士到来
[4月16日夜→座標C]
四幕:屋上戦線
[4月16日夜→4月17日昼]
放課後になった。
勝手なことをしたら怒られるかもしれないと思いながらも、引っ込みがつかなくて、わたしは小夜子を連れて軽音部室に向かった。
軽音部にはいくつものバンドが所属している。部室は二つあって、人気と実力がナンバーワンのバンドが一つを占領する。残りのバンドはもう一つをシェアする。それが襄陽学園の軽音部のルールらしい。
今のナンバーワンは、当然のごとく瑪都流《バァトル》だ。瑪都流が使っているほうの部室は、もう一方より少し狭いけれど、音響設備がすごくいいんだって。
そういう話を、小夜子に聞かせてあげた。わたしもつい最近知ったばかりの情報だけれど。
わたしたちが軽音部室に着いたとき、文徳《ふみのり》先輩がドアの鍵を開けるところだった。
「あれ、鈴蘭さん? 今日は図書室じゃないんだ?」
「友達を、煥《あきら》先輩に紹介したくて。小夜子は煥先輩の大ファンなんです」
小夜子がペコッと頭を下げた。サラサラの髪が弾む。
「初めまして、玉宮小夜子です! どぉぉしても煥さんにお会いしたくて、鈴蘭に無理を言って、連れててもらいました。お邪魔かとは思ったんですけどっ」
文徳先輩がクスッと笑った。
「珍しいね、煥に会いたい子だなんて。あいつ、見た目が怖いだろ? 愛想ないし。おかげで、近寄ってくる女の子はめったにいない」
「だけど! 煥さんって、本当は優しい人ですよねっ? 歌を聴いてたらわかります。すごくピュアで優しいです!」
そこまで断言できる小夜子がすごい。
確かに、煥先輩はケンカが強くて無愛想なだけの人ではないけれど、感情がわかりづらくてミステリアスで、接し方がわからない。
文徳先輩は部室の中を指差した。
「小夜子さん、だっけ? 煥はもうしばらく来ないと思う。よかったら、中で待ってて。ついでに練習を見学していく?」
「いいんですか!」
「今日だけ、特別にね。鈴蘭さんも一緒にどう?」
文徳先輩のお誘いがあって、小夜子も「一緒にいたい」と言ってくれて、わたしは瑪都流の練習を見学することにした。
そうこうするうちに、雄先輩が来た。亜美先輩と牛富先輩も、まもなく合流した。
文徳先輩がちょっとおどけた。
「今日の練習はお客さんがいるんだ。しかも、学園きっての美人が二人。気合いが入るよな」
わたしは亜美先輩の手前、恐縮してしまった。でも、亜美先輩は平然として、怒るどころか同意してみせた。
「そうだね。今年の一年はかわいい子が多いよ。寧々もかわいいし」
わたしと小夜子は、部室の隅の丸椅子に並んで腰掛けた。
数日前までロックという音楽をまともに聴いたこともなかったのに、今こうして軽音部の練習を見学させてもらっている。不思議な巡り合わせだ。
「でも、今日もまた夜更かしだな。予習とか課題とか多くて、終わらないよね」
「鈴蘭、ごめんね。わたしのわがままに付き合わせちゃって」
「あ、ううん、平気。わたしも見学してみたかったし」
「だったらいいんだけど。でも、課題の多さはすごいよね」
「みんなSNSでうまく情報交換してるでしょ? わたし、あれできなくて」
「鈴蘭、スマホじゃないケータイだもんね」
「必死でメールだけ覚えたの。それ以外、ほんとにできないの」
「メールだけって、むしろ珍しくない?」
「子どものころにおばあちゃんから叩き込まれて、それっきり進歩できてないんですー」
「スマホやパソコンのほうが簡単だと思うけどな」
楽器が音出しを始めると、かなりの音量だった。小夜子との会話もままならない。音の大きさに慣れるまでに、しばらくかかった。
ドアが開いた。煥先輩だ。
銀髪の姿がのぞいた途端、小夜子が椅子から立った。口元を押さえて、みるみるうちに赤くなる。
煥先輩はドアを閉めながらこっちを見て、訝《けげん》そうな顔をした。文徳先輩がギターをスタンドに立てた。ほかのメンバーも音を止める。
文徳先輩がわたしに目配せした。わたしは小夜子の背中を押すけれど、小夜子は固まっている。しょうがないから、わたしは小夜子の手を引っ張って、煥先輩のところへ連れていった。
「煥先輩、紹介します。この子は、同じクラスの玉宮小夜子。瑪都流のファンで、煥先輩の大ファンだそうです」
「す、鈴蘭っ」
「ほんとのことでしょ?」
「で、でも、本人の前でそんな……」
「はい頑張って!」
わたしは小夜子を煥先輩の真正面に押し出した。小夜子がチラッと振り返る。真っ赤な顔で、うるうるの目。盛大に、恋する乙女しちゃってる。
小夜子が煥先輩に向き直った。
「お、お会いするのは初めてですね。勝手に一方的に、見つめてたんですけれども。わ、わたし、玉宮小夜子ですっ。高一で、十五歳で、えっと……か、彼氏はいませんっ。一人もいないです、いたことないです!」
ヒュウ、と雄先輩が口笛を吹いた。牛富先輩が声を殺して笑っている。
煥先輩が、見せたことのない表情をした。眉根を寄せて目をパチパチさせて、中途半端に口を開いたまま、顔がだんだん赤くなってくる。明らかに困っている。
「ど、どうして、オレなんか……」
煥先輩、その質問、地雷です。
小夜子が煥先輩に詰め寄った。
