最終下校時刻まで長いようで短かった。
 わたしは図書室から出て、暗い廊下を歩く。プレートに「軽音部室」と書かれたドアの前で、少し待った。
 やがてドアが開いた。煥先輩がわたしを見付けて、ふぅっと息を吐いた。
「逃げ出すんじゃねぇかと思ってた」
「え? 逃げ出す?」
「明るいうちに帰れば、路地であんな目に遭わない」
「だって、文徳先輩のケガ、放っておけません」
 あの痛みを、また引き受けないといけない。思い出すだけで背筋が震える。でも、やらなきゃ。
 失礼しますと言って、わたしは部室に入った。
 文徳先輩は床に座り込んでいた。タオルで血を押さえながら、苦笑い。
「ごめん。煥に事情を聞いて、気を付けてはいたんだ。でも、結局やっちまった」
 煥先輩、話したんだ。何をどんなふうに言ったんだろう? わたしの知らないことも知っているの?
 いや、あれこれ考えるより、治療が先だ。わたしは文徳先輩のそばに座った。タオルをどけて、文徳先輩の手に触れる。
 男の人の手だ。わたしの手とは形が違う。一瞬ためらってしまったのは、昨日の路地でのことを思い出したから。
 気持ちの悪い手がわたしの素肌の上を這い回った。信じられないくらい強い力で、わたしのカラダをつかんで。
 違う。あんなやつと文徳先輩の手を一緒にしちゃいけない。
 大丈夫。文徳先輩の手は、乱暴なんかしない。少しも怖くない。
 青い光がわたしの手からあふれる。息を吸いながら、痛みを吸い出す。覚悟していても、やっぱり痛い。
 文徳先輩が吐息交じりに言った。
「傷が、消えた……」
 わたしは文徳先輩から手を離して、おそるおそる顔を上げた。
 文徳先輩がニコッとした。ぐるっと見渡すと、いかつい体格の男の人、優しそうな印象の男の人、背が高くて髪が短いキレイな女の人が、三人とも温かい目をしている。
 みんな、わたしを怖がってはいない。
 少し離れて立つ煥先輩は、わたしと視線が絡むと、金色の目をスッとそらした。
 わたしは改めて文徳先輩を見つめた。
「このことは……お願いします。秘密に、しておいてください」
「わかってるよ。まずは、ありがとう。危うくギターが弾けなくなるところだった」
「お役に立てて嬉しいです」
 わたしはようやく笑い方を思い出した。Tシャツ姿の文徳先輩に、ドキドキしてしまう。筋肉のついた腕。うっすら透けた静脈。
 文徳先輩が部室の面々を紹介した。
「ゴツいのが、ドラムの牛富《うしとみ》。隣の優男が、シンセサイザーの雄《ゆう》。紅一点が、ベースの亜美《あみ》。牛富と亜美が三年で、雄が二年。全員、おれと煥の幼なじみだよ。預かり手の事情はわかってる。煥も、鈴蘭さんと同じだからな」
「白虎の家系が、伊呂波家なんですか?」
「そういうことだ。古い時代には、伊呂波家は名のある武家で、牛富と雄と亜美の家は伊呂波の家臣団だった。今はまあ、上下関係なんてないけどね。安豊寺家は、青龍?」
「はい」
 亜美先輩が、座り込んだわたしに手を差し出した。キリッとした感じの美人だ。女性劇団の男役トップスターって感じ。
「初めまして。鈴蘭ちゃんっていうの? 一年なんだ?」
「はい。進学科一年の、安豊寺鈴蘭です」
 わたしは亜美先輩の手を取って、立たせてもらった。亜美先輩、やっぱり背が高い。雄先輩と同じくらいある。わたしとは二十センチ以上違うと思う。
 文徳先輩が宣言した。
「今日はそろそろお開きにするか。明日のライヴに備えて、今夜は勉強しとけよ」
 了解、と牛富先輩と雄先輩が苦笑いした。亜美先輩が肩をすくめる。
 楽器の片付けが終わるまで、わたしは待っていた。文徳先輩の姿を目で追ってしまう。
 文徳先輩はスピーカーの電源を落として、広げていた楽譜をまとめてカバンに入れた。ギターの弦は一本切れていて、文徳先輩は、それをどうしようかなって顔をして、結局そのまま黒いケースにしまい込む。
 生徒会長じゃない姿だ。見たことのない仕草、少し崩した服装。ひょいと首や肩を回したりする、油断しきった動き。
 口元の微笑みは、癖になっているのかな? いつも唇の両端が持ち上がっているんだ。本当に笑うときだけ、頬にえくぼができる。
 サラサラな栗色の髪。地毛であの色なんだって。肌も白いほうで、目は赤っぽい茶色で、ちょっとハーフっぽい雰囲気もあるんだけれど、切れ長な目元は東洋的な美しさだ。
 部室の片付けを終えて、きちんとした制服姿に戻って、文徳先輩が部室の鍵を閉める。
「おれと煥で、鈴蘭さんを送って行くよ。先に、鍵を職員室に返してくる。鈴蘭さんと煥は、生徒玄関で待ってて」
 そういうわけで、亜美先輩たち三人とは生徒玄関で別れた。三人とも徒歩通学なんだって。三人とご近所さんで幼なじみの文徳先輩と煥先輩も、同じく徒歩通学だ。