「駅前でのライヴ、ステキでした! 煥さんの声、一瞬で好きになりました。煥さんの姿にも、一瞬で惹かれました。もう、カッコよすぎます! 大好きです!」
小夜子は勢いよく言い切った。言った後で、バッと口を覆った。悲鳴をあげてわたしに抱き付く。
「ちょっと、小夜子?」
「きゃぁぁぁ、勢い余りすぎたよぉぉぉ!」
「今の、事故?」
小夜子がガクガクうなずく。瑪都流のメンバーが笑い出した。煥先輩だけ、真っ赤な顔で取り残されている。
煥先輩はわたしと目が合うと、そっぽを向いた。小夜子のサラサラの髪は、とてもいい香りがした。
そういうわけで、本格的に練習を始めるまでに時間がかかった。
牛富先輩はしばらく笑い転げていたし、文徳先輩は煥先輩をからかい続けていたし、ブログ担当の雄先輩はスマホにメモを取っていたし。
最終的に、亜美先輩が男四人を取りまとめた。「いい加減にしな」って叱咤して、頭を抱える煥先輩をマイクの前に立たせて、とりあえず事態収束。
「ほら、さっさと練習始める! 昨日のライヴの反省点、覚えてるよね? 一つずつ潰していくよ!」
ライヴの反省点は、活動記録のブログとは別の、鍵のかかったブログで共有しているんだって。いくつかの項目を確認し合ううちに、みんなの表情が引き締まってくる。
亜美先輩と牛富先輩が、提案されたリズムフレーズを合わせてみる。文徳先輩が雄先輩のシンセサイザーの音色に指示を出す。煥先輩はイヤフォンを付けて目を閉じて、歌の世界に入っていく。
しばらくそんな時間が流れた。それぞれの楽器が自分の音色を確かめながら、次第にゆるゆると、誰からともなく歩み寄っていく。
煥先輩がイヤフォンを外した。アイコンタクトが飛び交った。文徳先輩がキャッチ―なフレーズを弾き始めて、それが合図だった。
曲が始まった。
瑪都流の結成当時から演奏してきた、と昨日のライヴで聞いた曲だ。文徳先輩が初めて作曲して、煥先輩が初めて詞を書いた思い出の唄《うた》だという。
ギリギリのところで揺れる心そのものみたいな、攻撃的で繊細で泥だらけでキラキラした、アップテンポのロック。
生のドラムが全身にビリビリと響く。高音質のシンセサイザーがまばゆい音色を放つ。昨日のストリートライヴでは聴けなかった二つの楽器の叫びを、わたしは初めて体感している。
密閉された部屋の中では、音が空に吸い込まれる野外とは、すべての楽器の響き方が全然違う。ベースの存在感は太くて、おなかの底を揺さぶられる。ギターの高鳴りは、生き物の咆哮みたいに躍動的だ。
何より、煥先輩の声に圧倒された。同じ狭い空間でその声を聴けるのは、この上ないぜいたくだ。
透明感と野性味が重なり合う声だ。硬質で、だけどしなやかで。十分に低くて、でも少年的で。美しいという一言でくくってしまうのは、なんだか違う。尖った何かを秘めた、独特の気品と気迫が、聴く人の胸にまっすぐに突き刺さって、そして柔らかく染み入ってくる。
小夜子は煥先輩だけを見つめている。煥先輩は、どこでもないどこかを向いている。ひねくれた優しさを歌う正直なまなざしは、銀色の前髪に隠れがちだ。その前髪にいつしか宿った汗のしずくが、ふとした瞬間、キラリと弾ける。
瑪都流《バァトル》の意味をライヴのMCで聞いた。バァトルとは、勇者だ。ユーラシア大陸に伝わる古い言葉らしい。
その昔、バァトルの称号を贈るのには、敵も味方もなかったという。バァトルは勝者に限らない。誰よりも強く誇り高く、命を懸けて戦う者こそが、勇者と呼ばれるにふさわしい。
瑪都流の面々は、何曲か続けて、通しで練習した。その後、それぞれ自分のパートを練習し始める。
あれをやろうこれをやろうっていう指示があるわけじゃなかった。同じリズムで、暗黙の了解で、全員が動いている。
文徳先輩がギターケースから一冊のファイルを取り出して、それを手に、わたしたちのところへ来た。
「退屈してない?」
「そんなことないです」
文徳先輩はわたしにファイルを手渡した。
「これ、煥が書いた詞。読んでやってよ」
わたしと小夜子は目を見合わせて、ルーズリーフが綴《と》じられたファイルを開いた。
煥先輩の書く字を初めて見た。キレイな字とはいえない。ちょっと幼い印象だ。でも、一字一字、丁寧に刻み込むように書かれている。
綴じられた中でいちばん上にあるのは、新曲の歌詞だった。タイトルは『(仮)ディア・ブルームーン』が二重線で消されて、『ビターナイトメッセージ』という決定版が書き添えられている。
文徳先輩が詞の一ヶ所を指差した。サビの終わりのほうだ。
「青い月のフレーズ、ここがなかなか決まらなかったんだ。流れ星とか、天の川とか、ダークマターとか、煥もいろいろ試してたんだけど」
青い月よ 消えないで
この胸の叫びは飼い慣らせないから
十六日のライヴでは、二回披露した。わたしは合計四回、聴いたことになることになる。印象的なサビはもう覚えていた。
口ずさんでみたとき、小夜子と声が重なった。小夜子も覚えているんだ。
文徳先輩がニッコリした。
「女の子の声で聴くと、やっぱり違うね。華やかになるよな」
小夜子は首を左右に振った。
「煥さんの声じゃなきゃダメです。青い月って、あの切ない声が忘れられません。月を探すみたいに、空を見て歌ってましたよね。その姿も、涙が出そうなくらいステキでした」
小夜子の黒い瞳に光が躍っている。